白雲去来

蜷川正大の日々是口実

3月は色々な意味で感慨深い月だ。

2024-03-19 12:13:39 | 日記

3月16日(土)晴れ。

朝食は抜いた。昼に大悲会の志村馨会長が来宅。最近できたという中華料理屋にランチに行く。店主は有名中華で修行したとか。しかし、ホテルや有名中華料理店にいたといっても、いわゆる町中華とは違う。逆に町中華に何年居たからと言っても、ホテルの中華や高級中華料理店では、使えないだろう。今日行ったお店も、そのセオリー通りだった。なぜか料理が皆、甘いのだ。まあ仕方がない。こんな日もあるさ。

一年のうち三月という月は、私にとって、様々な意味で感慨深い日が多い。まず三日は、桜田門外の変と昭和五十二年に恩師らが財界の営利至上主義を撃つ、として財界の総本山である経団連穂襲撃占拠した日。

四日は、平成十年の一月十三日に、いわゆるビック・バンに反対して東京証券取引所に拳銃を持って立てこもり、八年の刑を受けて入所中だった板垣君が、戦線復帰を一月後に控えた、平成十八年の三月四日、肝臓癌にて幽明境を異にした。十五日は、お世話になった野呂道夫氏の御命日。

十一日は東北大震災の日。この日のことは良く覚えている。早いもの・・・。などと言ったら犠牲になられた方々に失礼かもしれない。十三年前の今日、私は友人たちと、後輩の結婚式に出席するために札幌にいた。到着したのは震災の起きる一時間ほど前だった。空港に迎えに来てくれた山本和八君の運転する車で空港から札幌の中心街へと向かっている途中で、山本君が「車が揺れています。地震かも」と言うので、何も感じなかった私が、「太っているから眩暈じゃないの」などと軽口を返した。ホテルのチェックインまで、まだ時間があるので、屋台村のようなところで軽く一杯やろうということになってお店に入った。すると、テレビのある所にいた他の客の「うあっー」、「大変だぁー」とか言って騒いでいる声が聞こえた。我々もテレビの前に行ったら、画面は津波が畑から道路に押し寄せている映像が流れていた。一瞬、そのことが理解できずに周りの人に「どこですか」と聞いたら「宮城県です」。それから、しばらくテレビにくぎ付けになった。

ニューでは、関東地方にも被害が及んでいると言っている。横浜駅付近のビルの壁が落ちたり、人々が座り込んでいる映像に慄然とした。皆で、後輩にお祝いだけ渡して東京に戻ろうと千歳の空港に電話するが、飛行機は飛ばないというし、家族の電話もつながらない。その後、ホテルに入って、ようやく電話がつながり、幸いなことに家族は皆無事だという。その後、ニュースで被害の大きさを知り、暗澹たる気持ちになった。それから十三年。今年も、正月早々能登地方が大地震に見舞われた。月並みな言葉で申し訳ないが、頑張ってほしいと思っている。他に言葉が見つからない。

二十一日は、不肖私の誕生日。今年で満七十三歳となる。早生まれであるから七十四歳の人と同級生である。若い頃は、同級生よりも一歳下というのが嫌だったが、歳を取るにつれ一歳若いというのが値打ちとなっている。

夜は、頂き物の「金霧島」の封を切った。「黒霧島」のファンだが、この「金霧島」と「黒霧島MELT」が特にうまい。しかし中々手に入らないのが残念である。酒とズブズブの関係となって久しいが、中々手を切れない。


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「江雪」という詩に梶浦君を思い出す。

2024-03-12 17:25:55 | 日記

3月10日(日)晴れ。陸軍記念日。

朝食は、冷食のビーフシチュウ、シジミの味噌汁。昼は、総菜で買ったお赤飯。夜は、鶏肉と大根とねじりこんにゃくの煮物。エビフライ、キャベツの千切り添え。お供は「村尾」。上の子供と対酌。今日は、戦前では陸軍記念日で休日であった。明治三十八年の三月十日、日露戦争の奉天会戦にて日本軍が勝利し、奉天(現在の瀋陽)を占領。そして奉天城に入城した。陸軍と言えば、思い出すのが昭和十九年に公開された、映画『陸軍』である。監督は、木下惠介で、木下が戦中に撮った四本中、最後の作品。主演は田中絹代。

パリオリンピックの最後の一枚をかけた名古屋ウィメンズマラソンをドキドキしながら見た。いつもならば、録画をしておいて、夜、風呂上がりに一杯やりながら見るのが至福の時なのだが、最近は、その楽しみがなくなった。なぜかと言えば、仕事をしようと思ってパソコンを開くと、マラソンの結果が分かってしまうからだ。本当は、パソコンもテレビもつけないで、暗くなるのを待ってから、のんびりと見たいのだが、それも無理になった。久しぶりにリアルタイムで中継を見た。前田穂南の日本記録を越えられなかったが、全般的には良いレースだった。

最近は、御無沙汰だが、自宅の近くにあるのが「バーミヤン」。そこの壁に、中国は唐代の文学者である柳宗元の詩「江雪」の書が掛けられていた。先日購入した『漢詩紀行』の第4巻に、その詩があって嬉しかった。

千山鳥飛ぶこと絶え 万径(ばんけい)人蹤(じんしょう)を滅す 孤舟 簑笠(みのかさ)の翁 独り釣る寒江の雪。訳は、「山々から飛ぶ鳥が絶え 道という道は歩く人もいない 孤舟にひとり蓑笠姿の老人が 雪降る川に釣り糸を垂らす」。この詩を読むと、行方不明になっている札幌の社友、梶浦直樹君を思い出す。釣りが好きだった梶浦君は、真冬でも釣りに行った。彼のブログには、その冬の釣りのことが良く書かれていた。どうしているのか、心配である。

 

 


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国破れて山河在り。

2024-03-11 14:09:16 | 日記

3月5日(火)曇り。

朝食は、鶏五目御飯、ネギチャーシュー、大根の味噌汁。昼は、ホットドッグ1個。夜は、ナポリタン、ナスのレンチン焼き、冷食の手羽先揚げ。お供は、「村尾」。酔狂亭にて独酌。

初めてメルカリを使って、前から欲しかったNHKの『漢詩紀行100選』10巻セットを買った。それも未開封の物である。といっても発売から20年も経っているもので、音源はモノラルで、再生すると両端が切れている。画面いっぱいに映らないのだ。まあそれでも鑑賞するには問題ないので、良い買い物をしたと思っている。ちなみに15600円。他に売りに出されているのを見ると、ほとんどが2万円以上、高いものは3万円もする。私が買った物の後に『新・漢詩紀行』が出ているので、そのうちに・・・。

『漢詩紀行』の監修は、石川忠久先生。石川先生は、日本の中国文学者で、元二松学舎大学の学長。二松学舎と言えば、亡くなられた四宮正貴先生の母校であることを思い出した。『漢詩100選』に選ばれた詩の8割は知っているし、その多くが日本人の人口に膾炙されているものばかりである。それでも、詠われている詩の景色が背景に流れる。行ったことのない所ばかりなのだが、実際にその場所にいるような錯覚に陥る。

中学生の頃、一番最初に習ったのが杜甫の有名な「国破れて山河在り」で始まる『春望』だった。私は戦後の生まれだが、その詩に映画や写真で見た、敗戦で焼け野原となった終戦直後の日本の都市の風景が重なったことを覚えている。一日一枚を繰り返し三度ほどちびり、ちびりと見ている。買って良かったなぁー。


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トレドにて。

2024-03-07 17:11:25 | 日記

3月4日(月)晴れ。

目が覚めたら9時過ぎ。天気が良い。なぜかカレーが食べたくなって昼近くに愚妻を伴って京急の井土ヶ谷駅近くの「ココイチ」へ。ご飯少なめのコロッケカレー。食後に「マルエツ」というスーパーで買い物してから帰宅。夜は、ホタテとアスパラガスのニンニクバター炒め、鶏肉のから揚げ、総菜のマグロの角煮、昆布煮。お供は、「村尾」をエイヤッと気合を入れて空けた。ロックからお湯割りへ。酔狂亭にて独酌。

歳を取ると、今日よりましな明日なんか無いと感じてしまう。随分と様々なところへ様々な人と旅をしたが、その思い出の分だけアルバムがある。 随分前に購入したのが、『ウイスキー粋人列伝』(文春新書・820円)。「吉田茂も黒澤明も向田邦子も日本人はみんなウイスキーが好きだった」と帯にあり、愛飲家90人のエピソードが綴られている。私は飲食に関する本が好きで、特に酒のエビーソードについて書かれたものは、目についたらすぐに買うようにしている。まだ、読了したわけではないが、「列伝」のトップに登場するのがクラッシックのギターリストでエッセイストでもある村治佳織さん。彼女のウイスキーの話も良かったが、嬉しかったのが次の一文。

「トレドには、もう何度足を運んだかわからない。パラドールのお庭から見るトレドの全景、これは画家のエル・グレコも魅せられてトレドに移り住んだという逸話も残っているぐらいでも、千年も景色が変わっていない。私の中では、いま地球上で見られる中でも、もっとも好きな光景の一つです」というもの。ちなみに「パラドール」とは、スペインでは古城などを改装したり、景勝地に新しく建てた半官半民の宿泊施設網のことである。

私は、村治さんが、トレドのパラドールから見た「いま地球上で見られる中でも、もっとも好きな光景の一つです」を、もう30年も前に野村先生と共に見た。その庭で、先生は旅の感慨を語り、私がビデオに収めた。命のあるうちに機会があればもう一度訪れてみたいものだ。トレドはキリスト教徒がイスラムを駆逐した「レコンキスタ」(失地回復)の地としても有名である。※野村先生が亡くなられた年、平成5(1993)年8月、トレドにて。42歳の私です。


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経団連事件から47年。

2024-03-06 14:32:11 | 日記

3月3日(日)晴れ。経団連事件の日。

起床後、食欲がなく、買っておいたパンにウインナーを挟んだホットドッグ1個。昼は、井土ヶ谷駅の近くのマックでエビフィレオ。夜は、ミスジ肉、マグロとネギの塩焼き、レタスのナムル。お供は、久しぶりに「伊佐美」。酔狂亭にて上の子供と対酌。

成10(1998)年の1月13日に、いわゆるビック・バンに反対して東京証券取引所に拳銃を持って立てこもり、八年の刑を受けて入所中だった板垣君が、戦線復帰を1月後に控えた、平成18年3月4日に八王子の医療刑務所にて薬石の功なく肝臓癌で亡くなった。同志らと彼を荼毘に付し、葬儀を行ってから早いもので満26年となる。明日の命日を前に、志村馨、松本佳展の両君と共に墓所である港北区の三会寺にお墓参りに行った。

野村先生が同志らと「財界の営利至上主義を撃つ」として財界の総本山である経団連会館を襲撃・占拠したのが昭和52(1977)年の3月3日の事。この日は「桜田門義挙」の日でもある。昭和52年当時、私は二十六歳。何気なくテレビを見ていたら臨時ニュースで「右翼が経団連を襲撃」というテロップが流れた。すぐに野村先生たちの行動とピンと来た。居ても立っても居られなかったが、何をして良いか分からなかった。何で、俺が家にいるのかと、いたたまれなかった。何年たっても今日の日が来ると、あの時の忸怩たる思いが甦る。その頃、城山三郎の『一歩の距離』を読んだことにより、一歩踏み出すことが出来た。最も十年の歳月を必要としたが・・・。早いもので、経団連事件から47年が過ぎた。

先駆けて 散りにし人の 悲しみを 我がものとせむ この道を行く。この歌は、経団連事件の前日に野村先生が詠んだ歌である。※平成3年2月、函館、土方歳三終焉の地の碑の前で。


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