津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

ご紹介・・舞鶴地方史研究会応援ブログ

2011-10-24 08:01:18 | 徒然

 畏友T氏が「舞鶴地方史研究会応援ブログ」を立ち上げられたが、ご紹介するにはいささか時期を失してしまった。

                          http://ohenmaizuru.cocolog-nifty.com/blog/

舞鶴における細川家、特に幽齋公や三齋公に対する敬意の念は、熊本以上かもしれない。
田邊城(舞鶴城)におけるお祭なども、すっかり市民の間に根付いている。

細川氏以降、丹後田辺藩は京極氏→牧野氏と明治に至っている。また細川氏入国以前の歴史を含めて、舞鶴地方史の研究は熊本人にとっても大変興味あるところであり、又活発な活動もうらやましく拝見しているところである。
氏は芦屋にお住まいであり、諸行事については舞鶴までお出かけになっているのであろうが、熱い思いに頭が下がる。

会やブログのご発展をお祈りするばかりである。

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ノーベル文学賞受賞者の著作

2011-10-23 14:11:25 | 書籍・読書
      悲しみのゴンドラ

        思潮社

              「海は壁をなす/鴎(かもめ)の叫びを聞く――/わたしたちへの合図」

              今年のノーベル文学賞は、村上春樹氏に期待が寄せられたが残念な結果となった。
             そして受賞したのは、地元スウェーデンの俳句詩作家・トーマス・トランストロンメルなる人物である。

                http://book.asahi.com/booknews/update/2011102100002.html?ref=reca

             最近、俳句という文字に出会うと過剰反応してしまう私なのだが、外人の短形詩の発想がどのようなものなのか大変興味深い。
             ましてや俳句詩などといわれると、ちょっと心動かされるれる著作である。
             上記の詩などをみると、東北大震災の事が思いやられ、切なくなってくる。

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有吉家文書「年中行事抜粋」(四十五)五節句御禮之式 1/2

2011-10-23 08:38:23 | 有吉家文書

  御在府年
   五節句御禮之式

一、御禮五半時揃ニ付麻上下着五時
  出仕之事
一、御一門衆同席之内欠席并隠居之使者
  御用番謁例之通候事
      但五節句ニハ代謁と申儀ハ無之候事
一、御小姓頭より座付之窺且御備頭等不参
  之口達年始之通候事
一、右同案内有之御弓之間東御椽通り中
  柱と佐野御間南御入側二枚杉戸内を北
  南江建付有之候中柱御間江罷出
  御敷居内北向東頭ニ御一門衆初座着
  御用人江謁御祝儀申上候事
      但御用人ハ北側西之隅ニ御衝立有之
      此所より罷出候例之御給仕口ニ候事
  五節句御禮中柱御間ニて御一門衆始
  御家老御中老御用人江謁直ニ居なり
  之内御用番壱人右絵図之通謁を受
  九曜之御間中柱之御間境之御敷居より
  三枚目之畳列座より一間計絵図之通
  謁を請御用人初退出を見て元之座に
  直り候夫より中柱御入側御杉戸明居候所へ
  参居候得者佐野御間ニ而御備頭御留守
  居大頭御祝儀を受候儀宜よし御小姓頭
  より知せ有之候間直ニ佐野御間江参御
  祝儀を受絵図左之通
    (佐野御間此処ニテ御祝儀を受少御備頭等之方向謁受ル御備頭大頭)
  右御備頭御留守居大頭之御祝儀を受候而
  一先右絵図之通中柱御入側板戸之口ニ
  引取猶又着座御礼宜段御小姓頭より知せ
  有之候上ニて左之絵図之通御祝儀を受
  夫より又中柱御入側御杉戸口之様ニ引取
  居候得者御物頭以下之御礼宜段御小姓頭
  より知せ有之候間又佐野御間江参御祝
  儀を受絵図左之通
  御物頭以下ハ絵図之通御床之方より二枚
  目之畳二間を前ニ當座着相済候段為知ニ相見候間直ニ
  詰間江引取候事
一、夫より御一門衆当代ニても并三家嫡子之見習ニて無之
  人者直ニ退去ニ相成御用番ハ同御間中カニ
  直り東より竪畳三枚目南より横畳五枚
  目一畳を右ニ当坐着御物頭一列々々
  罷出謁候事
      但御用番外之面々ハ始坐着之儘列
      坐之事
一、夫より中柱之御間御椽側ニ懸ケ控居候得ハ
  小姓頭より案内有之候中柱・佐野
  御間境御椽側弐枚御杉戸より御用番
  出佐野御間東之御入側を通り御敷居内ニ
  入南より横畳三枚目座着御備頭
  御留守居大頭奉行謁を受元之口之
  よふニ入控居候事
一、御備頭御留守居大頭大御奉行者佐野御間御
  上段を後ニ当東頭南向ニ座着ニ相成
  居謁相済直南御椽側東頭同席之
  列座之所より少引下り列座有之候事
      但大御奉行ハ列座無之直ニ退去
      之事
         
             2/2に続く

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介錯する人、される人

2011-10-22 16:22:22 | 徒然

                                   『美女という災難』の表紙画像

 サラリーマン・エッセイスト近藤健氏から、文庫版の「’08年版ベスト・エッセイ集」を御恵贈いただいた。氏はすでに五回にわたり掲載の栄誉を得られた実力者なのだが、そのすべての五冊の新刊本と文庫版一冊を拝受している。
今回の文庫本には「介錯人の末裔」という、著者の大叔父「メラ爺」を主人公とした、温かみに溢れた佳作が掲載されている。

 近藤氏は赤穂義士・堀部弥兵衛の介錯役を勤めた細川藩士・米良市右衛門のご子孫である。私は米良氏のご子孫が北海道にお住いだという情報を得て、数軒の米良氏に手紙をお出しした。的は当っていたらしいがご返事をいただけないまま、暫くの時間が経過した。その後、赤穂義士の研究家である東京在住の近世史家佐藤誠氏を通じて、近藤氏との知遇を得たのである。佐藤氏により米良家に残されていた史料の研究・解読がすすみ、近藤氏の卓越した文章により米良家の歴史がよみがえっている。(100数十ページに及ぶ原稿を頂戴した)私もいささかのお手伝いをした。将来出版もお考えらしい。

 このたびの御恵贈の本に一枚の写真が挟まれていた。近藤氏と堀部弥兵衛・安兵衛のご子孫・佐藤紘氏が並んでの写真である。場所は東京高輪の細川邸跡の赤穂浪士切腹の場所である。切腹する堀部弥兵衛、介錯する米良市右衛門それぞれのご子孫が顔をあわせられたのである。その顛末が「介錯人の末裔」に記されている。仲介の労をとられたのは、先の赤穂浪士研究家の佐藤誠氏である。
なんとも粋な話ではないか。介錯する人、される人のご子孫の交友は四年を経過したという。

 (株)文藝春秋により29年間続いてきた「ベストエッセイ集」の発刊は、2011年版を最後として終わりと成るらしい。
親しんできたこの本が来年は読むことが出来ないのは残念のきわみではある。

 氏のエッセイは当サイトの「コーヒーブレイクエッセイ」で御覧いただける。(米良氏の歴史についても発表しておられる)
ちなみにベストエッセイ集に掲載されたものは以下の通りである。                 

  • 05年ベストエッセイ集・掲載・・「警視総監賞」
  • 06年ベストエッセイ集・掲載・・「昆布干しの夏」
  • 08年ベストエッセイ集・掲載・・「介錯人の末裔」
  • 09年ベストエッセイ集・掲載・・「増穂の小貝」
  • 11年ベストエッセイ集・掲載・・「風船の女の子」    http://www.kitanihon-oil.co.jp/pc/essay/tsuguo01.htm

 

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東区ん家

2011-10-22 11:28:29 | 徒然

 先の熊本市の政令指定都市移行決定のニュースが流れたとき、我が家が「東区」になることで、「東区ん家」という東区に特化したサイトかブログを立ち上げようかと一瞬考えた。つまるところ、いまでもサイトの維持に苦労しているのに出来っこないなーと即諦めた。しかし中々のネーミングなので誰か使ってくれないかしらと思っている。

 「ひがしくんち」と読ませたのだが、古い熊本弁では「ひがしくんげー」となる。
今でも使う人が居るかもしれないが、子供たちも「ひがしくんげーに遊びに行ってくる」などと使ったものである。
「東区ん家」と書いてみると、「げー=家」だから、「家=け」が「げ」に変化したものなのだろう。(私の得意な推量に過ぎないが・・)
熊本弁には古語が随分多く残っていて、思いがけない言葉に出くわすと嬉しくなってしまうことがある。

 そのうち、居酒屋さんかなにかで「東区んげー」などというものが登場するかもしれない。
ほかにも、南区・西区・北区も使えそうだから、商標登録でもするか・・・・(だれも使わないか???)

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第4回ふるさと自費出版大賞(全国新聞社出版協議会主催)特別賞受賞

2011-10-21 18:12:32 | 書籍・読書
         天草の乱秘聞―富岡城に立つ虹
                村上史郎
         熊本日日新聞情報文化センター

  全国新聞社出版協議会主催の第4回ふるさと自費出版大賞において、天草出身の村上史郎氏の上記作品が特別賞に選ばれました。
               http://kumanichi.com/index.shtml
   

出出版社/著者からの内容紹介

天草の乱、勃発!
 悪政と苛酷なキリシタン弾圧に苦しむ領民が、救世主と仰ぐ天草四郎時貞を担いで立ち上がった天草・島原の乱...。その前段となった天草の乱の顛末を、その敵役となるべく運命づけられた三宅藤兵衛の波乱の人生を中心に描く。そして無残に散った藤兵衛と麗人・志乃との純愛を織り交ぜながら描かれた期待の歴史長編小説!
 明智光秀の孫である三宅藤兵衛は、叔母ガラシア夫人のもとでキリシタンの洗礼を受けたが、ガラシア夫人の生害をきっかけに細川家を辞し、流浪と苦難の日々を重ねた後、肥前唐津の寺澤藩に奉職する。民・百姓やキリシタンに深い同情をもつ人物として歳月を重ねた藤兵衛は、やがて唐津藩の重職、富岡城の番代(城代)として天草に赴任することになる。富岡城下の町役人・田中半右衛門家の養女で、薄幸の美女、志乃と出会い、しばし平穏の日々が過ぎて行く...。
 時は移り変わり、唐津藩譜代の重役連や現地三郡代らの領民への苛斂誅求の動きが強まり、藤兵衛との間で、しだいに軋轢が高まって行く。度重なるキリシタン禁圧の急触れの下、領民への否応ない迫害を強いられ、苦悩する藤兵衛...。 
 やがて一揆勢が蜂起し、悪鬼の権化とみなされた藤兵衛は、乱戦のうちに討死を遂げる。その藤兵衛の後を追い、自ら命を絶つ麗人、志乃...。志乃の生害を契機に、敗残に打ちひしがれていた唐津勢の士気は高まり、籠城一決、一揆軍との苛烈な富岡城攻防戦に突入して行く...。

著著者について

慶応義塾大学大学院経済学研究課(修士課程)終了。国立国会図書館勤務を経て元萩国際大学国際情報学部教授。著書に『石油の開拓者たち』(論創社、1996年刊、第20回石油文化賞受賞作品)などがある。熊本県天草郡苓北町出身。

 

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綿考輯録から--いろいろ消息..1

2011-10-21 16:22:17 | memo

 (永禄三年)沼田光兼
庚申四月廿八日、沼田上野介光兼六十五歳、藤孝公孺人之父也、法名瑞雲寺徳翁道全
 
 (永禄四年)三淵好重
今年三淵宗薫翁四男出生 平六、後平左衛門好重 改伊賀守
 (元亀四年七月廿七日)
信長の命によりて岩成主税介古通、番頭大炊助宗景・諏訪飛騨守盛直弐千余にて籠たる淀の城を御攻被成候、御舎弟平六郎好重十四歳初陳なり。三淵晴員主の五男也、藤英主生害之時藤孝君御呼被成此砌氏をも長岡ニ被成候。(巻二-藤孝公・p75~76)

 (永禄六年)松井広之
癸亥九月廿六日、松井山城守広之卒、法名清月宗雲 佐渡守康之父也、一ニ広之を広経とあり

 (永禄六年)細川忠興
御嫡男忠興君、洛一条之御館にて御誕生

 (永禄七年)米田求政
(覚慶-後・将軍義晴救出の項)求政ハ江州佐々木家ニ縁有、藤孝君も佐々木家ニ御縁有、ケ様之事ニ而兼而求政と交りを厚し給ふと有、又清原国賢卿の門弟ニ而藤孝君と共に書籍を学ふと云々、三淵家譜、覚慶之事、宗薫老(晴員)ひたすら御兄弟に被仰、大和守殿と共に計を被回と云々
 (天正十九年)
七月廿八日、米田宗賢宮津にて致病死候、節岩院心月宗賢と号、病中にも幽齋君・忠興君御懇志を尽され、佐方吉右衛門を被遣、様子御尋被成候、然に病気差重り候間、忠興君御気遣被成、宗賢宅へ御入、存命不定ニ見へ候間、何そ申置度候ハヽ、無遠慮申候へとの御意故、子供之儀奉頼候、藤十郎儀ハ若年ニも御座候、万事無心元存候、何とそ御用ニ相立候様御座候へかしと申上候ヘハ、少も気遣仕間敷候、藤十郎も追々御取立被成、兄助右衛門身上浦山敷不存候様に可被仰付由、御懇意数々にて御座候と也(巻十-忠興公・上p104)

 (永禄九年)細川興元
今年御次男頓五郎殿御出生 後玄蕃頭興元

 

 

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雑句帳・・二

2011-10-21 08:36:33 | 俳句

  推敲のすべなき句のみ夜長かな
                                   
                                     結城昌次氏の言「俳句は下手でかまわない」を座右として

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・.

                    

               母が忌や水仙秋の花なれや   

               年越しに下駄買うてみる齢かな

               菊人形見得きる先の人出かな

               硯洗えば不縁となりし人の顔

               ふり返り見れば五岳や

               屈託もありて見上げば薄紅葉

               大壺のコスモス何本ありたるや

               農三代守りし家やの壇

               秋草一輪小瓶にさせど名も不知

               蓬髪の女人の持ちしの束

               火宅なる狭庭のの茂りかな

               間引き菜を洗えば流れにとられけり

               秋深し母が手跡や仕付け糸

 

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ヤフーオークション ちょっと気になる品物

2011-10-20 17:49:57 | 徒然

       ★いい楽★細川光尚 短冊「心易」古筆極メ付 江戸前期_画像1    
 
                       光尚公短冊 

 

 丹後の国を細川藤孝に、越中の国を佐々成政に賜る/鳥取城落城_画像1  
        
             日本外史(中央に細川藤孝のなまえがみえる

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ご紹介

2011-10-19 17:05:14 | 熊本

 活動が盛んな「八代古文書の会」がWEBサイトを立ち上げられた。

                  http://palif-y.sakura.ne.jp/harmonyweb/minoda/index.html

 会のご発展と、サイトの更なる充実を期待したい。

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お願い---鶴崎の「舟歌」の歌詞を探しています。

2011-10-19 13:25:44 | 徒然

                           写真:御船入港図巻

 

 鶴崎に入港する細川家の船団です。中央が御座船「波奈之丸」(なみなしまる)です。鶴崎においては出港や帰港にさいしては、船頭たちが声高らかに「舟歌」を歌ったことが伝えられており、鶴崎町(現大分市)史にその一部が紹介されています。
本当はまだまだ沢山の歌詞があったようですが、現在はメロディー(?)を含めその詳細が判りません。地元では何とか調べ上げたいと願っておられますが、資料が在るのかどうかさえ判らず、当方も調査の一助を願っているところですが、皆目手の付けようもありません。

どなたかご存知よりの方が居られましたら、是非ともご連絡下さいます様御願い申上げます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 【追記】18:58
 さて、昭和29年という古い出稿の「細川侯参勤交代出船之図」という、別府大学教授田北学氏の論考がある。
これによると、舟歌は「御歌舟に十人の歌手が乗船、入船・出舟の時に鉦・太鼓に合せて歌った」のだそうだ。
又、波奈之丸の絵図については当時四つ現存していたとされる。(1)野上ヤス子氏所蔵の四枚折屏風、(2)剣(ケン)八幡社の掛額、(3)鶴崎公民館の掛額、(4)大在村住吉神社の掛額である。調査当時(昭和11年)生存しておられた(88歳)の元船大工の野村翁は、参勤交代を実際に目撃しておられたそうだが、先の四つの図に於いては、屏風絵と剣八幡社のものが本物に近く描かれていると指摘されたという。

大分市の指定文化財の有形文化財として次の三つが挙げられている。
                ■波奈之丸屏風(厳島神社図)・・・・・(1)カ
                ■熊本藩鶴崎入港船絵馬・・・・・・・・・剣八幡社
                ■熊本藩佐賀関入港船絵馬・・・・・・・早吸日女神社(4)カ

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ただいま読書中・・山頭火

2011-10-19 08:45:37 | 書籍・読書
      山頭火 俳句のこころ書のひびき
        山村嚝・文 永守蒼穹・書 
            二玄社

     熊本人にとって山頭火は身近である。その山頭火の句を、さらに身近に感じさせてくれる佳書である。
     自由律と呼ばれる山頭火の句に、ほっとさせられるのは何故だろうか。
     今日の安楽に暮らす職業俳人が到達することの出来ない、「不生産的であり、隠遁的である」行乞者として、その深淵たる感性が
     ほとばしって心豊かなみずみずしい短詩となっている。まさに清貧の人・山頭火の心のうたである。

     座右に置いて一回二回、五回十回とこの本に親しめば、毒された我が日ごろの生活や行いが少しは清められるかと思ったりする。
     山頭火が座右にしたであろう道元禅師の「正法眼蔵」も読まねばならないと考えている。安直の極みではある。

     又、熊本出身の書家・永守蒼穹氏の書が文章とあいまってなんともいい。

                        笠へぽっとり 椿だった

                   おとはしぐれか

                   分け入つても分け入つても青い山

                   空へ若竹のなやみなし

                   ほろほろ酔うて木の葉ふる

                   酔うてこほろぎと寝ていたよ

                   へうへうとして水を味ふ

                   水のいろの湧いてくる

                   まつたく雲がない笠をぬぎ

                   あの雲がおとした雨にぬれている

                   雨ふるふるさとははだしであるく

                   うれしいこともかなしいことも草しげる

                   かきつばた咲かしてながれる水のあふれる

                   何を求める風の中ゆく

                   いちにちすわつて風のながれるを

                   この道しかない春の雪ふる

                   うしろすがたのしぐれてゆくか

                   鉄鉢の中にも霰

                   湧いてあふれる中にねている

                   もう死ぬる金魚でうつくしゅう浮く明り

                   暗さ匂へばほたる

                   ゆふ空から柚子の一つをもらふ

                   朝は涼しい茗荷の子

                   寝てをれば花瓶の花ひらき

                   あざみあざやかなあさのあめあがり

                   雪へ雪ふるしずけさにをる

                   月へひとりの戸はあけとく

                   張りかへた障子のなかの一人

                   いただいて足りて一人の箸をおく

                   安か安か寒か寒か雪雪

                   馬も召されておぢいさんおばあさん

                   濁れる水の流れつつ澄む

                   ひつそり生きてなるようになる草の穂

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くまにちコム「歴女ニュース」から

2011-10-18 13:44:04 | 新聞

 昨日の熊本日日新聞の「歴女ニュース」は、西南戦争の激戦地・田原坂(たばるざか)に付いてコメントしている。
               http://kumanichi.com/rural/rekijyo/20111017001.php

熊本県は江戸・幕末期における始まりと終わりの二つの内乱、「天草島原の乱」と「西南の役」を経験している。
特に西南の役については、主戦場が熊本市、植木町(現熊本市)、玉東町と広範にわたり、研究や展示・広報などにまとまりを欠いていたきらいがあった。植木町が熊本市に編入されてから、すこし活発な活動が伺える。行政の垣根を越えてこれらのことに、さらなる進展が見られれば大変有意義なことである。

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祝・政令指定都市決定

2011-10-18 12:00:00 | 熊本

                                     熊本市役所周辺・くまもとちょっと昔の旅/熊本市電写真館

                                           

        熊本市の政令都市移行が、18日の政府閣議で決定を見ました。人口73万人ながら、来年四月一日全国20番目として仲間入りします。

 

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埼玉柏木様・・御示教御礼

2011-10-18 08:32:59 | 歴史

 埼玉在住の柏木様から、次の二件についてメールを頂戴した。お許しを頂きご紹介する。毎々的確な情報のご提供を頂き感謝申上げる。

「郡宗保は死んでいなかった・・?」に寄せて
    ■郡主馬の諱ですが、私が確認できているのは「宗保」のみです。
   ・天正十五年二月十七日付下達文書署名に、郡十右衞門尉宗保[花押]とあります(光明寺文書)。
   ・慶長二年九月二十八日従五位下主馬首に叙任せられと時の口宣案に、豊臣宗保とあります(柳原家記録)。
   ・実家である伊丹家の記録や子孫の郡家の記録にも、諱は宗保で、戒名は梅林宗保居士です。
 
   ■「良列」の諱は、寛文十二年の序をもつ「難波戦記」以降のものではないでしょうか。
    さしずめ眞田左衞門佐信繁の諱幸村が創作されたのと同じようなもので、
    以後の俗書ではむしろ「良列」が一般的になっているように見受けられます(くずし字の読み損ないによる思われる良州、良利を含む。)。
 
   ■なお、西国落人詮索に関する細川家国元への示達文書の「主馬ニかきらす落人・・・」につきましては、
    前段の文脈から、大坂方の大野主馬を指しているものと存じますがいかがでしょうか。同様の示達が島津家でも発せられております。

       柏木様からは且て郡宗保についてご教示をいただいている。あわせて再度ご紹介する。
         
http://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/35cd0a7ca346399fefd9c7e2f5349fd1
 
 
「大名物・山の井肩衝」に寄せて
   ■司馬遼太郎氏も、「豪傑と小壺」で、稻津忠兵衞の不器用な生き方を滑稽味と物哀しさを織り交ぜて描いておられますね。
 
   ■ちなみに、薄田泣菫の生れた備中国浅口郡は慶長年間豐臣秀頼家臣の給地が多数存在していました。
    そんな背景もあってか、薄田泣菫の家も大坂落人伝承を持っているようです。
 
   ■すなわち、家祖薄田次郎兵衞尉兼房は薄田隼人正の弟で、大坂落城の砌、大坂今津屋與三右衞門の持舟で備中国浅口郡連島村に落来り、
    三宅甚右衞門を称し、その子孫は酒造業や医業を営み、後代薄田氏に復したそうです(薄田泣菫考、公孫樹下にたちて薄田泣菫評伝)。
    なお、同家の伝承では、俗書と同じく本国山城・橘氏となっておりますが、私は薄田氏を本国美濃・藤原氏と推定しております。
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