津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■法華坂でのこと

2014-01-28 09:49:17 | イベント

                                                         (左下が志水伯耆邸、中央が後に東榭西榭が設けられる藩校・時習館の位置右手が長岡監物邸である。)

 

 熊本城の正面は西に向いている。新町の新一丁目御門からのびる坂が法華坂であり、空堀に添って左手に折れると右手に現在の西大手門が見える。二ノ丸は重臣の屋敷が立ち並び二ノ丸御門を経て豊前・豊後街道へと繋がっている。
今月の史談会では、会員藤本修氏の渾身の研究「熊本城下の坂」をお聞きするが、今日はこの法華坂で起きた事件を取り上げてみたい。 

法華坂は神風連の乱にあたっては、首領・大田黒伴雄が自刃したところとして知られるが、忠利公の時代にはここで何ともいただけない事件が起きた。
忠興公に殉死した興津弥五右衛門の兄・九郎兵衛一友がおこした事件である。時代の確定は出来ないが、九郎兵衛は島原の乱で陣死しているから、寛永九年の細川家の肥後入国から五~六年の間に起きたものである。

                         忠利公御代沖津九郎兵衛とやらん、四尺斗の長刀を差たる
                         か法花(華)坂ニ而小便を志たるま、監物殿の馬乗通り懸り小尻を
                         蹴、沖津振返て何者そと咎しに馬乗却而悪口せし故
                         沖津抜打ニ二ツに斬殺たり、夫より今のの後四角迄来 
                         りしに、早此事監物殿江聞へ討手を向らる様子ニて、大勢
                         門前ニ集り既二可押懸躰なれ者、沖津引返シて大頭志水
                         伯耆殿江行 今の小笠原大部殿屋敷 只今ケ様/\の訳ニて手打仕候処監物
                         殿より討手を被向様子ニ見へ候故、差図を受可申ため参
                         上仕候と云しか伯耆殿聞て、早々御通りし得とて沖津
                         を座敷江通し扨有合家来共に下知して門を打せ鉄
                         砲を持て長屋の屋根に上らせられし中、早監物殿の者共ハ
                         沖津伯耆殿江馳込たりとて志水殿門前江押寄監
                         物申候、沖津何某手前家来を討て其元江罷在由早々
                         御渡可被成と云、しか者伯耆殿返答ニ御家来不届之儀御座
                         候而沖津九郎兵衛討果申候然るを相渡申候儀決而不相成
                         申候と云れしかとも、監物殿家来共猶ニ強而御渡可被成と
                         云募しか者、伯耆殿被申たるそ一應不相渡旨理り候を強而
                         受取度候て何様共被致候へ被見通鉄砲をも賦置候条可被
                         致覚悟と云れしか者、監物殿家来共ハ俄の事ニて着込
                         抔せし者も無く、勿論鉄砲も不持者兎や角と暫く猶豫し
                         たる中使を馳て主人の方得云遣ハせしかハ監物殿怒られ
                         自身行向て請取べしとて大騒動なりしかハ、此事早
                         尊聴ニ達シ俄ニ沼田殿を召て被仰渡しハ、監物者家来の
                         敵ニ討手を向候由尤左も可有事也、然るに若伯耆様討れ
                         候ハゝ監物か討手ニ者汝を差向候間早々其覚悟致居候得との
                         上意也、沼田殿■なから御請申上退出し斯成行てハ以の
                         外の大事也と直ニ監物殿江内々ニて此由云送られしかハ、監
                         物殿聞て我忠義を忘たりとて大ニ後悔し早速手の者
                         共を被引取たるとなり

 藩内でこのようなことで一触即発の状況になっている。いまだ戦国の侍の血が騒ぐのであろう。
監物とは家老・長岡(米田)監物興季である。慶長十二年細川家を退去し牢人し、大坂の陣に於いては西軍に付いた。元和八年に帰参し寛永二年家老職、同十一年一万石を領す。
志水伯耆とは新之允(雅楽之助 後・伯耆清久 入道〆宗加)であろうと思われる。当時備頭大頭六千石である。(日下部与助の父)  志水元五(日下部与助)の事である。
尊聴に達したと有るから藩主忠利は在国している。肥後入国から島原の乱の為に帰国するまでの間、忠利が在国するのは次の如くのわずかな時期である。

さてどの時期なのか、うかがい知る資料が見当たらない。もし志水が討たれたら沼田氏をして監物を討たせるという忠利の思いが、監物を翻意させた。 

一、同年(寛永九年)依召九月十三日小倉御発駕 十月三日江戸御着 東海道御旅行 同四日肥後国拝領 同八日右
  為御礼登城 同十二日御暇被仰出 同十五日江戸御発駕 東海道御旅行 十一月十日小倉御着 十二月五
  日小倉御発駕 同九日肥後御入国 熊本城ニ御入
一、寛永十年九月十二日熊本御発駕 十月十日江府御着 同十三日御拝礼

一、同十一年家光公御入洛御参内付而 忠利公御供奉被蒙仰 五月御暇被仰出江府御発駕 同廿一日
  上鳥羽御着七月十八日御参内之節 忠利公御衣冠ニ而四足御門ニ御候 同年閏七月廿九日御暇被
  仰出 八月朔日上鳥羽御発駕 同十三日熊本御着
一、同十二年正月十六日熊本御発駕 二月十四日江戸御着 同十八日御拝礼

一、同十三年五月御暇被仰出江府御発駕 六月九日熊本御着
一、同十四年三月廿日熊本御発駕 閏三月九日江戸御着

一、同十五年嶋原一揆ニ付 依御願正月十二日被為召 即日江戸御発駕 同廿五日熊本ニ御越 御城ニは
  不被為入 立田村より白川御渡河尻江御越御乗船 翌廿六日己刻直ニ嶋原御着 賊徒御討捕之 二月
  廿七日原城落去 三月二日有馬御発即日熊本之御城江御凱旋



                              http://www.youtube.com/watch?v=knnJ3Cf1Xeo

 「志水伯耆」につきましては人物の特定を間違えておりました。
 ご子孫からのご指摘を受け訂正をさせていただきました。御礼を申し上げます。 2016:9:2

                             

コメント
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