スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

プロモーターとしての馬場&物の表現

2013-05-31 19:09:18 | NOAH
 馬場はレスラーとして超一流でした。一方,全日本プロレスを設立してからは,興行を主催するプロモーターという立場にもなったのですが,こちらの面でも一流であったようです。これについてはルー・テーズが証言しています。
                         
 馬場は1999年1月31日に死にましたが,その死は少しの間だけ伏せられることになり,正式に報道されたのは翌日の午後7時の記者会見を受けて。ですから新聞紙上では2月2日付の朝刊での報道となったのです。
 朝日新聞はこのニュースを一面と社会面で報じましたが,その中にテーズのコメントがありました。その中に,馬場は経営者としても一流で,約束は必ず守り,ギャラの未払いはもちろん,遅配もなかったと語っています。一般常識からすれば,当然のことといえるかもしれませんが,テーズによればこれはプロレス業界では異例であったそうです。確かに興行が主な収入源ですから,ひとつ失敗があれば,経営者が金銭の確保に困窮するということはあり得るでしょう。馬場の全日本プロレス設立には,アメリカ修行時代に稼いだ高額のファイトマネーが有意義に働いたのだろうと思うのですが,こちらにも同様のことがいえたかもしれません。
 ゲーリー・オブライトは,UWFインターで居場所を失いつつあった時期に馬場からオファーを受けました。そこで今後の身の振り方について,当時のUインターの顧問格であったテーズに相談したそうです。するとテーズは,馬場は正直で誇り高いプロモーターであるから,もしも全日本プロレスに行くチャンスがあるなら,そう選択するべきだとアドバイスをしたそう。オブライトは1995年10月から全日本で仕事をするようになりましたが,テーズの助言が大きかったと語っています。
 しかし,馬場のプロモーターとしての手腕を語る上で欠かせないのは,もっと別のことだと僕は思っています。

 物が神の本性の必然性に合致するすべての作用をなし,それに反するあらゆる作用をなさないということが,その物にとっての否定でも限定でもないということは,物自身に注目するだけでも帰結するように思えます。というのも直前の第一部定理二五系では,物というのは神の属性の変状なのであって,神の属性を一定の仕方で表現する様態であるといわれているからです。
 このことからして,物は神の属性を表現する限り,何ら否定的ではないし,限定的でもないと理解されなければなりません。むしろ物にとって限定あるいは否定とは,それが神の属性を表現しないということの方にあるといえます。したがって,物は神の本性の必然性に則している限りでは限定されたものとも否定的なものともみなすことはできませんが,もしも神の本性の法則に反して作用するということがあったとしたなら,その場合には否定的なもの,限定的なものとみなされなければならないのです。
 したがって,もしも物が,神による決定と無関係に,いい換えれば自由原因である神の決定以外の原因によって作用するということがあるとしたら,それは物が神の属性を一定の仕方で表現していないような作用である,つまり神の本性の法則に反する作用であるということですから,むしろ物自身にとって否定的な作用だといわざるを得ません。同じように,もしも物が自由原因である神の決定を覆して,決定されたその作用をなさないということがあるとしたら,それもまた神の本性の必然性に反すること,すなわち神の属性を一定の仕方で表現していないということですから,やはり物にとって自身の否定であると解さざるを得ないのです。
 このように考えるならば,第一部定理二六第一部定理二七も,物について一切の否定も限定も含んでいないということは,もはや明白であるといえるでしょう。むしろこれらふたつの定理に反して物が作用するということがあるとしたら,そのことの方が物にとっての限定であり否定であるということになるのです。
 物は神の決定に従う限りで積極的であり得るのですが,それに反する限りでは積極的ではあり得ないと考えなければなりません。
コメント
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