「細川宗家の血は宇土細川家の血」というのは私の口癖である。いわゆる本流の血は治年でとまった。養嗣子に迎えたのは治年の正室埴姫(宇土支藩細川興文・女)の弟・立禮である。宗家に入って齋玆と名乗った。本家に入るについて宇土支藩の後は、嫡男立之がわずか三歳で継いでいる。宗家において齋玆の後は実子・齋樹が継ぐ。ところがこの齋樹に継嗣がいない。そこで再び宇土家から齋樹にとっては兄に当たる立之の子立政が宗家に入るのである(細川齋護)。細川宗家の血の入れ替わりである。立之夫人は時の老中・土井大炊頭利厚の三女福姫(富姫・共ニトミ)である。栄昌院と申し上げるが、この方については「栄昌大夫人遺事」という文書が残されており、賢夫人で有った事が窺がえる。我が子の教育については、お付の家士に対し「悪い事があれば折檻しても良い、斟酌はいらない」と言い渡している。今の若いパパ・ママや、根性の定まらぬ教育者に聞かせたいものだ。宗家の跡を継ぐに当たっても、「贅沢してはいけない、側室も多く抱えてはいけない」と意見している。宇土細川家は立政(齋護)の弟行芬が継承し、その血は近衛家へと受け継がれて行く。その事が現在の細川家の礎と成っている。
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