ちょうどこの時期は、九州平定のために出陣した秀吉に追い詰められた島津氏の敗色が決定づけられる時期である。
天正15年秀吉は肥後路を進み、弟・秀長は豊後路に入り4月17日に日向の根城坂で島津氏を撃破した。
秀吉はというと4月27日にはすでに熊本を通過し、海路出水(鹿児島県出水市)に入っている。翌28日には平佐城の戦いで島津軍が敗退、実質的な両軍衝突の戦いは終わりを遂げた。5月3日秀吉は川内の泰平寺に入り、島津義久は6日に剃髪し8日に秀吉のもとに赴き降伏した。
前の年、天正14年4月5日豊後の大友宗麟は島津氏の圧迫を回避するため、羽柴秀吉に助けを求めた。
「大友家文書録」には6日付けの宗麟が国許に宛てた書状が紹介されている。あの有名な利休の権勢ぶりを目にした「内々之儀者宗易、公儀之事者宰相(秀長)存候」が知られる文書だが、秀吉の過分な供応ぶりを詳細に伝えている。秀長はじめ、羽柴秀家、細川兵部入道(幽齋)、長谷川某、宇喜多忠家、家居(?)の方に宗麟、前田利家、安国寺恵瓊、宮内卿法印、利休居士などが居並んだという。
秀吉は大友宗麟の意を受けて九州平定に乗り出すこととなる。
実は今日、秀吉の九州における動向を詳しく知りたいと思い、「九州御動座記」を読みたいと思い熊本県立図書館に出かけた。処がなんと今日は休館日、もうがっかりして力なく帰宅に及んだ。又明日出かけようか?思案のしどころである。