津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

出女

2006-10-28 16:52:29 | 歴史
 小倉における細川時代の話である。故あって、小倉を離れる女性たちの消息が垣間見えるのが、「小倉川口御印之儀仰上可被下女之事」とある幾つかの文書である。忠利のローマ字印(tadatoxi)により決済されたものだが、なかなか厳しい。細川家筆頭家老松井式部少輔(興長)の届け出は「合二人内 壱人ハ与次郎女房也 壱人ハ同下女也」とし「右ハ私内松井与次郎女房ニて御座候 従江戸召寄候へ共離別仕伊勢ニ彼女房伯父有之ニ付唯今伊勢迄差上遣申候 自余之女ニ紛無御座候 勿論御国之女にて無御座自然此女ニ付出入之儀御座候者私可存候 其上無紛為請人志水伯耆相立申候 以上
  寛永三年 十一月二日 長岡式部少輔 花押  」
そして、志水伯耆守(頭衆五千石)が請人として署名している。ちなみに与次郎とは、松井康之室の甥に当たる人である。

 十一月七日には、播磨から罷下っていた渡辺藤五郎のおばが帰国するにあたり、藤五郎が同様の書類を提出、請人は杉新右衛門がなっている。

 村上八郎右衛門(長岡河内景則一万石)は、召仕う蔵田長右衛門の女房の母親を、松平安房守家来である相壻高木某が罷下って連れ帰るに当たって届け出ている。請人は長谷部文右衛門(物奉行六百石)であった。これが十一月十五日。

 その他明石源右衛門が、召仕・弓削八郎兵衛の妻と娘が暇を出されて生国備前に帰されるに当たり届け出、請人は桑原主殿助である。

 日にちが集中しているのは、何か訳が有るのだろうか。しかし請人まで立てて大変な事だ。藩主の決済を必要とする事案なのだろうか。小倉川口とはどのような場所なのだろうか。たぶん関所なのだろうが・・・・面白いなー。
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田辺籠城衆・村田彦三郎

2006-10-28 15:07:08 | 歴史
 河上彦斎といえばあの佐久間象山の暗殺者として知られている。そういう意味でどうも好きになれずにいた。在熊の作家故荒木精之氏の著作「定本・河上彦斎」を今読んでいる。筆を尽くして居られるが、多分私の気持ちは変らないだろう(と思う)

 彦斎は小森家の九代貞助の次男である。幼名小森彦治郎、河上家に養子となりお掃除坊主となって彦斎(げんさい)と名乗った。小森家の祖・彦三郎は始め村田彦三郎と称し、丹後国で忠興に仕えていた。慶長五年には田辺城に残り小野木軍と戦って軍功があったという。そのことを以って豊前にて七十石の加増があって百石を拝領、小森と改め倅には「御名御一字拝領」し与三郎と改名したという。彦斎の父貞助が書き残した先祖付にそうあるそうな。
(以上荒木精之氏の上記著作から引用した。)

 田辺籠城衆・村田彦三郎の名前は初見である。
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