津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■爺様は自転車お供にかやりこみ

2017-06-09 21:38:44 | 徒然

 昼過ぎ自転車で近所まで出かけ、所用先でスタンドを立てたが自転車がひっくり返ってしまった。
ハンドルがねじれた状態で起こすのに難儀しているうちに、こんどは自転車もろともこっちがひっくり返ってしまった。
左足をしたたか打って、足の外側に切り傷を作ったみたいな痛みが来た。1キロほどの距離をなんとか帰宅。
しばらくは何ともなかったが、夕方から膝やふくらはぎが痛み出してきた。膝が痛くて歩行もままならなくなってきた。
シャワーをしたのち、外用の湿布薬「ロキソニンテープ」を三枚貼て調子を見ることにする。(ついでにトンプク1錠)

自転車で走るのは20キロ(10キロ往復)くらいなら何ともないのだが、自転車を降りるとさすがに疲れた足元がおぼつかない。
年寄りは骨折したら大ごとになるから心しなければならない。今日は早々に寝ることにいたします・・・

::ストロベリームーンを見てみましたら、薄い雲のなかにあってなかなか幻想的でした::

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■槇嶋家住宅

2017-06-09 07:02:41 | 史料

 新熊本市史・別編第三巻にある、槇嶋家の住宅である。槇嶋真澂家とあるが、この人物は槇嶋家最後の当主である。つまり幕末・明治期の300石取の武家の住宅ということになる。このような資料が残ることは大変珍しい。
初代昭光は将軍義昭の側近だった。豊臣秀吉に仕え2,000石、義昭の死にあたってはその葬儀を差配するよう命じられた。
大坂の陣では西方に付、後隠居して云庵(うんあん)と称した。細川忠興などの嘆願により助命され、のち細川家家臣(1,000石)となり忠興(三齋)の側近として仕えた。
真澂は槇嶋家の12代目、半兵衛・真徴(澂)→冨次と名乗っている。間取り図にある「隠居」とは11代目の半之允であろう。

どこに住んでいたのかは判然としない。熊本市史の城下町図でも現況確認ができていない。数代前が「在宅」しており、この住宅も「在」にあったのかもしれない。南西角の部屋が当主の部屋であろうと思われる。五坪(10帖)とあるのは四坪の間違いか。
50坪ほどの大邸宅である。しかし本瓦葺・瓦葺・カヤ葺の屋根が混在していて建築的に見ても興味深い。

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