街中を歩いていると、「なんで?」と思うようなところに出くわす。
古地図を見ると、なるほどと合点することになる。
この絵図の二つの〇、上は坪井橋の右手手前角、確か時計屋さんではなかったかと思うが小さな三角地、表は県道、その歌に小さな道がある。「何故?」
ご覧いただくとお分かりの様に、信愛女学院の前の県道沿いだが、新堀が開削されて上熊本方面へ大きな道路がつながると道路は坪井橋の上で30度ばかり方向を替えた。
これに伴い生じた残地であろうと思われる。
下は小さなガソリンスタンドがかってあった。脇と裏手に道路があり急阪である。
これは坪井川の流路変更で生じたのだろう。
大きく蛇行していた坪井川は、滑らかな曲線を描いて熊本城長塀下へ流れ下った。
現在の熊本大学付属幼稚園がその蛇行部分の川を埋め立てたところになる。
処でこの地図の上の□部分に「いせの惣四郎」という名前がある。これは伊勢野屋という旅館である。
伊勢野屋のすぐ右側までは、現在と同様の広い道路が見て取れるが、いわゆる火除け地「広町」である。
かって小倉藩が長州から攻められ、若殿様を擁して家臣団は肥後藩を目指して逃げまわった。
熊本初代藩主忠利の正室・千代姫の実方の災難である。しかし、当時の情勢を慮って、肥後藩の対応は芳しくない。
ようやくできたのが、幼い藩主をこの「伊勢屋」に御留めしたということである。
小倉城は逃げるにあたって自燃させた。事が納まると若君様始め帰国をされたがそれは元の小倉の地ではなく香春藩・豊津藩となった。明治維新の悲劇である。
そんなことを考えながら地図を眺めるのも一興である。
史談会会員の加藤氏・大矢野氏・木庭氏の屋敷が「向こう三軒両隣」であることにも驚かされた。