津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

祖父廿歳のときの書状

2013-07-28 17:24:56 | 徒然

 

                                                                                                            

中路文書を調べていたら、なんと我が祖父さまの手紙が出てきた。消印がはっきりしないがどうやら明治23年のものらしい。とすると祖父さま廿歳のころのものであり宛名は中路信吾殿となっている。文中に克堂(佐々友房)のことが出てくるが、下働きでもしていたのだろうか。
佐々は西南の役では熊本隊に属して活躍するも捕らえられ、明治12年(1879)1月まで入獄、その後同心学舎(後の済々黌)を設立した。15年には政治結社・紫溟会が結成され顧問となり、明治22年1月熊本国権党を組織し帝国議会の開設に当たり衆議院議員に立候補して当選を果たしている。その翌年の書状である。

祖父は後(1899~)に東亜同文会の平壌日語学校の校長を務めるのだが、学校と東亜同文会の関係が切れた後も、1911年まで何らかの形で学校を存続せしめ関わっている。国立教育研究所紀要(昭和63年3月号 第115号)に掲載されている稲葉継雄氏の論考「旧韓末日語学校の日本人教師」によると、「日露戦争にも積極的行動を興した国士」とある。私が二歳の時に亡くなっているのだが、彼の生き様は要としてつかめない。そんな中でのこの手紙は貴重なものであった。破棄されずに残された中路家関係者に深甚なる感謝を申し上げる。 

 

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番太日記から「ほんおとりの事」

2013-07-28 13:01:20 | 史料

前かとは町方の女子共七つ八つより十三比の子供、六月ぼんおどり、さらしのふりそてにさがらしとゆふて、すそ迄帯をさがらかし、むらさきのをりざきをかぶり、新町より古町におとりかけに行、又古町よりおとりもとしにくるなり。もしおどりもとしよふえんにん(延引)すれは、行て又おとる。其時あとにてのうた。
 ○おとりかけてもや、もどさんもの/\は、川原こしきの乙〃娘、みつよ夫よりはら立てもとしにきて又かけてもどる。
  六月中たがいにもとしつ、かけつするなり。七月に入れはやむ。
   (おとりのあとに心中つくしゆふておどる)
 ○かのみなもと頼光は大江山なる鬼神のたいじ、それをついでに花見の心中。
 ○かのけいせいのとふ山は、松の位をシロジロ(四郎次郎)ゆへに、今はやりてとなり行心中。
 ○十三鐘のはる姫は、鹿をころせしそのとがゆへに、今は十三かねつくしんしゅ アヽソコラレセイおどり一つひとつのの合手 まへは文やふし。
        其比、中唐人町に三よしや善六殿と■(脱字)人、上るり(浄瑠璃)義太夫ぶしはしめにて、かたりならひに行、しんせふ(身上)もひけければ、
        自分に綿売にいてられしゆへ、心中つくしにおとる。始は大綿屋なり。
 ○ 職人町の善六は、ふといしんせよを上るりゆへに、今はわたかごいなるしんしゆ アヽソコラレセイ 
        善六殿は夫より八代に数年ゆき、上るりにてもふけ(儲)出し、びんつけねりならい、又徳ほう丸を仕ならひ、もとりに柏屋ろう(蝋)をかい、びんつけね
        られしゆへ大はん昌。其時分八代に多くろうさらし(蝋晒)有、其内に柏屋が極々上なり。夫よりむすこ小善殿は坪井立町に出見せ(店)して是又はん
        せふ(繁盛)。かうしん(荒神)様の筋むかへなり。 

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