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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■鍋奉行

2020-02-07 08:04:13 | 徒然

 けさのTVで「鍋の素」の話が取り上げられていた。日本中冬将軍に攻め込まれて、津々浦々今晩は「お鍋」のお宅がさぞかし多いことだろう。
「鍋の素」は随分多くの品数があるらしく、組み合わせて好きな味を作り上げられることが好評らしい。そんな話の中で「鍋奉行」という言葉が出てきた。

去年の事、当ブログが原因のお騒がせ事件が起きた。細川藩に「鍋奉行」という役職があるということが巷間うわさが広がってのことだ。
                                                https://togetter.com/li/1315307

これはえらいことになったと思い、お詫びの文章をUpしたことを思い出し調べてみると、去年の2月5日のことであった。
掲載されていた侍帳の原本が熊本大学で確認が行われ、「鍋」の文字は「浦」であることが判明し落着した。
今思い出しても冷や汗もので、影響の大きさを実感し大いに反省をした所であった。

                                       

  これは1977年発行の細川藩政史研究会発行の「肥後細川藩侍帳」全四冊の内の「一」にある「妙解院忠利公御代於豊前小倉 御侍帳幷軽輩末々共ニ」に掲載あるものである。(p7・中段)
その後この四冊は、改訂されて「熊本藩侍帳集成」として1996年に発刊された。ここではこの部分は「浦奉行」と改められている(p9)。誤植であろうと思われる。
当方の「新肥後細川藩侍帳」が、1977年の「肥後細川藩侍帳」を底本としたことによる誤りである。
改めてお詫び申し上げる。

         

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■細川小倉藩(143)寛永三年・日帳(七月十九日~廿ニ日)

2020-02-07 07:08:59 | 細川小倉藩

                       (寛永三年七月)十九日~廿二日

         
         |     十九日
         |               (衆脱ヵ)(矢野)  (米田是門)         両人

本丸ニテノ談合  |一、御本丸ニ而ノ御談合、御家老三人、利斎・與右衛門殿、御奉行衆、御横目衆三人、他国ゟ米・大
         |                         〃
他国ヨリノ雑穀輸 |  豆之外ハさこくノ分ハ入候而可然の由ニ而、入可申ニ相きわまり候事、
入ハ可      |
河口番へ通知   |一、右ノ通、川口御番へ申渡シ、指帋遣候事、
鷹師ノ女門出切手 |一、御鷹師衆ノ女御門出切手之儀、被相尋候間、御年寄衆へ被得御意候処ニ、右ニ御門番衆へ書落遣候
         |  間、御年寄衆ゟ切手御出シ可被成旨候事、
         |
         |                (元明)
留守居等へノ触方 |一、御留守居衆ノ御触無之ニ付、住江甚兵衛・高田九郎右衛門被相尋様子、御年寄衆尋申候処ニ、何も
         |  四与ノ頭衆ヘノ触状ニ、御与中へ被仰触候ヘとの儀ニ候ハヽ、何時もわきへの触被成間敷候間、
         |  御年寄衆まてへ、何へも可被仰触之由、申入候ハヽ、可被仰触候由候、
米田是季米ヲ町ニ |一、監物殿百石御米御借用可被成由候へ共、遅り候付、町ニ而御借被成候而、御米ハ御借有間敷由候
テ借ル      |  事

         
         |     廿日
         |

中小性賄所    |一、中小性之衆賄之所ニ、松山小兵衛・角喜兵衛付置候処ニ、小兵衛上方へ御用候而、差上せ申候、
         |  其替ニ宮木五郎助を付申候事、

         
         |     廿一日
         |

長崎へ飛脚    |一、御鉄炮衆弐人、長崎へ飛脚ニ遣候、桑主殿与ノ坂本喜介、山内勘兵衛与之白石五右衛門、右両人
         |  ニ上方ゟ成被下候、御書幷我々ゟ之状共、其外式ア少輔殿方々之状共持せ遣候事、
         |一、当三月ニ、江戸へ五人連ニ而参候御鉄炮衆ノ内ニ、松岡久左衛門与ノ池辺七兵衛、江戸ゟ京へ御
         |  使ニ罷上候処ニ、御国へ御使ニ御■下被成候由ニ而、 御書持下ル、但、七月十六日ノ御日付ノ御
         |  書か、同廿一日ニ下着候也、
落黒鴨ヲ鷹ノ餌ニ |一、くろかも壱つ、ひかしのためいけニて、死候て居申候を見付候由ニて、高見與兵衛所ゟ持せ差上
渡ス       |  候を、川井権丞へ、御鷹ノ餌ニ被仕候へと申遣候也、

         
         |     廿二日
         |

小堀長左衛門   |一、林弥五左衛門与之小堀長左衛門と申仁、弥五左衛門被申付候由ニて、登城仕候、是ニ壱人加、
         |  (豊後玖珠郡)
         |  小田村へ可遣也、
日損之談合    |一、日損之御談合、御年寄衆御登城被成、米田與右衛門・矢野利斎・御横目三人、御奉行両人ニて有
         |  之事
         |                                         (胴)
取逃ノ小者ヲ様斬 |一、真下喜左衛門小者取にけ仕候を、当町ニ而とらへ、今朝せいはい仕ニ付、御腰物二而一とうをた
ニス       |  めし候事
         |七月廿三日
         |一、御荷舟加子壱人五左衛門と申者、江戸にて当年六月三日ニ病死仕由、鏡善右衛門申来候事、

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■身近にある託麻が原戦跡

2020-02-06 18:28:44 | 歴史

                                                                                                    

 熊本市陸上競技場の南側に、「託麻が原の戦」の碑がある。そこにはめ込まれている銅板画である。(もう一枚ある)
元和元年九州探題に就任した北朝方の今川了俊(貞世)が九州に入り、永和元年(1375)には水島の変で少弐冬資を暗殺、永和三年(1377)佐賀の蜷打の戦に於いて菊池武朝阿蘇惟武ら南朝勢力と激突し勝利を得ると肥後に侵入し「藤崎八幡宮」に陣を敷いた。翌年了俊の軍に大内義弘・大友親世が加わると菊池の隈府に攻め入った。16歳の菊池武朝と20歳の良成親王らは一族を引き連れて託麻が原に出陣、峻烈を極めた戦では北朝軍20,000人・南朝軍3,500人とも言われている劣勢のなかで南朝方が奇襲作戦をもって奇跡の勝利を得たといわれる。北朝方は川尻に逃れ海路筑後に退却した。
                                 (一部参考:高田泰史著・肥後武将の源流)

 以前も書いたが旧・健軍町は広大な原野や森が広がっていた。託麻が原はその一角である。
旧・健軍町は夫々新たな町名を冠して現在に至っているが、「三郎」とか「灰塚」「京(経)塚」とかこの戦いを連想させる地名も残されている。三郎はこの周辺を領地とした阿蘇三郎惟盛からきているし、灰塚は犠牲者を弔った場所でもあろうか。京塚は元々は経塚であったと聞く。
「託麻が原の戦」の碑から東へ約1.6キロ、西部方面総監部の道を挟んだ反対側にかって大きな結婚式場があった。
私は全く知らなかったが、そこに「八万千部之碑」というものが建っていたらしい。
経営者が変わり、現在は老人施設に代わっているが、その際撤去処分されたらしい。
その由来は、託麻が原戦で八万の人が戦ったという説がありその顕彰碑だという。この様な立派な碑が失われるのは残念な事である。

 いつも散歩で通るルート上にあるのだが、誠に身近な場所に託麻が原戦跡が広がっていた。
それにしても熊本の中世史は南朝・北朝の対立の真っただ中にあって複雑な人間関係も相まって、理解するのに大いに難儀する。

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■細川小倉藩(142)寛永三年・日帳(七月十五日~十八日)

2020-02-06 11:40:04 | 細川家譜

                       (寛永三年七月)十五日~十八日

         
         |     十五日
         |

彦山忠有へ熊谷宗 |一、僧正御煩然共無之ニ付、熊谷宗安を 御鍋様へ、式部少輔殿ゟ御理被仰候而、かつてん出候而可
安ヲ遣ス     |  被遣旨被 仰付候事、

  彦山の僧正・忠有・・ 慶長六年、小倉に入封した細川忠興が、公家日野輝資の三男を養子として座主職を相続させ、忠有と称した。

         
         |     十六日
         |

熊谷宗安彦山ヘノ |一、彦山へ、熊谷宗安ニ歩之御小性一人相添、乗物かき六人宗安逗留中ニ添置候くろくわ之者一人、
         |   (荷ヵ)              (逗ヵ)
道中ノ手配    |  □付馬壱疋申付幷坊中ニ留□申候ハヽ、何方ニ而成共、賄可仕旨申遣候事、
         |                  (山ヵ)
採銅所新町立願  |一、田川郡採銅所ニ新町立罷居申度由申、□頭拾一人、男女共四拾六人御座候由、幷採銅所ノ山口只
         |           (虫損)         
         |  今罷居候処勝手悪候■■新町御立候ハヽ、屋敷同前ニ御免候て被下候ハヽ、参候而居申度由候、
         |               (虫損)
許可       |  左様ニ被仰付候ハヽ、近所の■■■作仕度由申候間、新町立ニ究申候事、
古川源内ヘノ触  |一、古川源内殿へ万公事之触無之ニ付、何方ゟ触可申哉と、御年寄衆へ相尋候処ニ、御奉行所ゟふれ
         |  可申旨之事、
国中旱ノ見立   |一、御國中旱之見立、又内検ノ衆ノ儀書付候而、御年寄衆へ相尋候処、可遣被仰付候事、
内検役ノ書付   |

         
         |     十七日
         |     
(三齋室ガラシャ夫人
秀林院法事    |一、秀林院ニ而、如毎年御法叓御座候ニ付、小倉御有相候御侍衆詰被申候事、
         |                                  (へ)           (申)
諸所ヨリノ音信物 |一、伊藤金内江戸御使者ニ被罷越、方々へ御音信物請取をとり参候を、何方□渡し可□哉と被申候、
ノ請取      |       (かれ)
         |  則御手前ニお□□候へと申渡候事、
         |  (米田是季)
米田是季知行所懸 |一、監物殿御知行所寛永弐年分懸り銀之儀、 御自筆之御裏書を監物殿へ被成遣候処ニ、当年延貸ニ
リ銀当年延貸ノ願 |  仕候様ニと、監物殿被仰越候、然所ニ、何も新地取衆分懸り銀、米ニ而納り候、其上監物殿へ被
忠利自筆裏書   |                                         (虫損)
         |  成遣候 御印之儀ニ候間、監物殿御頂戴候上はいか様共、其旨ニ可仕通金子ニ申候処ニ、□□  
         |  監物殿へ其段被申候由候、監物殿ゟ御使者被下候而被仰候ハ、金子・松本ニ談合申候処ニ、元銀
         |  子ニ而御座候間、銀かしニ而も苦かるまし由候間、則銀子ノ借状調差上ケ候由、被仰越候間、印
         |  判おし候而進之候事、
         |                                                                        (穀)
諸国ノ入米法度ニ |一、諸国米入之儀、御法度被 仰出ニ付、雑売も入候儀御法度ニ候哉と、御町奉行衆ゟ被相尋候間、

雑穀ハ如何    |                                 (左)     (米田是門)
日帳ヲ検索    |  其時分之日帳を取出シ見候処ニ、米御法度と斗御座候由ヲ、米田甚右衛門を以與右衛門殿へ申
         |  入候事、                         (是友)
         

         
         |     十八日
         |       
         |      (築城郡)
椎田ニ大雨降ル  |一、十六日之朝椎田殊外雨ふり候由、今津又十郎被申候、あめニ又十郎あひ申たる由、たしかニ被申

         |  候也、
亀屋了有下着   |一、亀や了有京都ゟ昨晩罷下候由ニ而、登城仕候也、
         |                          (穀)
他国雑穀入ノ惣談 |一、米田與右衛門殿ゟ、式ア少殿御出候ニ付、他国ゟ雑売入申儀ニ付、談合可申候間、明日御年寄衆御
         |  登城被成候様ニ可申触由、被申越候事、
小倉町人女敵討一 |一、国東郡へ、小倉町人五右衛門ノ女ノ儀ニ付出入有之付、穿鑿奉行ニ、御年寄衆ゟ被遣候処ニ、人
件     夫銀 |  足一人可相渡由候、市左衛門・弥三郎所へ申遣候処ニ、人足一人も無之付、夫銀を可相渡と申候
厩ノ草切夫ニ馬ノ |  処ニ、道中ノ百性共悉堀山ニ入申ニ付、日用も無之由候ニ付、御馬屋ノ草切夫被遣、御馬ノくさ
草ヲ買ハシム   |  買申候事、  

 

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■原文に触れる「阿部茶事談」(32・了)

2020-02-06 06:51:55 | 細川家譜

          

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■般若心経

2020-02-05 16:35:07 | 徒然

                                  

    これは使い古しのテレホンカード、捨てずに私の名刺入れに忍ばせているものだが「般若心経」である。
かっては写経もしたことが有るし、全文そらんじていたが今は少々怪しくなってきた。
私は時折 You tube で593万回余検索されている高野山の「10回復唱・般若心経」を、奥方をびっくりさせないようにヘッドホンで聞きいている。本を読んだり、タイピングしたり他の作業をしたりしながら、聞いているというより聞き流している感じだが、一度は完全に覚えたものだから、聞き流し状態でも身についてくる。
写経の為に、筆も用紙も購入したものが随分長く眠っている。この際また習字のけいこを兼ねて初めて見ようかと思っている。
歳を重ねると、こういったものが本当に自然に受け入れられて愛おしく思えるようになってくる。

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■細川小倉藩(141)寛永三年・日帳(七月十日~十四日)

2020-02-05 08:21:44 | 細川小倉藩

                       (寛永三年七月)十日~十四日

         
         |     十日
         |

         |一、平野万五郎せがれ弐人御扶持方被下候処ニ、〇此中相煩、去六日ニ相果被申之由、平野治ア左衛
         |  門被申来候、則彦進・甚丞へ申渡候事
彦山座主へ薬種ヲ |一、彦山へ薬種持せ遣候もの、御小人茂右衛門と申者也
遣ス       |
         | (長沢頼長室、沼田延清女)                                                 (三淵重政)
         |一、伊与殿乗せ上候御船頭中村喜兵衛、御用在之間、登城仕候へと、我々両人者壱人宛、右馬助殿前ニ
         |            (鏡)
船手惣奉行ノ命令 |  居候をよひ遣候ヘハ、善右衛門申候ハ、御奉行衆たれ人の御よひ候て候共、善右衛門さしつ無之
         |                               〃〃
厳重       |  候ハヽ、参間敷由、被申付候間、登城仕間敷由返事申候、其上善右衛門申付候は、天守ニ成共あか
         |                                            (ママ)
         |  り可申由申候ニ付、善右衛門をよひ、如何と相尋候処ニ、左様ニハ不申付候、わき/\諸奉行
飛脚江戸ヨリノ旅 |一、続亀介与小田長右衛門、江戸を去十七日ニ立而、今日十日ノ夜亥刻ニ下着仕候事、
程        |

         
         |     十一日
         |   (広門)
筑紫広門留守ヨリ |一、筑紫主水殿へ、留主ゟ茶かま壱つ、殿様へ上ケ被申候を、御船頭中津留弥吉ニ相渡申候、左候て

進上ノ茶釜    |  門司へ持参候而、伊与殿被乗上候御船頭嶋田甚太夫ニ、慥相渡可被申由、申渡候事、

         
         |     十二日
         |
彦山雨請ノ祈祷札 |一、彦山より、御雨請ノ御祈祷被仰付候処ニ、御札被成御上ケ候、御使僧ハ重順坊と申也、

         |     (正直)
規矩郡検地竿打ヲ |一、河喜多五郎右衛門、当郡御検地さほうち仕舞申由、被申来候事、
河喜多正直完了  |

         
         |     十三日
         |
下関ヨリ買米運搬 |一、下ノ関ゟ、御米百七十石余買調、積来候由、桃田助右衛門・舟瀬忠三郎両人申来候事、
規矩郡検地服部安 |一当郡御検地服部左太右衛門・安井長左衛門手前仕舞申候由、被申来候事、
井完了      |
         |                             (是門)     (矢野)
筑前ヨリ走者ノ有 |一、筑前ゟ走来候惣二郎・同女房幷むすこ壱人、御家老衆・米田與右衛門殿・矢利斎・御奉行惣談之
         |            
付方       |  上、京都郡津の熊村へ■付させ可申ため、御鉄炮衆両人佐分利作左衛門与ノ今村左次右衛門・安永七右衛門つれさ
         |  せ遣候、

         
         |     十四日
         |
泰勝院ニテ法事  |一、泰勝院ニ而御法叓有之ニ付、御侍衆小倉ニ有相候衆詰被申候事、

         |   (忠有)
彦山座主へ町医ヲ |一、彦山僧正御煩ニ付、町医者宗是を、式ア少殿ゟ被遣候ニ、歩之御小性一人御添可被成候へ共、
遣ス       |  ア卿殿ゟ使者参候、其上右ゟ御存ノ人と申、馬斗申付遣候事、

           参考刑部卿

  

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■注文「元禄の凱旋 赤穂義士の引揚げ」

2020-02-05 07:11:55 | 書籍・読書

                

 史談会で「御預人記録」を取り上げることにしているが、これを読み上げて解説するばかりでは味がなかろうと、本所松坂町から泉岳寺までの凱旋の道筋をご紹介したいと、いろいろインターネットで資料を拝見するうちに、このような著作があることに気づき、すぐさま購入の手続きをとった。
東京生まれの私だが、1歳数か月で東京を離れて以来、そうそう上京はしていないから道筋はとんと判らない。
生業上著名な建築物などは見に行ったりして承知しているつもりだが、さて今そこへ行こうとなると地図があってもすんなりとはいくまい。
大判の大江戸の地図を広げて眺めているが、この本の到着をしばらく待つことにしよう。

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■「阿部茶事談」(31)釈文

2020-02-04 16:29:58 | 史料

31        の儀ニ付精を出首尾能仕廻骨折候段具さ
         連 上聞候段御直ニ 御意有之難有次第手疵
         快気の上正保元年六月 御前へ被 召出此度
         の手柄を御賞詞有湯治抔致可然由御懇
         意の被 仰渡也 其上尓て御鉄炮十挺御預
         被成候而猶又 御意尓府中ニてハ気も晴やか
         尓有まじ府外二出候而山沢逍遥し寛々
         保養望尓任せ何方成共山荘の地可被下由也
         又七郎難有由御請申上御前を退出す 何方か失念
         見立て屋敷拝領住居す聞人々扨手柄哉と称美しけれ 又
         七郎段々結構被 仰付難有奉存由傳へ承ル
         元亀天正の比ハ城攻合戦武士ハ朝夕也 如此事ハ
         朝茶のこ尓も足りなんと笑ひける尓何連も其勇
         気を感しけると也
          私云或節尓廿一日阿部屋敷隣何某と申
          者其日当番なりけるが御番被成 御免阿
          部へ討手被差向候ニ付火用心且又落人
          等無之様尓心を附致在者候様被 仰付
          候間其御旨堅守り安閑と在者候由 然共
          跡尓て何共被 仰付ハ無之由かの栖本か心
          懸と此人の有様考合候へ共誠尓黒白ノ違
          乍不及栖本が心懸被あらまほしく候 後日

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■元禄16年2月4日

2020-02-04 08:53:04 | 熊本史談会

 二月四日、今日は立春の日である。毎度の事ながら「春は名のみの風の寒さや・♪♪」と口について出る。
しかしここ数日暖冬から並の冬に帰ったような感じである。

さて、217年前元禄16年2月4日といえば、赤穂浪士46名が切腹を仰せつけられた日である。白金の細川家下屋敷で17名が切腹した。
今回の史談会(15日)では同じ月の事件として、赤穂浪士の「御預人記録」を取り上げることにした。
事務局を預かる身として御三方ほど講師をお願いすることで少々安心していたが、先様のご都合も有り、どなたも今月は無理だということで、今回も責任当番である。
史料の読み込みと共に、インターネットで関連記事を読んだりしている。
本所松坂邸の平面図、引き上げる赤穂浪士の隊列泉岳寺までの道順などを調べていると、興味は尽きない。
白金邸と泉岳寺の位置関係、白金邸の配置図・間取り図、切腹の絵図や状況を示す図面など準備をするものもたくさんあって、あっという間の残り時間になりそうである。

         
     
実は、接待役を勤めた堀内傳右衛門の覚書を取り上げようかとも思ったのだが、ボリュウムが大きすぎて無理であり、特に興味ある逸話はピックアップしてご紹介しようと思っている。

旧暦2月4日はグレゴリオ暦では3月20日である。江戸の春は暖かさも増してきたことであったろう。

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■細川小倉藩(140)寛永三年・日帳(七月五日~九日)

2020-02-04 06:51:47 | 細川小倉藩

                       (寛永三年七月)五日~九日

         
         |     五日
         |

御物師ノ船中賄  |一、御物師衆へ上方へ上せ申候ニ付、舟中賄人として、佐分利兵太夫与ノ後藤七左衛門申付候事、
         |      〃
野田幸長出船   |一、野田小左衛門今晩出船被仕候事、
         |   (忠有)
彦山座主病治療ニ |一、彦山僧正御房御煩ニ付、当町之くすし見斎遣候、就夫、馬壱疋・人弐人申付候事、
薬師ヲ派遣ス   |

         
         |     六日
         |〇記載ナシ

        
         
         |     七日
         |         ( マ マ )

下関買米     |一、蔵本之甚右衛門     右両人ニ、野田小左衛門■■■才覚ニて、下ノ関へ米かいニ遣被申
米価百目ニ三石五 |  候、米弐百石斗有之由申候へ共、殊外高直ニ御座候、百目ニ付、三石五斗六升斗之間ニうり可申
斗六升ノ間    |  由申候、小左衛門■被仰付も、何程高直ニ申候とも、弐百石斗先買調可申候、其外ハ小左衛門上
高クトモ買ウベシ |  方ゟかい下シ可申之由、被申候か、いかゝ可有御座候哉と申候ニ付、何程高ク候ともかい調可申
         |  由、申渡候事、

         
         |     八日
         |

中津買米     |一、中津へ米かいニ遣候御鉄炮衆、明石源左衛門与ノ池田左兵衛也、
         |                       メのニ画目を突き通さず
囮雀ノ飼札    |一、じゞめきおとりの飼札八枚来候、十日之日付ニ■、内田久太夫ニ相渡候事、
         |            (松井興長)   (米田是季)(有吉英貴)
奥方火ノ用心   |一、おくの火用心■之事、式ア少輔殿・監物殿・頼母佐殿被仰候通、梅田和泉・本庄少介両人ニ申渡
         |  候事

         
         |     九日
         |           (鬼籠)

女敵討ノ糺明   |一、池内源介を、国東郡木子村惣吉女房間男糺明のため遣候、段々様子申渡候事、
下関買米四百石  |一、下ノ関ニ而御買米四百石有之由、舟瀬里兵衛申来候ニ付、四百石共ニ当津へ廻候へと、申付候事、
筑前ヨリ女房盗来 |一、筑前ゟ女房をぬすミ参候九郎太夫、せんさく被仕候へと、富田十太夫・伊藤儀太夫両人ニ申渡
ルノ詮索     |  候事、
         |
沼田延元女江戸借 |一、長岡勘解由殿御娘子二、江戸ニ而去年五月ゟ同極月迄、御米金銀御借被成、元分ニて相済、うけ
         |       (小篠)  (松野親英)(町)
米金銀ノ算用   |  取との江戸次太夫・織ア・三右衛門加判切手弐枚、勘解由殿内■永井惣右衛門被持来候を、彦
         |       (ゟヵ)
         |  進・甚丞へ見せ可被申由、申渡候事、
忠利小荷駄はやひ |一、殿様ノ御小荷駄、はやひニて死申候由、上田忠左衛門所ゟ申来候事、
ニテ死ス     |

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■「阿部茶事談」(30)釈文

2020-02-03 14:51:41 | 史料

30        の前尓立ける尓如何尓弥五兵衛兼々の鎗の手練
         を試ミ我手並の程をも一見あれと互尓言葉
         をか王し鎗を合せ又七郎抜群な連ば弥五
         兵衛が胸板を突て鎗を捨て引退く 又七郎
         ■■懸臆病也弥五兵衛引なと云ければ振り
         返り迯る尓あらす腹を切成と云捨て内尓入
         弟七之允馳来り又七郎尓渡合暫く戦ひ又七
         郎が高腿を突痛手なれハ働き不■■ 七之
         允ハ是を打捨置多くの敵尓向ひ誰か為尓討
         連けるが切腹や志たりけん 又七郎ハ鎗を捨立
         上らんとせしが歩行なら須打臥たり 誰とハ知ら
         す又七郎手負たり天晴見事也引退ソかれ
                        か脱ヵ
         よと云ハ又七郎か曰不甲斐無言葉□な引程の
         足阿れハ先ニ進み也とのゝ志りける処尓家来馳
         来り肩尓か希て退ける 今日の討手の甲乙を
         高見権右衛門■尓言上せし尓も栖本か功を
         第一とす早速又七郎組頭谷内蔵之允上使
         として被仰渡けるハ今度阿部兄弟之儀に
         付働無比類段高見権右衛門ゟ被聞召上
         御満足ニ被 思召上候 手疵随分養生可致
         也とて其後又内蔵之允 御花畑江被 召出
         御意の趣ハ今度栖本又七郎阿部兄弟共

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■細川小倉藩(140)寛永三年・日帳(七月朔日~四日)

2020-02-03 08:13:36 | 細川小倉藩

                       (寛永三年七月)朔日~四日

         
         |     朔日
         |

松ノ丸中奉行所ニ |一、松ノ御丸中奉行所ニて、惣談御座候事、
テ相談      |

         |         
         |     二日
         |

         |一、惣右衛門と申加子壱人病死仕候由、鏡善右衛門申候也、松本彦進へ其段可被申渡由、被申渡候
         |  也

         
         |     三日
         |

元和九年張付奉行 |一、下川加兵衛、元和九年分御貼付奉行被 仰付、寛永元年ニハ、大坂御ふしんの大工奉行ニ罷上、
大坂城普請ノ大工 |  罷下候而、追付御金山へ被遣候、右ノはり付之御さん用終ニ節々可仕上由、申届候へ共、右仕合
         |                           〃〃
奉行勤役ニヨリ算 |  ニ候ゆへ、終ニ御算用不仕上候ニ付、私親所ニ御帳箱預置候ヘハ、六月廿九日ノ夜ノ火事ニやき
用未完  算用帳 |                  (林)       (河田)
焼失ニツキ先例ニ |  申候、御算用如何可仕哉と被申候、弥五右衛門・八右衛門被申候も、古木小屋右ゟ一両度やけ候
ヨリ算用ナシ   |  時ニ、御帳箱やき候衆ハ無御算用通り申由ニ付、先例次第たるへき由、加兵衛ニ申渡候、当番
         |  (吉田)
         |  少右衛門也、
         |                     (是門)               (虫損)
中津ノ売米調   |一、中津ニうり米御座候由、御聞及候由、米田與右衛門殿ゟ被仰越ニ付、□□様子聞ニ、町人壱人可
継馬ノ状     |  被遣候、則次馬ニて参候様ニ、可被仰付候、次馬ノ状調進之候事、
         |一、井門亀右衛門
         |  〃〃〃〃〃〃

         
         |     四日
         |               (ママ)

         |一、井門亀右衛門与之遠藤市太夫と昨日病死仕由、小頭山本吉介申来候事、
         |              (長岡孝之)(忠興四弟)
         |一、中山長三郎娘十ニ成候を、 中務様へ被進候処ニ、此中相煩候ニ付、国東ニ残置、養生仕、快気
         |                      (同上)              (渡)     (破損)
         |  仕由ニ而、次左衛門・與左衛門召連、罷出、 中書様御内加左衛門ニ相□、切手取□、候事右同
         |  人被申候事、
         |一、今度罷上候御船頭森山源右衛門尉、但、竹・なわ・薪・ひへ、
         |
         |                           (直正)
豊後横目庄田安照 |一、豊後御横目衆へ引せ被遣囚人、慥連届、相渡候由、寺本八左衛門与小頭與左衛門、続亀介与ノ小
へ走者ヲ引渡ス  |  頭申来候事、
         |           (正重)
         |一、右ノ囚人ノ御奉行黒田蔵人囚人相渡、罷帰候由申、登城被仕候事、
         |一、去ル三月ニ、江戸へ遣候御鉄炮衆井門亀右衛門与大塚少左衛門、桑原主殿与の伊藤弥太夫、御小
         |  人三人、京都ゟ之 御書共請取、持下候事、
忠利書状     |一、六月廿二日之御日付之 御書、右御鉄炮衆今日持下、致頂戴候内ニ、御家老衆三人、民ア少殿へ
         |  も可申渡由、被 仰下候ニ付、則写候而進之候事、
         | (吉田兼治室、細川藤孝女)伊也
         |一、浄勝院様ゟ 中書様へ、こも包二つ参候、上羽浄和を以上ケ申候、杉本左介持参仕候也、
         |       (長岡孝之)

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■細川家家臣田中小右衛門・奥村安左衛門・熊本宇土藩主細川大和守宛古文書

2020-02-02 21:48:21 | オークション

                                    細川家家臣田中小右衛門・奥村安左衛門・熊本宇土藩主細川大和守宛・江戸期・古文書

                                 

   興味深い文書である。細川大和守とあるのは宇土細川家7代・興里である。享保二十年に13歳で家督、元文元年に従五位下大和守となった。
寛保四年(延享元年)甲子二月八日、興里は参向公家・勅使久我大納言通兄卿の館伴(饗応役)を命ぜられている。興里は23歳の若さである。
この書状は約一か月後のものあるが、重賢が幕府の許可を得て、岳父である久我通兄(細川重賢夫人・由婦姫の父親)を、細川家屋敷に招くについての連絡である。
幕府に申し入れたところ「勝手次第に」と松平伊豆守(松平信明か)の了解があったことが判る。

                  大和守様     奥村安左衛門 
                           田中小右衛門   

                  以手紙啓上仕候 今度
                  久我大納言様御■ニ付
                  御逗留中傳
                  奏御屋敷江
                  太守様御見廻御對面
                  當御屋敷被成御招請給
                  被成度申御用番松平
                  伊豆守様江御書付を以
                  被成御伺候處御勝手次第
                  可被成旨昨日御■差図被成候
                  此段私共ゟ御■を可得
                  貴■旨被 仰付如是
                  御申付候以上
                    三月九日                
                                           

      ■田中小右衛門
    人物の特定ができないが、「豊臣家五奉行の一人、近江水口五万石城主、関原において西軍につき自刃した長束(水口)大蔵大輔正家 の子・半左衛門が、
    細川幽齋の娘・伊也と吉田兼治のあいだの娘を室としている。
    小右衛門とはその子・2代信言もしくは3代又助かと思われるが、「御侍帳・享保八年写」に「小左衛門 御中小姓頭 六百石」とある。

   ■奥村安左衛門
              奥村軍記家(南東10-17)4代目安左衛門・親貞(庄次郎) 
          千三百石 御番頭二番着座大組附御奉行触 屋敷・内坪井
                享保十四年~元文五年十一月 小姓頭
                元文五年八月~宝暦七年四月 用人
                宝暦九年一月~宝暦十一年(病死)番頭

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■如月のネコ

2020-02-02 13:10:11 | 俳句

  一月生まれの私だが、寒さは苦手である。しかし今年の冬は例年と比べ気温が平均2~3度高かったという。
大きな災害をもたらした昨年の異常な気候を引き継いでいるようで、いやな感じがする。

朝の散歩でも手袋やネックウォーマーを必要としない日が随分あった。
明後日は立春だというのに、ここ数日遅ればせながら冬の気温にさがってきた。一週間ばかりは「寒い冬」になりそうだが、今日は太陽もサン/\で散歩も気持ちが良い。

 今日は最低気温が1・2度といったところか。日曜日とあって少々朝寝坊したこともあって散歩の時間も少し押してしまった。
歩いていると目の前をネコが歩いている。首にバンダナ状のものがまかれているから野良猫ではなさそうだ。
1、2mほどのブロック塀の側まで来ると、見事に塀の上にジャンプして見せた。
私が通り過ぎるのを首を回しながら見送ってくれる。頭をなぜようとしたら逃げられてしまった。
歩みを進めながら、ふとどなたかに「塀の上を歩くネコ」の句があったな~と思い至ったが、肝心の句は浮かんでこない。

 大いに気になって、帰宅してこれはと思う本を手あたり次第引っ張り出してみてみるが、中々行きあたらない。
約一時間、徒労に終わるかな~と思っていたところでようやく見つけ出した。
東京やなぎ句会編の「五・七・五、句宴四十年」に、落語家入船亭扇橋が「友を偲ぶ」という項で紹介している。
直木賞作家の故・神吉拓郎氏の句であった。

         きさらぎの 大猫塀をわたりけり

なんと季語が「きさらぎ」、まさに今日の風景にぴったりではないか・・・
句自体は思い出せなかったが、心に残っていたのだろう。神吉氏は猫を愛してやまなかったと解説があった。

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