スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

哲学する自由&具体的な存在の限定

2013-08-08 19:43:18 | 哲学
 スピノザが実践としての哲学に重きを置くとき,それは自由を確保することと切り離して考えることはできないように僕は思います。この自由とは,第一義的には,思想の自由であり,信条の自由であり,良心の自由であると思います。さらにそれが発展し,表現の自由や出版の自由なども,常にスピノザの念頭にあっただろうと思います。僕はこれらすべての自由をひっくるめて,哲学する自由と表現します。
 哲学する自由が確保されているならば,何も危険はありません。しかしそうでないならば,危機は現実的に目前にあるのだと僕は思います。それはたとえば権力による規制だけを意味しているのではありません。もしもある人間が,哲学する自由を実際に行使できないような状態にあるならば,その人間は危機的状況にあるのだと僕は認識するのです。
 スピノザの時代は,現代とは比類できないほどに,国家権力や宗教的権威が強い時代でした。だから哲学する自由を確保することは,スピノザ自身にとっての死活問題であったということができます。スピノザは自分の思想が,同時代の人びとには危険思想であるとみなされることをよく心得ていましたから,声高に自らの思想を主張することはありませんでしたが,だから自由を脅かすものと闘わなかったということになるのかといえばそうではなく,むしろスピノザは敏感すぎるほどにそうした相手に対峙しようとしたのだと僕は思っています。
 ペンは剣よりも強いといいますが,あれは嘘で,1本の剣さえあれば何本のペンでも折ることができると僕は考えています。ただその剣の切先は,ペンを持つ人間の精神にまでは届かないというだけの話です。スピノザはそういう精神を有していたからこそ,ペンを折られないことにも敏感であったのではないでしょうか。
 ただ,スピノザの精神のうちに最初に自由の観念が芽生えたとき,それに影響を与えたのは,哲学する自由であるよりも経済的自由であったかもしれません。スピノザによる日本への言及の稿の最後のところで僕がいいたかったのは,そういうことだったのです。

 それではここからは存在に対する限定について考えていくことにします。そして少なくともこのことを,より具体的な内容をもつものとして考察していきます。もちろんこれは,一般性と特殊性に関するスピノザの哲学の考え方を念頭におくからです。具体的なあるひとつの存在に対する限定というのをその考察の対象objectumに据えることは難しいのですが,少なくとも現実的に存在するものに対する限定がなされているという場面を考察の対象objectumにはしておきたいところです。そしてこの点を重視するならば,やはりある個物res singularisが,現実的に存在するという場合を対象objectumにするのがよいだろうと思います。第一部定理二八からして,個物res singularisが現実的に存在するならば,その存在に対する限定というのが,必然的に行われているということは明らかだからです。
 まず第二部定理一〇系により,人間が個物res singularisであるという点に着目します。実際にはこの系は,人間は様態であるということだけを示しているのであって,有限様態すなわち個物res singularisであるということを示しているのではないと,厳密にいえば理解されます。しかし人間が無限様態ではないということ,いい換えれば個物res singularisであるということについては,とくに問題とするべき点はないでしょう。第一部定理一〇系に関する解釈を僕は問題にしたいわけではありません。人間が個物res singularisであるということだけが明らかになるならそれで十分ですから,このことについてはこれ以上の詮索はしません。
 次に第四部定理三では,そうした人間の存在に固執する力が制限されているということが示されています。この定理は人間についてのみ言及されているわけですが,これがすべての個物res singularisに妥当するということは間違いありません。スピノザはこの定理の論証は第四部公理に訴えています。第四部公理はすべての個物res singularisに妥当する公理だからです。
 そしてこの定理は,とくに現実的に存在する人間についての言及であると,僕は判断します。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする