博多で指された第56期王位戦七番勝負第四局。
羽生善治王位の先手で広瀬章人八段の四間飛車穴熊。先手も居飛車穴熊の相穴熊に。後手が4三の銀を5四に出て,▲5五歩と突かせて4三に戻り,4四に上がるという新作戦。ですがこれはあまりよくなかったようで,1日目で差がついたようです。相穴熊は意外と序盤が大事なので,こういうケースもまま生じます。
今日の昼食休憩時の局面。僕が今日アクセスしたのはここだけで,先手がよいにしても簡単にはいかないのかもしれないと思いました。
▲5三歩と垂らしました。対して△6一金寄が最善だったそうですが,そういう手が最善手なら,やはりすでに先手がよいと判断してよいものと思えます。実際の指し手は△5一飛。
そこから▲3三歩成△同角▲3七桂と桂馬を使いにいきました。違和感があったのですが,正しい指し方だったそうです。△5三金▲3四飛△5七歩成▲3五飛。
と金は金と同じなので,銀損でも優勢や互角というケースもありますが,このと金は後手の駒と交換の見込みがしばらくはありませんので,はっきりとした差がついてしまったといえそうです。
羽生王位が勝って3勝1敗。第五局は来週の水曜と木曜です。
スピノザが心底から信頼していた友人は,生涯でもそう多くなかったと思います。ですが交友関係は幅広く,その中にはコンスタンティンのように,党派的には相容れない人物も含まれていました。また哲学する自由に嫌悪感を抱くような反動的な人物も含まれています。そういった人びとと私的に交流できたのは,スピノザにはある種の人あたりのよさとでもいうべきものがあったからかもしれません。
僕がパフォーマンスとみなすアムステルダムからの追放のとき,スピノザを迎えに来た軍人はみなカルヴィニストで,公務の遂行上で仕方がないこととはいえ,スピノザと同行することを恥じていたとファン・ローンは書いています。しかし船が出るまでの短い間に,かれらとスピノザはすっかり打ち解け,出航のときには軍人たちは帽子を振って別れを告げたとしています。
こうした資質というのは,天性のものであったかもしれませんが,スピノザ主義から必然的に生じる性向であると規定することもできます。ただ,僕からみても,スピノザのこの面の資質というのは,きわめて特異なものと思えるのです。というのはスピノザは,相手がどんな人物であったとしても,交流すること,端的にいえば会うということや文通するということですが,そうしたことを拒まなかったように思えるからです。『スピノザ往復書簡集』には,友人と会うのに忙しくて返事をするのが遅れてしまったという主旨の記述が多くあります。そうした会見のすべてが,スピノザにとって実りのあるものであったとはいえないと僕は思います。むしろ手紙の返事を書く方が,実益という意味では大きい場合もあったろうと思えるのです。ところがスピノザは,自身に会うことを求めてくるような人物に対しては,どんな相手でもその求めに応じていたように思われます。
1654年のペストの流行で,別荘に滞在していたホイヘンスの一家とスピノザの関係は深まったと僕は判断しています。この流行は翌年も収まらず,今度はスピノザがスヒーダムという,数少ない信頼していた友人のひとりのシモン・ド・フリースの妹の義父が所有していた農家に避難しました。
羽生善治王位の先手で広瀬章人八段の四間飛車穴熊。先手も居飛車穴熊の相穴熊に。後手が4三の銀を5四に出て,▲5五歩と突かせて4三に戻り,4四に上がるという新作戦。ですがこれはあまりよくなかったようで,1日目で差がついたようです。相穴熊は意外と序盤が大事なので,こういうケースもまま生じます。
今日の昼食休憩時の局面。僕が今日アクセスしたのはここだけで,先手がよいにしても簡単にはいかないのかもしれないと思いました。
▲5三歩と垂らしました。対して△6一金寄が最善だったそうですが,そういう手が最善手なら,やはりすでに先手がよいと判断してよいものと思えます。実際の指し手は△5一飛。
そこから▲3三歩成△同角▲3七桂と桂馬を使いにいきました。違和感があったのですが,正しい指し方だったそうです。△5三金▲3四飛△5七歩成▲3五飛。
と金は金と同じなので,銀損でも優勢や互角というケースもありますが,このと金は後手の駒と交換の見込みがしばらくはありませんので,はっきりとした差がついてしまったといえそうです。
羽生王位が勝って3勝1敗。第五局は来週の水曜と木曜です。
スピノザが心底から信頼していた友人は,生涯でもそう多くなかったと思います。ですが交友関係は幅広く,その中にはコンスタンティンのように,党派的には相容れない人物も含まれていました。また哲学する自由に嫌悪感を抱くような反動的な人物も含まれています。そういった人びとと私的に交流できたのは,スピノザにはある種の人あたりのよさとでもいうべきものがあったからかもしれません。
僕がパフォーマンスとみなすアムステルダムからの追放のとき,スピノザを迎えに来た軍人はみなカルヴィニストで,公務の遂行上で仕方がないこととはいえ,スピノザと同行することを恥じていたとファン・ローンは書いています。しかし船が出るまでの短い間に,かれらとスピノザはすっかり打ち解け,出航のときには軍人たちは帽子を振って別れを告げたとしています。
こうした資質というのは,天性のものであったかもしれませんが,スピノザ主義から必然的に生じる性向であると規定することもできます。ただ,僕からみても,スピノザのこの面の資質というのは,きわめて特異なものと思えるのです。というのはスピノザは,相手がどんな人物であったとしても,交流すること,端的にいえば会うということや文通するということですが,そうしたことを拒まなかったように思えるからです。『スピノザ往復書簡集』には,友人と会うのに忙しくて返事をするのが遅れてしまったという主旨の記述が多くあります。そうした会見のすべてが,スピノザにとって実りのあるものであったとはいえないと僕は思います。むしろ手紙の返事を書く方が,実益という意味では大きい場合もあったろうと思えるのです。ところがスピノザは,自身に会うことを求めてくるような人物に対しては,どんな相手でもその求めに応じていたように思われます。
1654年のペストの流行で,別荘に滞在していたホイヘンスの一家とスピノザの関係は深まったと僕は判断しています。この流行は翌年も収まらず,今度はスピノザがスヒーダムという,数少ない信頼していた友人のひとりのシモン・ド・フリースの妹の義父が所有していた農家に避難しました。