スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

作家論と作品論&福居純の証明

2013-07-08 18:57:07 | 歌・小説
 『反転する漱石』を紹介したおり,僕は文芸評論には作家論と作品論のふたつのタイプがあると考えていることを示しました。その類型に関しては後に説明するといいましたので,ここでそれを詳述することにします。
 僕が作家論とみなすのは,テクストを作家の手によるものであるとみなし,あるいはその点を重視して,テクストを読解する評論です。この場合,テクストは作家の思想や意図が表現されたものであると理解することになります。つまり書かれた作品を,作家の思想や意図という背景を前提として理解しようとする文芸評論に関して,僕はそれを作家論とみなすことになります。いい換えれば僕がいう作家論というのは,必ずしも作家自身に関する評論だけを含むのではありません。
 僕が作品論とみなすのは,テクストを独立したものであるとみなし,作家の思想や背景は無視して,あるいはそれは重視せずに,テクストの中に何が表れ,また何が表れてはいないのかを読解するタイプの文芸評論です。この場合,評論の対象となるのは純粋に文章だけであるということになります。したがって,場合によってはこの読解は,作家の思想に反する事柄,あるいは作家が少なくとも意識の上ではまったく意図していなかったような事柄が,読解の結論として生じてくる可能性がある,それも大いにあるということになります。よって,仮にある小説の読解であるとしても,作者の思想や意図からそれを読み解く方法は,僕は作品論であるとはみなさず,むしろ作家論であるとみなします。
 これはあくまでも類型です。実際の文芸評論というのは,作品論であるか作家論であるかのどちらかであるということはほとんどなく,作家論の要素と作品論の要素が混濁しているのが普通だといえるでしょう。ただ,作家論的要素が濃い文芸評論,逆に作品論的要素が濃厚な文芸評論というのは間違いなくありますし,このような類型化に関しては,どちらか一方であろうとする評論家も確実に存在していると僕は思います。
 場合によっては作家論に足を踏み入れなければならないこともありますが,僕は文芸評論としては,作家論ではなく作品論の方を好みます。

 ここでは『エチカ』の懇切丁寧な注解である,福居純の『スピノザ『エチカ』の研究』を利用することにします。
                         
 第一部定理二六が,作用に決定されるものの限定determinatioを意味すると仮定します。すると,限定されるものに対して限定するあるものが必要とされます。これは当然といえるでしょう。ところが,この定理Propositioというのは,一般にものが作用するといわれる事柄に関する言及です。したがって,たとえばAというものをBというものが作用に決定,限定という意味での決定をするdeterminareとしたら,BがAに対してその限定をする作用の原因causaがほかに必要とされます。かくしてこの連結connexioは無限に連鎖していくことになるでしょう。したがって,この場合には実際にはAを作用に限定するものは,はっきりとした原因であるとは考えられ得ないことになります。
 この矛盾は,作用への決定をある限定であると仮定することによって生じます。したがって,この決定はこうした限定であると理解されてはなりません。スピノザによる証明Demonstratioにおいて,この決定が積極的なもののためであるといわれているのは,こうした理由によるのです。すなわち,決定とは限定ないしは否定negatioではありません。つまり,たとえばAを作用に決定するのがBであると仮定したとしたら,このBによる決定というのが,Bにそうした決定をさせる働きactioそのものと切断されてはならないということになります。これはちょうど,桜井直文が働きと作用の関係において主張している事柄と一致しますから,ここではこれ以上の説明は付加しません。
 そこで,もしもあるものが別のものを何らかの作用に決定するという場合には,それが無限に連鎖するのであったとしても,各々の原因はそれ自身の結果effectusをそのうちに産出するという様式の下でこれを理解する必要があります。そうでないならば,ものが作用に決定される原因は存在しないということになってしまいますが,これは第一部公理三に反するからです。
 ところで,各々の原因がその結果をうちに産出するというのは,神Deusの働きそのものです。なぜなら第一部定理二五備考により,神が自己原因causa suiであるということと神が万物の原因omnium rerum causaであるということは同一の意味だからです。よって作用に決定されるものは,神によって決定されるのです。
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