津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

兼見卿記から--中村甚左衛門

2008-06-04 14:59:34 | 歴史
 幽齋が田辺城に籠城した際、敵中を突破して禁裏への使いを果たしたのが、中村甚左衛門である。中村一氏の子息だと中村家の系図は伝える。

 兼見卿記をみると、甚左衛門は「幽齋小性」で在った事が分かる。
文禄三年二月廿七日の条に、「廿七日、丙子、幽齋小性甚左衛門尉三十疋持来、羞一盞了、入夜大雨下」とある。この時期幽齋女房衆(麝香カ)は京に入り、兼見や幽齋と会食したりしている。名前のみではこの「小性」が中村甚左衛門とは断定できないが、そうであろうと推測できる記録がある。文禄四年七月「廿五日、丙申、今朝精進、幽齋ヨリ中村甚左衛門来、幽齋屋敷主殿等被帰遣之由、昨日民法・石田治部折紙到来也、今日為請取恩齋同道罷出之由申訖。但馬守父子在曲事之子細、駿州へ可罷越之由被仰出、近日発足之由、中村甚左衛門尉申訖、彼息出雲守ハ与一郎聟也、令気遣〃 (以下略)」とある。間違いないであろう。
 この時期はというと、豊臣秀次の家臣たちが次々と誅伐を受けている。文中の出雲守とは忠興の聟・前野長重であり、後父子ともに自害する。忠興も三成によって窮地に立たされた事件である。そんな中で甚左衛門の活躍が覗える。田辺城籠城まで五年である。
コメント (1)
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