白雲去来

蜷川正大の日々是口実

野村秋介大人31年忌・墓前祭。

2024-10-21 13:58:31 | 日記

10月19日(土)晴れ。

野村先生の獄中句集『銀河蒼茫』の「秋の部」の最初の句は、まためぐる秋のさみしさ 天の濃さ である。その句のように抜けるような青空。おまけにこの時期に30度の真夏日となった。夜中に雨が降ったようだが、正に野村先生は「晴れ男」。生前、随分と国内外の旅にお供をしたが、雨に降られたことは一度もない。雪の時はあったが、それはそれで先生らしい。まためぐる秋のさみしさの句が胸を衝く。

明日20日がご命日なのだが、遠方から参列する同志、社友の仕事の都合を考えて1日早い今日の土曜日にした。三島由紀夫のご命日は憂国忌。野村先生のご命日は群青忌。遺著となった『さらば群青』から命名された。名付け親は、元楯の会の一期生の阿部勉さんだ。

10時に、先生の菩提寺である浄発願時に着けば、既に100名近くの方が集まっていた。北は札幌、函館、西は、豊橋、名古屋、京都などから弊社の社友、同志諸兄が今日の31回忌である群青忌に馳せ参じてくれた。主催者の一人として、感謝に堪えない。11時の法要に先立って、先生の墓地内にある「道友・縁者之墓」に分骨している正田、岩田両氏の法要。特に今年は正田秀幸氏の七回忌となる。11時から本堂で法要。有難いことに札幌から畏友の田中清元和尚、弟子の藤村克宗和尚のお二人が来て頂いた。宗派は違うが住職の塚越和尚と三人での読経は圧巻だった。終了後に墓前にて焼香。恙なく31年忌の墓前祭は終了した。野村先生が亡くなられてから31年。特別な案内状も出していないにも関わらず、100余名の人たちが参集してくれる。正に門下生冥利に尽きる。

二時から、中華街に場所を移して、直会。参加は88名。犬塚博英先輩から「伊佐美」3本の差し入れ有り。あっという間に空となる。4時に終了。ご参集頂きました皆様に、衷心より御礼を申し上げます。


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思い出のラドー。

2024-10-20 13:47:13 | 日記

10月18日(金)曇り後小雨。

時計が好きで何本か持っている。決して高い物ではなくデザインなどが気に入ったものを衝動買いしたものばかりであるから、ポケットマネーで買える程度の値段である。その中でも、一番大切にしてるものが一本ある。野村先生が亡くなられる一年前の平成4(1992)年9月4日から14日まで約2週間、ローマ、ベネチア、ナポリ、シチリアと旅した最終日にパリに渡った。当初は、パリは予定に入っていなかったが、私が無理を言ってスケジュールに入れて頂いた。

何故パリか・・・。深い意味はなく、「花の都パリ」というイメージに対する単なるミーハー的な憧れに過ぎなかった。慌ただしく、ベルサイユ宮殿やルーブル美術館などを回ったが、印象に残っているのは観光船でのセーヌ下りとナイトクラブ「リド」でショーである。先生とシャンゼリゼを歩いている時に、なぜか時計屋に入り、「フラン(当時はEUに統一される前だった)が余っているので、日本に帰っても使い道がないのでお土産を」と言って買って頂いたのがラドーの時計である。それから32年が過ぎたが、これまでに2度ほどメンテナンスをしただけで、一度も故障したことがない。「群青忌」はもとより先生に関連する行事の時は、そのラドーを必ず着けていくことにしている。その時計を見ると、ナイトクラブ「リド」の帰り道にシャンゼリゼで、クラリネットとアコーディオンの二人の「流し」に演奏してもらった「パリの空の下セーヌは流れる」の曲が浮かぶ。歳を取ると、妙に昔のことが頭に浮かび、誰かに話したくなる。それをノスタルジジイと言うと浅田次郎さんの本で知った。

明日の、法事に参加するために横浜に泊まった函館、豊橋、京都の社友と「やまと」へ。大熊氏と佐伯さんが合流。その後「サリーズバー」へ転戦。


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私はソース派。

2024-10-18 13:09:24 | 日記

10月17日(木)曇り。

私が20代の前半の頃、山下町はニューグランドホテルの裏側に朝までやっているレストランがあった。(現在は場所を少し移動して営業している)そのお店で、モーニングを食べに行った時に「ハムエッグスをオーダーしたら、従業員から「卵の焼き方はどうしますか」と聞かれて、えっと?マークが幾つも頭に流れた。ハムエッグスと言えば「目玉焼きのハム添え」だと思っていた私は、とても驚いたのである。当然一緒に行った友人も知らない。とりあえず「目玉焼き」と頼んだが、ウェイターも恥をかかせてはいけないと思ったのか、しばらくして「目玉焼きのハム添え」が二皿テーブルに届いた。

目玉焼きのことを「サニーサイドアップ」と言うことを知ったのは、それからしばらくしてからだが、恥ずかしくて言ったことはない。オムレツ、スクランブル、茹で卵でもハムを添えたら皆、ハムエッグス。私は、ソース派で、目玉焼きには、必ず中濃ソースをかけて食べる。しかし、困ったことに、その中濃ソースだが、ホテルやレストランには、まず置いていない。海外ではなおさらである。ソースは元々輸入品だと思っていたので、海外のホテルなどに置いていないのは意外だった。国内、国外へ旅するときは必ず、コンビ二などで小さい中濃ソースを買って持って行く。野村先生は醤油派で、句集『銀河蒼茫』の「冬の部」の中に、「冬の昼 ソース嫌ひで困ってをる」という句があるくらいだ。先生のお供で海外に行く時は、いつも私が「醤油番」だった。

コロッケも、アジフライ、カキフライ、エビフライもトンカツも皆ソース。特にトンカツは、練り辛子をソースと混ぜて、それにつけて食べるのが好きだ。付け合わせのキャベツにもソース。天ぷらは、塩。コロッケに醤油をかけて食べる人を見て、新鮮に驚いたことを覚えている。夜は、おとなしく酔狂亭にて月下独酌。


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孤高の人。

2024-10-15 09:50:00 | 日記

10月14日(月)晴れ。

珍しく朝食を食べる。メニューはハムトーストにコンソメスープ。午後から愚妻を伴って入院中の木村ゆかりさんのお見舞いのために東京は赤羽橋のS病院へ。ゆかりさんは、ボランティア活動家(そういう言葉があるのかは知らないが)として有名な人である。東に災害があれば東に行き、西に大雨、地震が起きたと言えば西に行き、ウクライナで紛争があると知れば、ウクライナに行く。弊誌『燃えよ祖国』にも、ゆかりさんの「ウクライナ便り」を掲載させて頂いている。

野村事務所は、かつては浜松町の駅の近くにあった。その頃から編集の手伝いをして貰っていた。その後、事務所が赤坂のみすじ通りに移転した際も、事務所に来て頂いた。何か月か働くと、インドを放浪したり、アメリカに行ったりと、我々の古い言葉で言えば大陸浪人のような生き方をしていた。確か、その頃だと思うが、確かなタイトルは失念したが、彼女の生き方を追った「六本木ビルの屋上に住む人」(正確なタイトルではないが)というドキュメンタリーが放映されたことがあった。事務所にあると思うので、探して見るつもり。

その彼女に、すい臓がんが見つかった。聞けばステージ4とのこと。入院した当時は抗がん剤の治療などで辛そうだったが、幸いに抗がん剤が効いて、少し体調が良いと聞いてのお見舞いとなった。休憩室で本を読んでいた彼女と面会。つらい抗がん剤治療にも耐えていつもの笑顔があったが、常に自分のことよりも、災害地、紛争地の人たちのことを考えて行動してきた彼女が、癌になるなんてとても信じられない気持である。彼女がボランティアをしていた能登から大勢の人たちがお見舞いに来たため、ご挨拶をしてお暇した。そういえば、彼女のパートナーであるヒコさんともお会いした。彼は、有名なパンク・バンド、ガーゼの元ドラマーとしても、有名である。木村ゆかりさん。孤高の人である。

御徒町にて、群青の会の大熊雄二氏と待ち合わせて福田和也氏が好きだったという蕎麦屋「吉仙」へ。福田氏を偲んで一献。スタッフに福田和也を知っている?と聞いたら、「先日もお客さんに聞かれましたが知りません。以前お店に同姓同名の従業員がいまして退職しました」。ひっくり返りそうになった。

今年の群青忌は、札幌の梶浦直樹氏、京都の仙人こと山内愁雲氏、新潟の山田喜一氏そして木村ゆかりさんなどが体調不良などで参加できない。寂しいものになりそうである。


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われ死なば火にはくぶるな栄川の二級に浸して土に埋めよ

2024-10-11 11:58:37 | 日記

10月10日(木)曇り。

野村先生が定宿としていたのがローマ風呂で有名な熱海の大野屋。私も2度ほどお供をして泊ったことがある。野村先生が、昭和50年に「河野邸焼き打ち事件」にて12年の刑を終了し戦線復帰し、熱海の大野屋で静養していた。そこを訪ねたのが阿形充規先生だった。阿形先生の先輩であり、やはり千葉刑務所に服役していたF氏の伝言を預かり、それを聞くために阿形先生が、大野屋に野村先生を訪ねる。正に、人の一生は邂逅の一語に尽きるで、其の後、阿形先生は民族派運動に邁進して行く。現在の大野屋は何とか言うお茶屋さんに買収され、高級旅館から大型銭湯のようになってしまった。

その大野屋に支配人として勤めていた方は、野村先生はもとより、先生のご家族とも懇意にしており、群青忌の出席や、ご家族と共に横浜に来て一献酌み交わしたこともある。その方から平成五年の10月の先生が自決なされる一週間ほど前に、作家の山平重樹さんを伴って大野屋を訪れた時のことや、元楯の会の故阿部勉さんの思い出などを書いた手紙と共に、会津の銘酒「栄川」(えいせん)をご恵送頂いた。

私が道の兄と慕った阿部勉さんは平成11(1999)年10月11日に肺がんで亡くなられた。享年53歳。森田忠明さんが主宰していた櫻風亭歌會が中心となって平成十年に出版した合同歌集『國風(くにぶり)』という本の中に、多くの民族派諸兄に交じって、阿部勉さんも短歌を投稿している。「春も酒」と題した八首はいかにも阿部さんらしいニヒルで酒を愛し、また浪人の風情に溢れた秀逸なものばかりである。その八首の最後の歌が、阿部さんの「辞世」と言われている歌である。

 われ死なば火にはくぶるな「栄川」の二級に浸して土に埋めよ

なぜ阿部さんの郷里の秋田の酒ではなくて、会津の酒なのか不思議だが、そんなことはどうでも良いか。明日は阿部さんの25回目のご命日。阿部さんを偲んで一杯やるか。※昭和60(1985)年8月17日。下田旅行の途中、熱海駅にて。左より、故板垣哲雄、蜷川、花房東洋、故阿部勉の諸氏と。

 


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