侍の世界には「厄介叔父」という言葉がある。
「厄介叔父というからには、士分の家に生まれたものの、次、三男であるために仕官の望みもなく、一生生家に寄食して、日陰の暮らしを余儀なくされている人間であろう。
一、十二月廿九日、中務少輔孝之主の御事ニ付御奉行中江之御書
中書殿ふちゆう(府中=小倉城下)ニ候ハん間
一米百石・まめ三十石
一こそて 一重
一たる 十
右之分使ニう右衛門を仕可遣候
右馬介をそへ候て遣、今度ハ知行も申付候て進候
様子との事ニついて、我々知行のありたけまかな
いノ様子書付、此内何ノ知をなにほと進候へと御申
候へ、其上たんこう可申よし申候処ニ、知行無之
所御聞わけ候て、以後はたはり有之時いか様にも
申付候へととの事承とゝけ候、何とて他人さへよく
可仕に、おやこノ様ニ御さた候ハゝ、我々かたよ
り成次第とハゆめ/\不存、其上中書殿前々よ
り我々すいふん心をつけ申候様ニ存候、今以如在
少も無之候、何とかなと存候へ共、公儀のかれか
たキ事多候て引たり不申候故、三斎様より進候御
ふちの内申うけ候て人ニ遣度と存候、時も御さ
ゝキ其段口上ニよく可申よし可申候、以上
元和九年十二月廿九日 御名
奉行中
休斎主ハ幽齋君之御末男ニ而細川中務少輔孝之と
申候 初孝紀幼名茶知丸、其後与十郎 丹後ニ而幽齋君之御隠居領を
御譲被成、扨豊前ニ而は領弐万五千石ニ而香春之
城主なりしか、豊前御立退 年月不分明 御剃髪有之、休
斎宗也と号せられ、京ニ御幽居被成候、忠利君よ
り三百人扶持被進置候
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