「一色軍記」を取り上げるにあたって、引っかかっていることで「真下家」のことがある。
細川家に残る一番古い侍帳「御侍帳并軽輩末々共ニ」に、次のような記録がある。
乗物かき小者頭
三百石 丹後 真下七兵衛
父ハ一色義有 真下梶之助元重
これは七兵衛が父梶之助の子であることをさしているが、その父が一色義有であるともとれる書き方である。
この事がいろんなところにまことしやかに拡散されている。
「先祖附」を確認していないから、これは早々に確認せねばと思っている。
少々こだわっているのは、忠興の側室に真下氏があり岩千代(後の松井寄之)を生んでいる。
光永文熙氏の「平成宇土細川家系譜」においては、一色義有臣真下梶之助元重女・才とあり、上記の御侍帳の記述には「臣」が脱落していることを伺わせる。これが正解であろうと考えているのだが・・・
そして先にもご紹介したのだが、元和4年(1618)の秋この忠興の側室・才はのちに沼田延元に再嫁している。
いわゆるフリーの身ではなかったらしく、「おさげ渡し」であったようでこのことに延元は「死を賜ってもご辞退したい」としている。
これに対し、忠利が説得に入り「そうであれば自らが介錯しよう」とさえ言っている。(沼田記)
延元はやむなく「才」を受け入れたが、数年後には「才」を残し死去した。
我が子の岩千代(元和3年正月生まれ)は、6歳で松井興長の養嗣子となったが、生母と別れたこの岩千代はその間どのように育てられたのだろうか。養母が忠興側室松の丸(藤)の娘・古保であり、わが手で育てることは叶わなかった。
細川家の歴史にも悲しい話が盛り沢山である。
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