スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

全日本プロレス超人伝説&フォールブルフ

2015-08-11 19:11:25 | NOAH
 入団前の鶴田の経歴に,僕の勘違いが含まれていたことを教えてくれたのは門馬忠雄の『全日本プロレス超人伝説』でした。
                         
 著者の門馬は元東京スポーツの記者。運動部長,編集委員を歴任した後,1986年に退社。以降はフリーのプロレス評論家として活躍しました。国際プロレスがテレビ東京で放映されていた頃,解説者を務めていたとのことですが,これはプロレスキャリアの開始以前なので僕は知りません。ただ,その後,テレビ東京で世界のプロレスが放映されていた頃も,解説を務めていた記憶が僕にはあり,そちらの方は視聴していました。
 昨年7月に発行された本ですが,ここでいう全日本プロレスは,馬場の全日本プロレスのことです。したがって,馬場の死後に全日本プロレスで試合をしたレスラーについては一切の言及がありません。
 タイトルの超人は基本的にレスラーのこと。15人が個別に紹介され,それが纏まって1冊の本になっています。基本的にといったのは,最後の第13章はジョー・樋口になっているからです。確かに樋口も元レスラーではありますが,馬場の全日本プロレスの樋口はレフェリー兼外国人係であったといわなければなりません。
 第1章はもちろん馬場です。以下,ジャンボ・鶴田,白覆面の魔王といわれたザ・デストロイヤー,黒い呪術師ことアブドーラ・ザ・ブッチャー,仮面貴族ことミル・マスカラスと続き,意外にも第6章は大仁田厚です。第7章はドリーとテリーのザ・ファンクスそして第8章が不沈艦ことスタン・ハンセンと超獣ことブルーザー・ブロディ。この2章はふたりずつですから,全13章で15人になります。第9章以下は,ザ・グレート・カブキ,三沢光晴,小橋建太,天龍源一郎と続き,ラストが樋口です。
 長く活躍した記者で,いくつかの秘話も明かされています。いずれはそうしたことについても書いていくことになるでしょう。

 スピノザがライデン郊外のレインスブルフRijnsburgからデン・ハーグ郊外のフォールブルフVoorburgに移ったのは,時期まで特定することができます。
 『スピノザ往復書簡集Epistolae』書簡十二はスピノザがマイエルLodewijk Meyerに宛てたもので,1663年4月20日付です。この手紙の最後のところで,スピノザは移転の日がもうすぐであると書いています。書簡十三は同じ年の7月にオルデンブルクHeinrich Ordenburgに宛てたもの。この書簡の冒頭には4月にささやかな家財を当地に運んだとあります。フォールブルフから出された書簡なので,当地とはフォールブルフを指すことになります。つまりスピノザは1663年4月の,おそらく下旬にフォールブルフに移ったことになります。スピノザはさほど多くの私財を持っていたとは考えにくいので,ささやかな家財といっているのは,謙遜だけではないでしょう。家財のうち最も値打ちがあったのはレンズを研磨するための道具であったか書物であったかだと思われます。
 フォールブルフではダニエル・ティードマンという人物の家に寄宿しました。『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』では,ティードマンはコレギアント派collegiantenの傾向があったので,友人たちからの薦めでこの人の家に下宿することになったのではないかと推測されています。軍人でもあり,画家でもあったと書かれています。
 スピノザとホイヘンスChristiaan Huygensの弟には共通の趣味があり,そのひとつが絵を描くことでした。また,『スピノザの生涯と精神』のコレルスJohannes Colerusの伝記では,スピノザは自画像も含めた肖像画を描くことを好んだという主旨の記述があります。スピノザが絵画の技能を習得したことと,宿主のティードマンが画家であったことの間には,何らかの関連性があると僕は思っています。
 スピノザはこの後,おそらく1669年の押し詰まった頃か,1670年の初めに,デン・ハーグ市内に移ることになります。したがって,「天文学者」が描かれたとされる1668年の時点では,スピノザはフォールブルフに住んでいたということになります。マルタンはこのことに関しては何も述べてはいないのですが,「天文学者」のモデルがスピノザであることの推理には,多少の意味を有すると思われます。
コメント
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