津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

中瀬助九郎の敵討ち

2009-04-28 10:15:28 | 歴史
 TK氏からご教示いただいた、中瀬氏に関する一連の史料のなかの「近世畸人伝」より、細川家家臣となった中瀬助九郎の敵討ちに係わる事柄をご紹介する。
これは助九郎の弟である、六孫王社中興の僧「南谷」に関するものであるが、その中に「附録」として助九郎のことが記されているものである。

附、松下助三郎豊長後故有て母家の姓を冒し、中瀬助九郎といふ は、南谷の兄也。父忠綱、江戸の寓居にして早川八之丞が毒手にあひし時、年十二歳也。其夜、八之丞手書を残し置り。其書にいはく、 我は加藤式部少輔内、早川八之丞一敏といふものなり。先年、藪久太郎忰、八助儀に付、大崎長三郎と出合、白昼に討留、国を立退し所、親、早川四郎兵衛切腹被レ仰付ケ、其節縁類ども、切腹被レ差延我々え御預可ク被下サ候はゞ、当人八之丞引返し可キ申ス由致シ訴訟候へども、松下源太左衛門出頭し、其上、右長三郎縁類たるを以て、内々讒言候に付、四郎兵衛切腹被レ仰付ケ、源太左衛門右讒者故、如キ是ノ次第なり。
其後、豊長京師にかへり、宮原伝蔵といふ人にしたがひ剣術を習ふに、此人もと親の怨家を討んとせし間、其怨家病死して本意を遂ざることをうらむ。さる故に吾身にくらべて此少年を憐み、日にをしへ夜につたへ、かつ同じ心に八之丞が行へを求るに、八之丞は今、薦僧となるよしを聞出し、伝蔵も亦其党に入リ、うらなきさまに語らひぬ。一ル日浪華のかたに執行せばやと約し置、其夜、助三郎にかくとつぐ。時寛文辛亥歳九月六日夜也。豊長とみに両人の従者、坂根八左衛門、中田平次右衛門。 をあともひ、夜ごめに大坂に行、官廳に達し、こゝにまち、かしこにもとめ、此日は大坂にとゞまり、明日通衢にかゝり尋ね、其夜は芥川の駅に宿す。翌九日、旅店の蔀をあぐる比、こも僧二人通れり。則一人は八之丞、一人は伝蔵なり。伝蔵人々をみて目ぐはし過ぬ。さて三人とも追行に、伝蔵は岐路より右の方へ行、八之丞は村衢にいる。やがて豊長其由をいひて切かゝれば、八之丞も懐剣をぬきながら、木綿畑の溝を飛越んとしてつまづきたふれぬるを討ぬ。時に豊長年十四歳也。此挙の後、諸侯よりつのり求め給ふこと多時也。しかれども豊長いふ、子として親の讐を復するは則其職也。今、是を口実として禄をうくるは恥べきの極メ也とて、一も不応ゼ。其後、細川肥後侯は母氏のちなみあればとて仕ふ。今に其子孫連綿たりとぞ。蒿蹊云、俗間に野叢談話といふものあり。それが中に華塵談とて、此復讐のよしを書り。されど文飾多く、かつ事実も大同少異也。今、寺記によりて其要のみをしるす。




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肥後六花-9 「牽牛子」

2009-04-28 08:44:17 | 歴史
        肥後六花—9 「牽牛子」  文・占部良彦

 「漱石俳句集(大正九年・岩波書店刊)」に「朝顔の黄なるが咲きと申しきぬ」の句がある。明治二十九年の作。漱石が熊本の旧制五高教授だったころだ。朝顔づくりの仲間では黄色の花を作るのが夢の一つで、昔から「幻の花」とされている。その花が咲いたというのである。
 明治二十年代から熊本地方では朝顔栽培が大流行していた。たまたま、漱石が五高在任中の三十年前後は坪井町かいわいに住む五高教官、裁判所職員らの官員さんや勤め人が集まった「坪井連」と細工町、呉服町、新町の商家のだんな衆を中心とした「新町連」が、品評会でお互いに張り合っていたころ。
 この「黄いろい花」がどちらの連で咲いたものか、あるいはうわさだけに終わったものか分からないが、ともかく、そんな騒ぎも起こしかねない熱っぽいふんい気があったようだ。
 肥後の朝顔づくりの伝統は古いが、いまのヒゴアサガオについては明治以後の文献しかなく、それまでどのようにして育ったのかよくわからない。いずれにしても、ヒゴアサガオは長い間、全くといってよいほど他品種との交流はなく、古くからの栽培法をそのまま受け継いでいる点が、日本の朝顔の中で異色とされている。
 大輪ではないが、純度の高い単色とスハマソウに似たハート型の整った葉形を持っている。肥後六花の研究栽培をしている栗屋強・熊本大教授によると、この花が、奈良朝の七世紀ごろ中国から渡来し、牽牛子(けにごし)と呼ばれていたころの花に一番近いのではないか、という説があるそうだ。
 近世の朝顔栽培は文化—文政、嘉永—安政、明治—大正の三つの流行期があった。熊本でも、ほぼ同じような道をたどったが、なかでも一番熱をあげたのは明治の後半。これが三十二年の「肥後朝顔涼花会」の結成となって現れた。
 当時、涼花会が開いた会員の「持ち寄り会」には四百ハチ以上が集まった。この会場に出た花の色から婦人着のエリの流行色を選ぶため、東京、大阪から大勢の職人がやって来たという。三十九年に出た「涼花会朝顔培養法」がいまもヒゴアサガオづくりの教典になっている。
 会創立当時の会員は四十四人。四年後の三十六年に名古屋朝顔会から八人が入会を申し込み、八代、熊本両市に支部ができた。その後、福岡、岐阜、山口などからも入会者が相次ぎ、会の活動を中断する太平洋戦争前年の昭和十五年には百八十人になった。
 熊本国体があった戦後の三十五年秋、当時、熊本大学学生集会所の給食婦をしていた徳永据子さんが、時期はずれのヒゴアサガオを満開にして天皇、皇后にお見せした。ちょうど九州旅行中だった国立遺伝研究所細胞遺伝部長の竹中要博士がこれを聞いて、徳永さんを訪ねた。そして「ヒゴアサガオがまだ生きていたのか」と驚き、このことを中央で発表するというようなこともあった。
 徳永さんが戦後、熊大で働き始めて間もなく、花仲間の栗屋教授の研究室にやって来て「先生たちが学内でかっている朝顔を全部のけさせて下さい」と頼んだ。「
私の花に雑種がまじっては困る」という。その意気込みに、みないさぎよくハチを引き取ったそうだ。
 戦争中や戦後の水害のときも、徳永さんは朝顔の種をリュックにかついで避難した。三十七年の涼花会再建にも、その中心になった。四十二年に病気で倒れたが、涼花会は異例の「徳永据子杯」を設け、毎年の花神祭に、会の功労者に贈っている。
 この花は紅、桃、青、るり、えび茶、紫と白の七色。本ずる一本で第三花まで小ハチで楽しみ、あとは路地に移してカキネの花として鑑賞する。生涯、つるを摘まずに自然の草の姿をだいじにする。「純血種」という肥後人このみのを代表する花の一つといえるだろう。
 涼花会の会員は、いま百五十人前後。栽培品種は十七。七月七日と九月初めに開く「持ち寄り会」には二百ハチ以上が集まる。
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