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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■忠利の困ったおじさん・孝之

2022-12-29 06:54:59 | 先祖附

 侍の世界には「厄介叔父」という言葉がある。
厄介叔父というからには、士分の家に生まれたものの、次、三男であるために仕官の望みもなく、一生生家に寄食して、日陰の暮らしを余儀なくされている人間であろう。
藤沢周平『回天の門』から。

    ところが今日ご紹介するのは幽齋の末子・細川孝之で、細川忠利にとって一つしか歳が違わない厄介な叔父さんという存在である。
一時期は香春の25,000石の城主であったが、一国一城令が出ると、兄忠興から扶持され府中に住まいした。

許しを得ることなく鉄炮で狩りをしたり、舟で海へ漕ぎ出したり勝手気ままな行動が見受けられ忠利とは全くの不仲になった。
過去には忠興弟・細川孝之と忠利の仲違いをご紹介している。

いつの比か知れないが出奔し京都に住まいしたらしい。父幽齋の庇護を受けたのだろう。しかし、細川家の肥後入国後は
八代に行き三斎の扶持を得た。

こちらは「厄介叔父」ではなく「厄介な叔父さん」という事になる。
元和九年(1623)十二月廿九日付けの記録が残る。この時期忠利38歳、孝之39歳である。

           一、十二月廿九日、中務少輔孝之主の御事ニ付御奉行中江之御書
               中書殿ふちゆう(府中=小倉城下)ニ候ハん間
                一米百石・まめ三十石
                一こそて 一重
                一たる 十
                    右之分使ニう右衛門を仕可遣候
                 右馬介をそへ候て遣、今度ハ知行も申付候て進候
                 様子との事ニついて、我々知行のありたけまかな
                 いノ様子書付、此内何ノ知をなにほと進候へと御申
                 候へ、其上たんこう可申よし申候処ニ、知行無之
                 所御聞わけ候て、以後はたはり有之時いか様にも
                 申付候へととの事承とゝけ候、何とて他人さへよく
                 可仕に、おやこノ様ニ御さた候ハゝ、我々かたよ
                 り成次第とハゆめ/\不存、其上中書殿前々よ
                 り我々すいふん心をつけ申候様ニ存候、今以如在
                 少も無之候、何とかなと存候へ共、公儀のかれか
                 たキ事多候て引たり不申候故、三斎様より進候御
                 ふちの内申うけ候て人ニ遣度と存候、時も御さ
                 ゝキ其段口上ニよく可申よし可申候、以上
                    元和九年十二月廿九日  御名
                                奉行中

                 休斎主ハ幽齋君之御末男ニ而細川中務少輔孝之
                 申候 初孝紀幼名茶知丸、其後与十郎 丹後ニ而幽齋君之御隠居領を
                 御譲被成、扨豊前ニ而は領弐万五千石ニ而香春之
                 城主なりしか、豊前御立退 年月不分明 御剃髪有之、休
                 斎宗也と号せられ、京ニ御幽居被成候、忠利君よ
                 り三百人扶持被進置候

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