津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■応仁の乱

2017-06-20 11:25:18 | 書籍・読書

                                               応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書) 

 呉座勇一氏著「応仁の乱」が35万部突破したとか報じられている。
友人から「読んだかい」と聞いてきた。買ったけどまだ忙しくて読んでいないと返事をして、慌ててAmazonで購入した。
それでもなかなか時間が取れず、床の本の山の頂上に鎮座したままであった。
また「どうだった?」と聞かれるとまずいので、昨日一気呵成に読了した。うん・・35万部売れたというのが判るような気がする。
この手の本はなかなか読みずらいものだが、新書とはいえ一晩で読むには読むほうの力よりも本の内容が伴わなければそうはいかない。
本体900円、ご一読をお勧めする。

呉座氏はまだ37歳、今後いろいろ教えを乞うことになると期待が膨らむ。ご活躍を期待する。

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■図書館行き

2017-06-19 19:56:59 | 徒然

 梅雨入り以来雨が降ったのは二日ばかりだったろうか、明日から雨模様となり一週間ばかり降り続くようだ。
熊本県立図書館は明日は休館日とあって、今日は午後から自転車で出かける。
数家分の「有禄士族基本帳」を取得、一部は高瀬藩(新田藩)のものとあって関係資料を調べる。
高瀬藩は「慶応4年3月4日、肥後新田藩は10代藩主利永を始め、藩をあげて江戸を離れ本藩のある肥後高瀬に下った」ものであり、明治3年9月4日、明治4年の廃藩置県を前にして、高瀬藩は本藩に統合された。資料がいたって少ないが、熊本藩の資料として「高瀬藩士代禄帳」が県政史料として残されている。
ところがこれには人名索引がなく、該当人物を探すのに何とも不便な資料である。先祖附も本藩のようにな微細なものではない。

そのうちにPCを持ち込んで自分で作ろうと思っている。

その他、次の史談会の史料を見つけようと、上妻文庫や雑撰録を数冊拝見、都合50数枚をコピーして終了。
そして本は借りずに帰宅。(購入した本がそのまま床に山を作っているから・・・)

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■物知り殿様

2017-06-19 07:33:16 | 徒然

 八代藩主重賢公は熊本版百科事典「雑事紛冗解」をおつくりになるような方だから、いろいろお物知りである。
「遺秉集」抜き書きから
            御馬の動かさる節御差圖之事
        或時御馬を率て参に其御馬ぎすとも動かさる故力を出し聲をかけ■けとも動かず
        兎角其の内御覧遊され霊感(重賢)公ぬかづきを吹け/\と御意有しかとも知ら
        ざれば手を出
すへきよふなく居たりしかは又鼻の穴を吹け/\と御意有鼻の穴を
        ふきけれは何の事
なく参りけり妙なことを知召るヽ殿様なりと咄ける

もし動かない馬を見つけたら、「鼻の穴」に息を吹きかけて上げましょう。????
          

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■尚歯会

2017-06-18 21:31:34 | 歴史

 熊本藩年表稿、安永6年6月18日の項に「竜口邸にて尚歯会を催され、七十才以上の御知音老人を招き、又出入の者、家中の男女七十才以上の者に料理等下さる」とある。
宇野東風著「細川霊感公」に「養老」という項を立てて次のように記されている。

  齢は爵徳のニと共に、天下の達尊也、故に古来聖王賢主、皆老を養ひ給ふ、
  公亦特に耆老を憫み給ひ、町方在方の別なく、奉行所に命じて調書を進達
  せしめ、士農工商の別なく、年歯九十に達するものには、其の品位に従ひ、
  士分以上には目録を添へ、農工商には、金子に酒を添へて賜へり、然して
  此の恩典は、初めは年の六月に下賜せられけれども、六月まで半年を経過
  せむには、或は老木の風を待たぬ例もあれば、其の恩典に漏るヽものあり
  なむとて、遂に改めて正月十一日に下賜せらるることヽなれり、其の他鰥
  寡孤獨の救恤を怠らせ給うことなく、領内無告の民なかりき、
  (尚歯会については)
  嘗て江戸にて尚歯会を催し、七十歳以上の人々を招きて、終日饗宴ありて
  大いに歓楽を盡さしめ、壽字を蒔繪したる杯一個宛、萬歳杯と稱して、引
  出物にせられ、且つ賤者には金子を與へ、當日往復の輿料をも添え給へり、
  又女は同日小君の許に召して、同じく饗宴を賜へりとぞ、

  この尚歯会は御客、筑前・有馬備後守共八人、家臣・成瀬尉内共九人、町人・寺町百庵共五人、雑人・七人、女十九人とある。

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■しなす・・

2017-06-18 13:29:48 | 熊本

 ある本を読んでいたら「迷惑かけ候半ようしなす・・・」とある。「しなす」という言葉は現在ではあまり使われないと思うが、熊本の田舎ではまだ現役で使われている。自分の意思であることに変化をつける状態をいうのだが、例えば「いつもは手入れもままならない頭にパーマでもかけようものなら」、すぐさま「どうか、あーた(貴女)はえらい頭にしにゃーて(しなして)」と言われることになる。
「どうか」も熊本独特の「感心した時,驚いた時,あきれた時などに出る「うわぁ,どうだろうか」と言った感動詞」である。

「しなす」は「為成す・為做す」だが、先にご紹介したお堅い文のように、かって遠く都から伝わったこのような古語が、未だ田舎にこのような砕けた言いようが残っている。古語は時を経て方言として定着している。

 

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■サボテン咲く

2017-06-17 09:57:47 | 徒然

           

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■6月例会

2017-06-17 06:57:34 | 熊本史談会

 今日は熊本史談会の6月例会、昨晩は配布資料づくりが就寝前までに及んだ。
私の悪い癖で切羽つまらないとやらないのが原因である。午前中の ■六月十四日・祇園会 が余計だった。
大きな原稿は近所のコンビニまで出かけてコピーを取らなければならない。その40枚程のコピーを切り合わせたり、糊貼りしたり・・・
A4原稿は別に60枚程我が家でコピーをとり、これ等を仕訳したりと大ごと。
それから説明用の原稿や読み下しに関するコピーを準備して、それぞれに目を通す。75爺にはこれらの作業が堪えるようになった。
9時過ぎに終了一段落、ロックで焼酎を一杯、シャワーをして一息つく。
就寝しても忘れ物はないかと考えていると中々眠りにつけない。今朝は少々早めの起床と相成った。
最近はバスを利用して出かけるが、バスの中で再度説明用原稿を読み返すことにしよう。

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■六月十四日・祇園会

2017-06-16 18:25:19 | 史料

 「歳序雑話」という古い記録がある。熊本の歳時記ともいうべきものだが、六月の項の「祇園会」を抜粋してみた。
原文は白文であるが、これが掲載されている「日本都市生活史料集成3ー城下町篇1」では「レ点や一二、送りカナ」が振られている。
それでも中々読むのに難儀するが、チャレンジしてみた。

   (六月)十四日は祇園会也、七日より十三日に至ル、社頭ニ詣デ尊卑於道路ニ支(わか)ルコト竹葦ノ如ク稲麻ニ似タリ、
   一駄橋ノ前後、社壇ニ及マデ茶店ヲ構エ、仮屋ヲ飾リ種々ノ売買ノ珍異、玩弄ノ具物、酒肴ヲ置時果ヲ備エ、来往ノ求ヲ
   俟ツ、又道ノ傍ノ乞食人、声々ニ一銭ヲ求ム、是國初ヨリ河原ノ地ヲ卜(ボク)シ、曾テ世ノ交リ無シ、故ニ寛仁ノ世ニ
   至テモ猶斯ノ如ク乎、往反朝ヨリ暮ニ至リ、暮ヨリ明ニ達ス、夜々月光明々、水色清々、涼風袖ヲ翻ス、故ニ遊舟ニ棹シ、
   坪井ノ流ヲ降リル、一駄橋ノ下ニ至リ、棹ヲ閣(お)キテ往還ノ行粧ヲ見レバ、多々舟中酒ヲ置キ、吟風弄月楽ヲ以テ尽
   ス、亦女童ノ商売ノ遊船傍ニ有リ、倡瞽(しょうこ)ハ淫楽ノ器ヲ鳴シ、淫風ノ歌ヲ謳ウ、種々其ノ求ムルハ一種ニ非ザ
   ル也、陸者ハ舟中ヲ窺ヒ、舟者ハ陸路ヲ仰グ、述ベキ情患耳ヲ忘ル、
   祭日ハ両座ニ於テ申楽ノ能ヲ興行ス、舞台上下ノ桟敷、芝居ノ結構、巨細毫ヲ以テシ難シ、六曹ノ一人上ニ代リテ至リ見
   ル焉士長群臣列ヲ曳キ席ニ著ス、臘次ヲ敢テ乱サズ、其式御所ノ体ト異ル莫シ、楽七番ヲ以テ限ト為ス

難しい熟語があり解しがたいが、喧噪の中の祭りの様子が見事に白文の中に凝縮されている。
ざわめきの中に人々の笑顔が見えるようである。

                    

 かっての祇園社、現在の北岡神社では6月30日「夏越の大祓」の茅の輪くぐりが催される。むかしの賑わいを取り戻したいものだ。

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■夢の中の作句

2017-06-16 09:55:37 | 俳句

         籐椅子の母が手の止む団扇かな  津々

 夢には何の前触れもない。久しぶりに母の夢を見た。
母の一人居の住まいはなだらかな丘陵地に建っている。母が一人で建てた家である。一人でというのは自らの労力でという意味である。
私が時折訪れて何本かの木を植えた。
またたく間に成木となって爽やかな木陰を作った。不思議なことにこの夢は何度も見る連続ものである。

昨晩(今朝かもしれない)の夢は、その粗末な家の縁側で籐椅子で母が昼寝をしている。団扇で風を送っていた手が止まって寝入ってしまったようだ。
夢とは不思議なもので、そんな母の様子を見ながら私も夢の中で俳句を作っている。

朝目が覚めると、その句のすべては覚えていない。こんなものだったろうと思ってメモに控えた。
どうやら昨日のTV「プレバド」で、辛口のコメントをされていた夏井いつき先生の見事な添削に、大いに感心したことが影響しているようにも思える。
添削をお願いするとどんな句に変身するのだろう。

 

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■松寿庵先生・第241講

2017-06-15 15:21:48 | 史料
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■二つの松笠菱紋

2017-06-14 07:31:07 | 家紋

 細川家家紋の紋形が綿考輯録に六ツ、藩譜採要に七ツ紹介されているがその違いが三ツある。
藩譜採要には「竹笹紋」があること、二つ目は後者にてっせん紋があること、最後は「松笠菱紋」のデザインが全く異なることである。
なぜ細川家の基本的資料でこういう違いがあるのかも疑問である。

         綿考輯録にある紋藩譜採要にある紋

 その「松笠菱紋」は築山家に下賜されたというが、そのいきさつは次のようである。
綿考輯録にはこの「松笠菱紋」について
「既に南朝の正平十年(1355)細川頼之、西岡・山崎表発向のとき、楠正儀夜討を懸、軍不意に起り、築山市正保俊一人を連、北嵯峨より帰洛之由、此時築山と鎧を着替、松笠菱の紋付たるを直にあたへ、子孫に伝ヘ候ハゝ御申候との事、築山か家記に有之、此時の感書も今以伝来致候、此砌は築山も公方御直参なり、殊に頼之の聟なり、右保俊より六代目市正俊方、藤孝君之御家士と成、松笠菱ハ代々の家紋に仕候、頼有君も松笠菱御付被成候」と記し、又御家譜抜書には「頼有公御譜中・・家之紋松笠菱代々用之」と記してる。
築山家系図には「弥十郎重俊(市正) 母細川頼之庶女・福」と記されている。

藩譜採要にある紋 
最近この紋が描かれた陣笠の写真の提供を受けたが、写真の公開は控えてほしいとのことであった。
黒漆に金で三つの家紋が描かれている大変珍しいものである。ある有料の家紋を紹介するサイトによると、「細川京兆家」(1)の家紋だと紹介しているが、よくよく観察すると提供を受けた陣笠にある紋形が微妙に違う。
四つ折り紙で紙きり細工をしたという感じがするが、穴の穿ち方が大変心地よいし、稜線が菱型とは言えども微妙に膨らんでいて奇麗である。是こそが真形だと密かに思っている。
泡坂妻夫氏の「家紋の話ー上絵師が語る紋章の美ー」を読んでいるが、残念ながら掲載されていない。御高説を伺えないものか、手紙を出してみようかと思いながら躊躇している。

綿考輯録にある紋
綿考輯録では全く趣の違う松笠菱紋を紹介している。
紋帳ではなかなか見受けられるものではないが、先の有料サイトでは「細川京兆家」(2)or 「細川勝元」 の家紋だとして紹介している。
細川勝元は右京大夫、唐名で京兆、ゆえに京兆家と呼ばれるのだが、(1)(2)をどう使い分けしていたのだろうか。


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■細川家家臣・津田氏

2017-06-13 09:40:39 | 歴史

 今度の史談会においては、津田平八の「御奉公附」を取り上げることになった。
この津田平八成る人物がどういう人なのかを知っておく必要があるので、少々まとめてみた。
細川家家臣には五家の津田氏が居られるが、すべてが織田一族である。
津田平八のご先祖様は、織田信長の弟・信包(のぶかね)織田信包であり、丹波柏原藩藩主であった。
嫡子信重は父とは別禄で伊勢林一万石の藩主となったが、信包の死後その遺領を弟・信則と争い敗訴して所領をも没収された。
信重室は管領家斯波義銀(のち津川義近)女である。義銀の二男・辰珍は細川家(豊前・忠利代)に1,000石をもって客分ととなった。
肥後入国時加増されて1,250石になっている。
織田信重の子・三十郎(次郎左衛門長相)も細川家家臣となり300石、津田平八はその六代の孫にあたり、番頭・小姓頭・用人などを勤めた。

津川辰珍には男子がなく、長兄・近利の子を継嗣としているが、辰珍は不思議な行動を起こしている。
寛永十七年、自分の知行の内700石を妹の子・津田三十郎に分け与え1,000石とさせ、津川の継嗣・長房には750石を継がせている。
その後細川家は津川長房に対して加増を行い都合1,500石の家格となった。かっての管領家であったことを遇してのことであろう。
それにしても少々首をかしげざるを得ない話ではある。



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■下六嘉・仏誓寺行き

2017-06-12 17:35:58 | 徒然

 今日は私の歴史勉強の大恩人、Dr・高田先生の三回忌にあたる。熊本史談会の若い友人N君の誘いを受けお墓参りに出かける。
お寺からは数百メートル離れたところに墓地があり、一番奥まったところにある先生のお墓(寄せ墓)にお詣りする。

その後菩提寺の仏誓寺をおたずねする。有名な水泳選手・田中聡子さんを生んだ天然プールがある水の豊かな場所である。寺の下湧水を目の前にして十数段の石段がある。歩を進めるにつれ次第に本堂の姿が目に飛び込んでくるが、一番に目に入ったのが、本堂の幅いっぱいに設えられた「鏝絵」である。あとでお聞きしたところ江戸初期の創建で、この「鏝絵」は日本最古のものであろうといわれているらしい。
10年ほど前に吹き替えられたという屋根は、熊本城にもかかわった瓦職人による本葺の見事なものである。
ご住職によると大永年間銘の石塔があるというお話で、拝見させていただいたがそこまでさかのぼる由緒あるお寺であると推測される。
残念ながら今回の地震で、本堂に傾きがでている。外壁の漆喰が剥落、内壁にも被害が見受けられる。
修復に膨大な資金を必要とするのだろう。心が痛む。

その他ご住職の深い御縁の画家・彫刻家で有名なIK様の膨大な作品を拝見、またご実家が細川家臣K家だとお聞きしてびっくり。
私は今そのK家のことを調べていることをお話しし、大盛り上がりしてしまった。

まさに高田先生のお導きといった一日であった。感謝・合掌。

仏誓寺様が直接発信されているものではなさそうだが、「仏誓寺」というサイトがあるのでご紹介申し上げる。

 

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■鳥目三拾疋

2017-06-11 21:00:06 | 熊本地震

 先にお預かりしたO家の文書の中に、思いがけないものがあった。
O家の跡継ぎの方が初お目見えの際、鳥目三拾疋を支払った受け取りである。
びっくりした事の一つは御目見えにお金を納めなければならない事、もう一つはそれを受け取った音信所の役人が私の先祖だったことである。
印(眞)が押されてあり、音信所に勤めたという我が家の言い伝えとも符合した。

           
      初而  
       御目見之節被差上候
     一鳥目三拾疋

      右受取申候以上
      巳五月二十八日 御音信所 印

        □□□□□殿

さて鳥目三拾疋とはいくらぐらいであろうか? 30疋=300文 1文は10円~12円といいますから、3,000~3,600円といったところでしょうか。

        

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■曝書中

2017-06-11 10:02:57 | 徒然

 この間片づけたばかりのデスク周辺や、床の上が元の木阿弥状態になってしまった。
読みかけの古文書や、論考などのコピー等、ヤフオクやアマゾンで手に入れた本などは本棚に入りけれず床に平積みである。
史談会の例会史料を作るために継ぎはぎした原稿が、切りくずと共に散乱している。
都合三冊熊本県立図書館からお借りている本がばらばら状態でかくれんぼしている。
見つからない某家の先祖附を探すために、十数袋を引っ張り出したのが小山を作っている。
送られてきた郵便物の空封筒や、ポストに投函前の資料なども山になっている。
これが仕分けされているわけではなく雑然と混在しているから、探しては重ね/\しているうちに、行方知れずになりまた大掃除をするという繰り返しである。
これは奥方に掃除を頼むわけにはいかず、週一ほどで片付けに取り組むのだが、午前中は曇り模様だが昼からはお日様も顔を出すようだから、曝書を兼ねてまずは広げてぼちぼちかたずけようという積りである。
時には床に座り込んでやるのだが、先日打った膝がいたくて、これとてままならない。
ついでに押し入れの中をひっくり返していたら、久しく顔を見なかった隆慶一郎の「花と火の帝」が出てきた。
コーヒーを沸かして一休みしながら30分ほど読書、お昼まで「朽木定彦さん」に関する手紙を読み終えてしまおう。
もう数日出しっぱなしだから・・・・




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