津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

明良洪範を読む

2011-04-12 19:00:46 | 徒然

          http://porta.ndl.go.jp/Result/R000000008/I000123834

いつから読めるようになったのか、国立図書館の「近代デジタルライブラリー」で「明良洪範」が読めるようになった。皆様ご存知でしたか・・・

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佐久間氏関係論考- 1

2011-04-12 15:32:32 | 歴史

「柴田・佐久間・吉原氏の系譜 近江高島、幡岳寺資料を中心にして」 

                                 

                               吉原 実

 

                        

世に言う「宝治合戦」で北条得宗家によって滅ぼされた三浦一族の事は、NHK大河ドラマ「北条時宗」の中でも描かれて記憶に新しい。その庶流と言われ波乱の時代を生き抜き、戦国の世には尾張織田家臣の中で宿老佐久間信盛や金沢城主となった佐久間盛政などを輩出した佐久間氏、そして姻戚関係にあった柴田氏は、賎ヶ岳ノ合戦以降、歴史の表舞台より姿を消したが、その系譜は絶える事なく現在に至っている。

天正八年(1580)八月、佐久間信盛は織田家より追放され天正十一年四月、北近江の地で起こった賎ヶ岳ノ合戦では、柴田方が大敗。勝家、お市の方は北ノ庄城で自害し、甥である佐久間盛政は合戦後、京で斬首され、弟の勝政は討ち死にと言う柴田・佐久間両氏にとって信じられぬような結末で終わったのであった。しかし、兄盛政に従い合戦に参加したすぐ下の弟安政は生き延び、その後佐々成政の婿養子として越中にいた一番下の弟勝之と行動を共にする事となった。 

二人は戦乱厳しい世を北条氏政、蒲生氏郷、豊臣秀吉と主を換えながら、慶長五年(1600)の関ヶ原ノ合戦には、それぞれ近江の小河・山路〔滋賀県東近江市〕領主として東軍徳川方に参陣、合戦後安政には近江高島〔滋賀県高島市〕の地が加増され、高島藩一万八千石の大名となったのである。その地に安政は叔父柴田勝家、叔母お市の方たちの菩提を弔う為、幡岳寺を建立したのである。

そして大坂夏の陣の翌年元和二年(1616)、安政は信濃飯山(長野県飯山市)三万二千石、勝之は信濃長沼(長野県長野市)一万八千石へそれぞれ移封させられた。幡岳寺のある近江高島の地は飛び地となり代官所が置かれたのである。又、菩提寺として、飯山には大聖寺が、江戸には広岳院が建立された。安政の飯山佐久間家は長男勝宗が早世し、二男安長が二代目藩主となった。しかしこの安長も二十二才で没し、その子安次がわずか四才で家督を継いだが、五年後の寛永十五年(1638)に病没し、無嗣絶家してしまったのである。佐久間家の名跡だけは、安政の娘の嫁ぎ先であった長沼藩士岩間家を佐久間と名乗らせ残す事となった。安政の血は途中で絶えたが、この家は後に松代藩士として幕末を迎え、佐久間象山を輩出して佐久間の名を再び歴史の表舞台に登場させたのである。

近江高島の地にも安政の一流が残り現在に至っている。安政の子、久左衛門を初代に、飯山佐久間家一門の重臣となり、廃藩後は高島に土着し残った吉原久左衛門家である。この家は柴田勝家の武将で天正九年(1581)に加賀国鳥越城守将として一向衆の為に討ち死にしたとされる吉原次朗兵衛の一族とも考えられるのである。幡岳寺の位牌堂には柴田・佐久間両氏の位牌と共に佐久間氏の家紋でもある、丸に三引き両の付いた吉原一族の

位牌も並んでいる。

一方、勝之の長沼佐久間家は勝之が寛永十一年に没し、その子勝友が家督を継ぎ、勝豊、勝茲と続いたが貞享五年(1688)、五代将軍綱吉の御側小姓を命じられた勝茲は病と称して出仕せずそれを幕府にとがめられ改易となってしまった。しかし、その系譜は小林伝

兵衛家始め数家に分かれて現在に至っているのである。   

琵琶湖を望む北近江の地で、一族の者しか入ることのできぬ位牌堂に、ひっそりと眠る柴田・佐久間・吉原一族の霊位。今回幡岳寺の御好意により初めて筆者が過去帳と位牌より人物比定する事ができ、以下はその結果である。(戒名の中の年を表す十二支に誤字がみられるが、あえて過去帳のままとした。)

 

「幡岳寺殿籌山勝公大居士  天正十一年四月二十四日」

   柴田勝家。命日は北ノ庄城落城の日である。幡岳とは勝家の号と言われている。

   位牌も現存している。 

「東禅院殿直伝貞正大姉   勝家公御室   十九日」

   勝家の室と言うのであるならば、幡岳寺の建立意図からしてもお市の方であろう。 

   命日が勝家と違っているが。  

「英伯善俊大禅定門  佐久間久右衛門  大膳正父  九日」

   大膳正(亮)勝之の父ならば久右衛門盛次だが、この戒名は勝之の兄、金沢城主で 

   あった玄蕃盛政のものである。命日は天正十一年(1583)五月十二日と言われ

   ている。

「隠桂貞久大姉  大膳正母  二十七日」

   勝之の母ならば盛次の室で柴田勝家の妹、末森殿である。

   盛政、安政、勝政の母でもある。

「當寺開基徳翁院殿功岸玄忠大居士 佐久間備前守  寛永四年丁卯四月二十五日」

   飯山藩主であった佐久間久右衛門安政。盛次の二男。

   位牌も現存している。

「光寿院殿久昌理遠大姉  玄忠御室  寛永二十年二月二十日」

   安政の室。公家、勧修寺晴豊(かじゅうじ はれとよ)の娘。

 

「清雲院殿義同三司孤月西円大居士  光寿院父 八日」 

   正親町(おおぎまち)天皇の武家伝奏であった公家の勧修寺晴豊。

  「義」は「儀」、「西円」は「円晴」とも。「三司」とは唐名(からな・中国での

   官職の呼び方)で左・右大臣や太政大臣を表し「義同三司」でそれら大臣に准ずる

   高い位の者と言うことになる。公家独特の戒名である。

   命日は慶長七年(1602)十二月八日で五十九歳で没した。

   没後内大臣になった。日記「晴豊記」を遺す。誠仁(まれひと)親王の義兄、後陽

   成(ごようぜい)天皇の叔父にあたる。

  「寿光院殿天長貞久大姉   光寿院母  二十四日」

    勧修寺晴豊の妻と言う事ならば従三位刑部卿であった土御門有修(つちみかど

ありのぶ)の娘、修子(しゅうし)である。

    関白・近衛前久(このえ さきひさ)の姪にあたる。

 

  「玉風院殿前光禄公泰山正安大居士  佐久間大膳勝正

                      寛永十一年甲戌十一月十二日」

    長沼藩初代藩主勝之。「風」は「鳳」が正しいと思われる。「光禄」は唐名で

    大膳亮のことである。勝正という諱(いみな)も持っていたのであろうか。

    墓所は駿府・顕光寺と言われている。この人が寛永年間に寄進した大灯籠が東京・寛永寺、名古屋・熱田神宮、京都・南禅寺にそれぞれ現存している。

  

  「剛岳善金大禅定門   勝正の兄  十日」

     この戒名は盛政らの父、佐久間久右衛門盛次のものである。

     尾張国御器所城主であったが、永禄十一年(1568)足利義昭上洛の折、

六角氏との戦いで、近江・箕作城攻めで討ち死にしたと言われている。

「金道剛国大居士」や「善金」とも。

 

  「多福院殿前日州輝雲宗光大居士  佐久間日向守  十二日」

     飯山二代目藩主安長。安政の二男で室は徳川秀忠三臣の一人、井上正就

     の娘である。「輝」は「蓮」が正しいと思われる。寛永九年(1632)

     四月十二日没。二十二才。江戸高輪・泉岳寺の戒名は「蓮雲宗光多福院」

     となっている。

  「大龍院殿関叟玄鉄大居士  佐久間大膳嫡子  三日」 

     勝之の長男の勝利(年)。父に先立ち寛永七年九月二十八日に没した事に

     なっている。幡岳寺に埋葬されたそうだが確認することができない。

 

「正覚院殿直心伝性居士  佐久間織部  元禄辛未  一月一日」

   織部となっているが勝之の二男で長沼二代目藩主となった蔵人勝友である。

   寛永十九年七月一日に没した。位牌も現存している。

   江戸高輪・広岳院での戒名は「直心伝性正覚院」となっている

   

「大通院智岩浄勝居士   佐久間織部  元禄辛未  一月二日」

   長沼四代目藩主となった織部勝茲(かつちか)である。

   元禄四年(1691)一月二日に二十三才で没した。秋月佐渡守種信の

   五男で三代目藩主勝豊の養子となった人である。位牌も現存している。

墓は奥州・二本松(福島県二本松市)の龍泉寺に現存している。     

 

「宗叟善智大禅定門   柴田帯刀  二十一日」

  柴田帯刀(たてわき)勝次である。佐久間盛次の三男で叔父柴田勝家の

  養子となった越前勝山城主、柴田三左衛門勝政(勝安)の次男。

  勝政は静ヶ岳ノ合戦で討ち死にしたと言われているが、その子勝重、勝次

  は北ノ庄城落城の前夜、お市の方の三人の娘共々逃れたそうである。

  徳川期には越前藩主・結城秀康、松平忠直二代に渡り二千石で仕えている。

  慶長年間に没し、叔父にあたる安政が供養のために建てた笏谷石の石塔が幡岳寺に現存している。この石は足羽山(福井市)が原産と言われるので、福井より持ってきたものであろうか。

 

「来応道本居士   吉原久左衛門   寛永十二年九月三日」

  安政の子と伝わっている。諱(いみな)は不明である。吉原家の過去帳には

  「元祖」と書かれているので佐久間家より分家したものであろうか。

  佐久間一門として柴田・佐久間氏と常に行動を共にしていたのであろう。

  筆者の十二代前の祖である。奥州・二本松(福島県二本松市)に全く同じ戒名が記された墓石が現存している。長沼藩に仕官していたのかも知れない。   

 

曹洞宗 金剛山幡岳寺(滋賀県高島市マキノ町中庄)  

開基は佐久間備前守安政。開山は無外桂言。慶長年間に建立された

と言われている。本堂や位牌堂は一般開放されていない。

 

        

これら幡岳寺過去帳の戒名の中に筆者が今まで知りえなかった意外な事実が含まれていたのである。それは、安政の室が正親町天皇の武家伝奏として織田信長と再三交渉にあたった勧修寺晴豊の娘と書かれている事である。その上、晴豊自身やその妻の戒名までかかれているのである。しかし、数ある史料の中では佐久間安政の室は紀伊の守護畠山氏の家臣で、後に信長に臣従した保田知宗の娘となっている。安政自身も保田安政と名乗って婿養子となっていた時期もあったのである。それを裏付けるように、安政の長子とされ元和二年(1616)に早世した勝宗は、その名に「宗」の一字が付いており母方の祖父にあたる保田知宗の一字を付けたとも考えられるのである。

史料によると、天正十八年(1590)の小田原・北条氏滅亡の後、安政・勝之は姓を佐久間に復しているので恐らくこの時までは、安政の室が知宗の娘であった事は間違いないのではないだろうか。そして、数年の後、従五位下備前守に叙任され徳川の大名となった安政は改めて晴豊の娘を正室に迎えたのではないだろうか。

勧修寺家も晴豊の代から後陽成天皇の武家伝奏となった子息光豊の代となり、益々佐久間家との繋がりも深まっていったのではないだろうか。安政の弟勝之の長沼藩三代目藩主となった勝豊誕生の折、姻戚関係にあった勧修寺家より「豊」の一字が与えられたと考えることもできるのではないだろうか。一方、晴豊の娘が安政に嫁いだという事は勧修寺家側の史料によっても確認する事ができ、それを幡岳寺の過去帳によって裏付けたと言う結果になったのである。そしてこの事が佐久間氏研究の今後の道標となる事と大いに期待をかけたいものである。

最後に、今回筆者の為に貴重な時間を割き全般にわたり御教示下さった元石川県立図書館史料編さん室の瀬戸薫氏に心より感謝申し上げたい。特に勧修寺家側史料による確認は瀬戸氏によってなされたものである。 

 

                参考文献

   「寛政重修諸家譜」巻第五百三十三第九 続群書類従完成会

   「寛永諸家系図伝 三」  続群書類従完成会

   「尾張群書系図部集 上」 続群書類従完成会

   「信濃佐々礼石 中」 橘鎮兄著  会真堂

   「飯山町誌 第五章 佐久間領の飯山」 飯山市教育委員会編

   「佐久間系図」 続群書類従巻第五百八十六 二十下

   「小林伝兵衛家々譜」 千葉県佐久間凡雄氏 提供

   「織田信長家臣人名辞典」 谷口克広著 吉川弘文館

   「マキノ町誌」 マキノ町誌編さん委員会編

   「越登賀三州志」 富田景周著 石川県図書館協会

   「系図纂要 第五冊上 藤原氏七」 名著出版

   「長野県史」 近世史料編第八巻

   「藩史大事典」 第三巻 雄山閣

   「郷土歴史大事典 滋賀県」 平凡社

   「天正十年夏ノ記」 岳 宏一郎著 講談社

   「佐久間軍記」 続群書類従完成会

   「結城秀康給帳」

「源忠直公御家中給帳」

   「三浦党の後裔」 多々良四郎著 丸井図書出版

   「三浦一族研究」 三浦一族研究会編

   「二本松市史」 福島県二本松市教育委員会編

   「二本松寺院物語」 平島郡三郎著 歴史図書社

 

            石川県郷土史学会々誌第34号掲載

 

 

  尚、以下に柴田・佐久間氏関係図が紹介されているが、表示不能である為、後日改めてご紹介する。 

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佐久間氏関係論考・三件

2011-04-12 09:09:37 | 歴史

 明日から三回に亘って佐久間氏に係る論考三件をご紹介する。金沢にお住まいの吉原氏は佐久間一族吉原氏のご子孫である。ご厚誼をいただいていたが当方のPCの不具合が生じた時、住所録やメールアドレスを失くしてしまい連絡をとれずにいたが、今般ご連絡をいただき旧に復した。

 熊本にも佐久間氏のご子孫が居られる。佐久間正頼なる人物が加藤清正に仕え、後細川家臣となっている。また茶人として高名な佐久間不干斎は、三齋忠興と大変親しく手紙のやり取りなどの消息が伺える。また不干斎の書状がオークションにかけられた際、内膳家のJHさまからご連絡を頂戴して、久野氏研究家にご連絡した処、宛名の人久野氏のご子孫にご連絡が廻り、この貴重な資料が久野氏の所有されることになった。見事な連携プレーであった。その経緯は何度かこのブログでもご紹介したが、主なるものをご紹介しておく。
http://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/1a059e0ea82b92e6a3960431a41849ab     http://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/bfb8dfb8cafea74b502e63bd9cfbb540

 佐々家といえば、熊本人はよく承知しているつもりでいるが、佐々勝之という人物については意外とご存じない。もともとは佐久間氏、佐々成政の養子となったが後離縁して佐久間姓に戻った佐々勝之である。この勝之が竹田永翁(豊臣秀頼重臣--松井家家臣竹田氏祖)を討ち取った人なのだが、いろいろ因縁浅からぬものがある。

ご紹介する論考には、「佐久間象山」が登場するが、これとて細川藩士河上彦斎の手により暗殺された巨人である。嗚呼・・・・以下ご紹介する論考は次の三点である。

   ■ 佐久間・柴田・吉原氏の系譜、近江高島幡岳寺資料を中心にして.
   ■ 佐久間象山の系譜、そのルーツを語る.
   ■ 金沢城主・佐久間盛政その名跡に関する一考察.

追記:その後二件の論考をお送りいただいたので、是も合せてご紹介する。
        ■江戸初期における近世小大名の実態 信濃飯山・長沼両佐久間家について
   ■金沢の歴史と歩んだ先祖たち

 

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