細川護久公二男、細川護美公養子。陸軍騎兵少尉、正五位・功五級・勲六等。
明治14年3月30日生、同37年8月30日遼陽会戦・除家口にて砲弾にて負傷、31日卒す。年24歳。同39年2月騎馬英姿銅像建立(昭和18年9月3日、軍に供出)
今般の福島原子力発電所事故について唯一共感できるのは、事故調査委員会に於けるすばらしい調査報告書が作られたことであろう。
大飯原発再稼動に関してもなんとも合点のいかぬまま、発電開始に至った。関西電力管内に於ける15%節電の回避や、産業界からの再稼動やむなしの声に安易に呼応したものだが、これは限定的なものとすべきだと思うし、段階的に廃止すべきであろうと私は思っている。小沢氏の民主党離党に伴い選挙の現実性が増してきた。原子力行政をどうするのか、消費税とともに大きな論点となっていくだろう。私たちは事故調査委員会が発表したこの報告書をよく読んで、事故の真実を理解し、福島で避難生活を続けておられる多くの皆様の苦労を思わなければ成らない。
http://naiic.go.jp/ ダイジェスト版をどうやら読み終わりました。要約版にチャレンジです。(16:35)
ちょっと面白い御軸である。
鑑定 江戸期武将・藩主 松平弾正少弼 八条宮様云々書状 掛軸
この松平弾正少弼とは誰なのか・・・ ヒントは宛先である生嶋玄蕃頭にある。この人は八条宮家の諸太夫を務めた人であろう。
実は細川光尚の正室が出産後母子ともに亡くなり、父忠利は後室をさがすべく忠利室の実家・小笠原家の姫を迎えるべく動いている。そこに八条宮の姫をという話が持ち上がり、忠利が困り果てている。その折書状のやり取りをした相手が生嶋玄蕃頭である。この人物については資料として次のようにある。
「生嶋秀成。八條宮(桂宮)諸大夫。慶長七年姫路に生る。寛永十一年三月十二日従五位下。同年四月廿二日玄蕃頭。寛文元年十二月廿五日従四位上。
二年十月廿九日歿。年五八。(地下家伝)」
この人の年代を追い松平弾正少弼をさがすと、浅野綱晟であろうと思われる。
細川家とは大変親交が深い広島藩浅野家の三代目藩主である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E7%B6%B1%E6%99%9F
こういう関係がおぼろげながら判って来るとその内容が気になってくる。謎解きの第一弾が終わり読み下しに挑戦してみようと思う。
ひょっとしたらこちらも結婚話かと考えたが、こちらは九条家から入られているからあり得ない。(正室・継室共九条道房女)
12名の方が応札して居られるようだが、ちょっと気になる品ではある。
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中央公論新社 |
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E4%B9%85%E5%AD%90
酒が「」書きに成っているのは、あの佐々木久子が編集長を勤めた雑誌「酒」のことをさしている。
赤字つづきだったと佐々木はエッセイに記し、多くの「酒徒善人」に助けられたとも云っているが、すなわちその「酒徒善人」がノーギャラで文章を提供してくれたらしい。編者はその中から38編を選び紹介している。そうそうたる顔ぶれの大先生の肩肘張らない名エッセイが楽しい。
私は今でも佐々木久子の『酒縁歳時記』(1977年・鎌倉書房)を大事に持っている。そして時折本棚から取り出してなつかしく読んでいる。
昨日左手首を捻挫し、シップをして包帯で固定をして一日過ごし、ブログもひとつ書いては見たもののタイピングがままなりません。
まだズキズキと痛みが引きません。 明日はどうかなーと思いつつ、予防線を張っておきます。
このたび石光真清の生家が熊本市に寄贈されたと新聞が報道している。
http://kumanichi.com/osusume/hotnews/kiji/20120704001.shtml
石光真清は「城下の人」で知られる人である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%85%89%E7%9C%9F%E6%B8%85
その生家は本山の細川齊茲の隠居後の邸宅があったところである。建物自体が邸宅跡ではない。
野中の一軒家であったらしく、冬になると風をまともに受けて寒くて仕方なく、城内二の丸に又屋敷を構えここで晩年をすごした。
この本山の屋敷であのかわいらしい耇姫が誕生している。
さてこの石光真清の生家、14年度には一般に公開されるらしいが、どのような形でお目見えするのか興味深い。
ご他聞にもれず財政難の折、このようなお荷物にもなりかねない施設に、どんな手当てをするのか熊本市の対応に注目したい。
文化都市熊本と成りうるかどうかが試されている。
NHKで毎週火曜日の21:00から25分間「さかのぼり日本史 幕末 独立を守った現実外交」が始まった。今日はその1回目「神戸事件 新政府の危機」が放送される。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%88%B8%E4%BA%8B%E4%BB%B6
ちょうど私は、この事件の約1ヶ月後に起こる「堺事件」のことを調べている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6
二つの事件とも肥後藩には直接は関係ない。しかし堺事件は大変悲惨な事件で、関係者の警備や又「お預け」を受け持たされている。
このことが意外と知られとおらず、森鴎外の小説「堺事件」も「阿部一族」にはかなわない。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/2547.html
小説の中に登場する馬場彦右衛門という人物は実在の人である。今一人の山川亀太郎の名前は、侍帳にある二軒の山川家からは見出せないが二・三男なのかもしれない。ずいぶん多くの人数を警備に出し、又「預人」のお世話をしたわけだから、「熊本藩年表稿」などにも記載されるべき事件だと思うのだが、記載がない。「肥後藩国事史料」などのご厄介にならなければならない。
この番組はちょっと見逃せそうにない。あと2時間後楽しみではある・・・・
昭和46年3月地元熊本日日新聞社が発行した、「熊本のかたち・歴史と風土」は大きな写真に説明のコメントが配されており、今だに我が本棚にある。
この中に前進座の中村翫右衛門の「阿部一族の墓」という一文がある。舞台で「阿部一族」を上演するに当り、御船町の東禅寺を訪ねられたおりのことである。誰が案内したのか、ここにあるお墓はいわゆる誅伐を受けた阿部兄弟のものではないというのが、最近の考え方として認識されている。文章は微妙であるが、たぶん兄弟のお墓と思われての墓参であったのだろう。その他の一族を含めてのことであるのならば、まさに「阿部一族」ではあるが・・・
わざわざ遠くまで足を運ばれお参りいただいている訳だが、なんとも申し訳ない感じがしている。
どう考えても、誅伐された人のお墓がこのように堂々とした形で存在するというのは合点がいかぬ。
私は彼らの父祖の地である豊前のどちらかに、ひっそりと葬られているのではないかと考えているのだが・・・・如何
細川家の豊前時代の侍帳「御侍帳并軽輩末々共ニ」をみると、寺社領という項目がある。
秀林院(忠利公母公・明智光秀女)-百石とか、宇佐神宮-千石、安国寺(肥後御入国之御供、今高麗門ニ有)-三拾石などとともに、彦山座主坊-千三百四拾石九斗二升四合八勺とある。昔は西国一の修験道場であったらしいが、現在は彦山神社となっている。
http://hikosanjingu.or.jp/news/index.php?e=57
英彦山神社のサイトにも見られるように、細川忠興が豊前に入り、前座主舜有の孫娘に日野大納言輝資卿の三男を養子として座主職につけた。忠興の一字を与え忠有と名乗った。座主の妻に三百石、政所領として七百石が与えられるなど、厚遇ぶりが目に付く。
日野大納言と忠興の関係がどのようなものであったのか、良くわからないでいる。
細川家が豊前を離れた跡は小笠原家が面倒をみたようだが、「真源院様(光尚)御代御侍名附」においても、寺社領として「百石-彦山座主」と見える。
細川家の深い思い入れが何故なのか、これまたよくわからない。
ちなみに英彦山と書いたり彦山と書いたりしているが、読みは「ひこさん」である。これは霊元上皇から「英」の文字を頂戴したことから冠したものだとされる。
(1) 640)◇細川幽斎 里村昌叱宛 書簡 軸装 紙本 肉筆 掛軸
(2) 【細川幽斎/和歌/マクリ】掛軸 掛け軸 戦国武将 歌人 古文書
いずれも幽齋公のものだとする軸装とまくりである。
(1)の里村昌叱【天文8年(1539)~慶長8年(1603)】 は連歌師で、青龍寺時代に席を同じくしての連歌の会の記録にも昌叱の名前はたびたび確認される。
天正10年(1582)5月29日本能寺で信長が亡くなると、藤孝は隠居し幽齋と号した。この書状は幽齋とありこれ以後のものである。
又藤孝(幽齋)に田辺城に招かれ連歌の会が催されたりしている。(天正12年8月21日)
いまだ読み下しには至らないが、大変興味深いものである。
(2)は軸装からはずされた「まくり」のようだが、相当痛みがある。
この歌の記録が残されているとよいのだが・・・・・
真贋のほどは・・・いつもの事ながら判らない。史料としての興味は尽きない。
日本圖會全集(昭和3年3月発行)から、辰の口、道三橋、銭瓶橋をご紹介しよう。
■龍の口
和田倉御門の東御溝(おんほり)の餘水を落す、此所迄潮さし入あり。昔此邊(あたり)を平田村といひしと云。同所南の角松平右京兆第宅の内に平田明神の社あり。
祭る神詳ならず、今は稲荷を勧請す。又此地其昔は蒲生飛騨守氏郷の宅地なりと云傳ふ。龍の口、虎の門、梅林坂、竹橋、是を合せて営中の龍虎梅竹と穪しあへり。
■道三橋
細川侯藩邸の北の通より常盤橋の方へ渡る橋の號とす。昔此橋の南に、典薬寮の御醫官今大路家の第宅ありしとなり。
故に此所を道三河岸といふ。延寶圖に内河岸とあり、慶長の頃は柳町と云し傾城町なりしとなり。慶長十二年の圖に町屋とのみ記してあり。
俗間傳云、ある時大将軍家道三をめさる、少し遅々したりければ御咎ありし時、御堀をめぐる故に其道遠しと申上ければ、其後此橋をかけし給ふとなり。
江戸名所ばなしに、道三河岸南北ともに道三をはじめ醫術の面々、本道外科針立業まで軒をならべて住宅すと云々。寛文江戸會圖に、此はしを彦次郎橋としるしてあり。又大導寺友山翁云、道三河岸、御入國
の頃材木渡世の者軒をならべてありしが、後年彼地武家のやしきとなりける故、御城の外東の方へ移さるゝ、今の材木町是なり云々。
■銭瓶橋
常盤橋と呉服橋の間にあり。昔初て此橋を架す時、銭の入たる瓶を堀得し故號とすと。一説に、昔此所に永楽銭の引替ありし故に、銭替橋と唱へしとなり。又江戸總鹿子に云く、
昔此地にて銭を賣もの市をたて、日毎に両替せしに、後は銭賣多くなりければ、互に渡世の為にもなるまじとて仲間を定めける。依て其頃銭賣はしと云ける云々。
江戸鹿子、江戸雀等の冊子に、銭亀橋に作るはさらにより所なきに似たり。寛永十八年印本そゞろもの語といへる冊子に、天正十九年の夏、伊勢與市といへる者、銭瓶橋の邊に洗湯風呂を一ツ立る、風呂銭
は永楽一銭なりとあれば、銭瓶橋に作る事も久しとしるべし。
又、「江戸城とその付近」(昭和35年8月発行)によると、
朝々は 鴨のきている 竜の口
竜の口 昨日の雨の 息づかい などの句が残されていて、このあたりののどかな風景がしのばれると記す。
また、次のような歌もある。
あつさをも払う薬となりにけり 道三橋にかかる夕立
今は大都会の真ん中に、案内板がかろうじて道三橋の跡を示している。