津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

佐田右平・嘉永六年癸丑日記より

2009-10-05 22:39:08 | 歴史
  三家衆 
     ■ (松井)佐渡殿
            章之(養子 実・督之弟 豊松 式部 佐渡)
            天保三年十二月~文久三年三月(致仕・隠居)家老職
            明治二年九月本姓松井に復す 明治二十年六月歿(七十五歳)
            (松井文庫・江戸までの風景~道中風景絵巻~)      
     ■ (米田)監物殿
            是容(源三郎)
            天保三年家督、家老職、大組頭  嘉永六年二月軍備総帥として浦賀出張
            安政六年八月十一日歿・四十七歳
                 天保三年九月~弘化四年三月 家老
                 天保三年十月~安政六年八月(病死)備頭大頭
          * 名は是容(コレカタ)、監物と称す、本姓米田長岡の称号を許され、世々家老職たり。
            禄一万五千石、年二十、家を継ぎ軍師を兼ぬ。深く累代勲舊の誼を感じて報復の志
            を存するも、同列に阻まれて果たす事を得ず、尋いで文武総裁となりて教学を明にし、
            人材を育し藩政に貢献する所あらんとす。監物程朱の学を信じ平生為す所躬行を先
            にし、専ら実学に従事し、且心身の鍛練に努め、厳冬烈暑と雖も其力行自勵人の耐
            えざる所なり。嘉永癸丑米艦浦賀に来る、幕府予め藩公をして浦賀を管せしむ。
            藩公斎護特に命じて召す、監物常に外患の不測を以て憂となす、命を聞き直に江戸
            に至る。名望都下を動かす。(中略)中年閑退して道徳円熟し、一門之に化す、又家
            臣の為に学舎を設け必由堂と名付く。
            安政六年八月十日歿す、年四十七。坪井見性寺に葬る。後年贈正四位。
          * 実学党坪井派(明徳派-道徳の理論的究明)の首領として、実学党沼山津派(新民
            派-庶民のための政治)の横井小楠に対した。

     ■ (有吉)頼母殿
            有吉家18代、頼母(養子・16代立生嫡子 立道)
            嘉永五年家督、家老職、大組預 安永五年七月歿
  御家老 
     ■ (平野)九郎右衛門殿
            7代、常之助(九郎右衛門) 御留守居大頭 二千四百石
                    文政九年十一月~文政十二年二月 用人
                    文政十一年二月~天保二年六月 大御目付
                    天保二年六月~天保十三年八月 中老
                    天保十三年八月~安政三年八月 家老
         平野保 名は長久、九郎右衛門と称す。国老兼大奉行たり。心を国事に傾け、大計を
               擔当し、叉水利開墾等に於ける功績最も多し。
               万延元年十月二十七日没す。年六十三。

     ■ (大木)舎人殿
            8代、舎人・福蒿
           文政十二年家督 比着座、番頭、留守居大番頭、中老職、家老職、大組頭、
           大奉行兼家老職 文久三年十二月致仕 明治十一年歿

     ■ (溝口)蔵人殿
           7、武啓太(養子 実・政勝末子 権之助、蔵人・貞直)
        文政十一年九月跡目相続、中着座、番頭、大目付、大奉行、中老職、家老職 
        文久元年八月致仕・号孤雲 家老職再任 明治五年三月十三日歿・六十四歳
               天保三年五月~天保四年九月 用人
               天保四年九月~天保八年六月 大御目付
               天保八年六月~安政五年九月 大奉行
               天保十三年八月~嘉永五年十一月 中老
               嘉永五年十一月~万延元年十二月 家老
               万延元年十一月~万延元年十二月 大奉行
           孤雲 慶応三年三月~明治元年七月 家老(隠居後・再任)
        溝口孤雲 名は貞直、初は蔵人と称し、後孤雲と称す。竹雨、鳳屋等の号あり。
               食禄三千石、中老より家老に進み大奉行を兼ぬ。
               維新の際は藩公に代りて出京し斡旋大に力む。
               後召されて参与となり徴士に挙げらる。
               明治五年三月十三日没す。年六十四。墓は北岡安国寺。後従五位を贈らる。
  御中老 
     ■ (沢村)衛士殿
         9代、伊勢太郎(宇右衛門・衛士)
         文政十二年六月家督、組外、備頭、大目付、中老職 安政二年十一月致仕
         明治七年七月六日歿・六十四歳
             天保三年二月~天保十三十一月年 備頭大頭
             天保十三年十一月~弘化四年三月 大御目付
             弘化四年三月~安政元年十月 中老

     ■ (小笠原)備前殿
          10、美濃長洪(養子 実・宮村実義二男美貴 弘之助 備前 七郎 寛)
               差紙 (天保三年十一月) 六千石
                 天保三年十一月跡目 備頭・大目附・中老職・家老職 明治元年八月免
                 明治二年三月執政 三年正月家令 三年六月権大参事
  大御目附 
     ■ 朽木内匠
        9代、多仲・昭吉(内匠)
          天保二年家督、中着座、番頭、用人、大目付、中老
          文久二年十二月致仕、慶応三年正月二日歿

  
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江戸城大広間

2009-10-05 12:59:33 | 歴史
 江戸城には主な広間が、奥から黒書院、白書院、大広間の三つが、竹の廊下、松の廊下で繋がれている。江戸城に登城すると、細川家は大広間が詰め所となる。その大広間は、最も重要な儀式が執り行われる場所であり、御上段、御中段、御下段、御二の間、御三の間、御四の間とつづき、全体で三百畳ほどの広さがあるという。(間取り図を見ると御二の間だけで六十六畳ある)大名の詰め所としては、御二の間、御三の間が使われていたらしい。厠を取り囲むようにU字型に配されている。広い入側が「松の廊下」に繋がっている。この松の廊下が白書院の方へ至るL字形の廊下であり、浅野内匠頭の刃傷で有名である。
      http://www.viva-edo.com/edojou.html
      http://park17.wakwak.com/~irumaq/edojo/honmaru/omote.html

 某サイトには次のように有った。
【大広間 四位以上の外様国持大名詰所。伊達、細川、島津、毛利、黒田、池田、浅野など有力国持大名(国主)および准国持大名(准国主)の席。国主以外でも、四品(四位)以上の官位を持つ親藩および外様大名はこの席に列席した。】
 
 細川宗孝が人違いという不運なことで刃傷に及ばれ、不慮の死を遂げたのがこの大広間脇に有る「厠」である。事件が発生した直後、見事な判断で細川家の危機を救ったのが、詰所を同じくする伊達家の宗村公である。「細川公は未だご存命である。早く屋敷に帰りお手当てを」と細川家家臣に指示をされたという。絶命しているであろう宗孝を駕籠に乗せ、駕籠脇から家臣が声をかけながら竜口の御屋敷に帰られた。重賢を急養子として届け、その後亡くなった旨の届け出がなされた。まさに伊達公の機転無くしては、細川家のその後が磐石であったかどうかは如何かと思われる。
  宗孝と伊達宗村公は、共に徳川宗直女(同生母姉妹)を正室としており相壻という関係に有る。
その事も幸いした。
コメント (2)
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