徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

お座敷文化を支えた町芸者

2024-09-23 19:29:55 | 歴史
 今日9月23日は亡父の生誕113年の日。子飼にガソリン補給に行った帰り、泰勝寺跡のそばの父の生家跡を見て来た。今では民家や集合住宅などが建て込んで痕跡も残っていないのだが。周辺を歩きながら、幼い頃、父に連れられて来た時のおぼろげな記憶をたぐっていた。
 父が残した備忘録の中で印象深いエピソードがいくつかある。その一つがかつて「土手券」と呼ばれた町芸者の話。「土手券」についてはこれまで何度かブログのネタにしたが、父が小学生の頃、祖母と二人で街中を歩いていて出会った老女がかつて祖母の実家の酒宴によく呼ばれていた「土手券」だったという話だ。この話によって祖母の実家の裕福な暮らし向きが初めてわかった。
 この「土手券」について「熊本県大百科事典」にはこう書かれている。

――明治初期、寺原町(現壺川1丁目)に始まった町芸者は同町土手付近に住んでいたことから「土手券」と総称し、全盛時は市内各所に散在し、数々の人気芸者も生み、手軽で便利なことから一時隆盛を極めたが、これは「やとな」(雇い女の略。臨時に雇う仲居の女)の前身というべきものであろう。――

 「土手券」は昭和前期に姿を消してしまったともいわれるが、二本木で旅館を経営していた知人によると、戦後間もない頃まで旅館の宴席に「土手券」を呼ぶことがあったという。
 数年前、彼女たちがどんなお座敷芸を披露していたのか調べたことがある。しかし、それを記録した資料も見出せず、当時のことを記憶している人たちも既におられなかった。ただ、熊本市史などに載っている当時の流行歌などで推測するしかない。熊本では「おてもやん」「おても時雨(自転車節)」「キンキラキン」「ポンポコニャ」「東雲節」「お蔭まいり」などが唄われていたことは容易に想像できる。これらの唄は今日も聞く機会が多い。
 今日はそんなお座敷唄の一つであったにもかかわらず、今日ほとんど聞くことがない「キンニョムニョ」を取り上げてみた。おそらく唄い方の難しさが、唄われなくなった理由と思われる。

舞 踊:藤間きみ藤
  唄:本條秀美
三味線:本條秀邦・大友秀咲

 「キンニョムニョ」は江戸時代後期から明治初期あたりにかけて熊本の花柳界で唄われていた端唄・俗曲の一つだといわれる。歌詞は「七七七五」の口説きに「キンニョムニョ」とか「キクラカチャカポコ」など意味のない囃子詞を間に挟んでいるが、内容は肥後に関係のある歌舞伎・浄瑠璃・講談などの外題を並べたもの。口調の良い文句を羅列しただけで、歌詞として全体の意味がまとまっているわけではない。
<P.S.>
 この映像に、島根県在住の竹下博文さんから次のようなコメントをいただいたことがあります。
--分家民謡のご紹介。島根県、隠岐島前(おきどうぜん)の海士町(あま町)に隠岐キンニャモニャという民謡がございます。時は明治初期、所は熊本田原坂の西南の役の野営地、隠岐から出征した官軍兵士が感銘を受けたのがキンニョムニョ。土産話で伝えたのが「隠岐キンニャムニャ」。違いを確かめてくださいませ。--

漱石内坪井旧居にて

2024-09-22 20:16:14 | 文芸

夏目漱石内坪井旧居の座敷から庭を眺める

 昨夜来の断続的な強い雨も昼過ぎにはやんだので、猛暑で控えていた散歩に久しぶりに出た。いつも車で通り過ぎる「夏目漱石内坪井旧居」の門を約1年ぶりにくぐった。8名ほどの来館者と一緒になったが、そのうち5名は外国人だった。ひととおり見て回った後、座敷に腰を下ろして庭を眺めながらひと息ついていると、床の間の掛軸の句「菫ほどな小さき人に生まれたし」が目に入った。この句については以前、ブログのネタにしたのでさておき、2,3日前に再読した漱石の「草枕」に登場する俳句のことを思い出した。
 「草枕」の峠の茶屋の段において、画工が茶屋の婆さんとひとしきり会話した後、茶屋の鶏を写生していると、馬の鈴が聞こえてくる。そこで鶏の写生をやめて、帳面の端に次の俳句を書いてみる場面。

 春風や惟然が耳に馬の鈴

 画工の旅は春の設定なので、「春風」という季語を使ってのどかな春の山道の風景を詠んだものだろうが、「惟然(いねん)」というのは「広瀬惟然」という江戸前期の俳人で松尾芭蕉の弟子のこと。芭蕉の没後、師の俳句を讃歌に仕立てた「風羅念仏」を唱えて各地を追善行脚したという。つまり漱石は「惟然」も旅の途で聞いたであろう馬の鈴に発想を飛ばしたのだろう。
 この後さらに、馬子唄が聞こえてくる。「坂は照るてる鈴鹿は曇る あいの土山雨がふる」という聞き覚えのある「鈴鹿馬子唄」が春雨の中に聞こえてくれば、これはもう夢現(ゆめうつつ)の状態としか思われない。

 馬子唄の鈴鹿越ゆるや春の雨

 この句の後、「帳面に書きつけたが、書いて見て、これは自分の句でないと気がついた。」と言葉を濁している。


鳥越の峠の茶屋に立てられた漱石の句碑


チャリチャリ(シェアサイクル)

2024-09-21 20:22:34 | 熊本
 2年ほど前から始まった熊本市のシェアサイクルサービス(チャリチャリ)実証実験は、今年4月から本格運用が始まった。すると雨後の筍のようにあちこちにチャリチャリ・ポートができ、わが家の周辺でも数ヶ所設置され、赤い自転車を見ない日はない。利用者に聞いてみると「コスパもよくてとても便利だ」という。現在、ベーシック:1分/7円、電動アシスト:1分/17円だそうだ。当初は観光客と思しき利用者をたまに見かけたものだが、最近は利用率が急激に高まっているようで頻繁に見かけるようになった。それもほとんど一般市民のようだ。熊本市としては狙いの一つでもあった交通渋滞の解消の一策という面での効果はまだ見られないらしい。それと利用者のヘルメット着用の問題はどうなるのだろうか。


夏目漱石内坪井旧居のチャリチャリ・ポート

 19世紀の後半頃から、ヨーロッパでは自転車が大流行した。自転車の流行は日本にも伝播し、明治のなかばには国産車も作られ、輸入も行なわれていたが、まだまだ自転車は一般庶民には高嶺の花。そこで自転車の時間貸しという商売が生まれ、借料は高価だったにもかかわらず大流行した。明治42年(1909)に、こんなハイカラ風俗を風刺した演歌師、神長遼月が作った「ハイカラ節」が流行、翌43年(1910)には「自転車節」として広く歌われていたという。時代背景は異なるものの、「チャリチャリ」は令和のハイカラ風俗再来になるのかもしれない。


小泉セツの生涯

2024-09-20 20:51:42 | 文芸
 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)夫妻といえば必ずと言っていいほど使われるのがこの写真。これは明治25年(1892)に熊本市新町の冨重写真所で撮影された写真。


 椅子に座る女性がセツ夫人。2025年度後期の朝ドラ「ばけばけ」のヒロインはこの小泉セツをモデルとしている。ドラマでは松江の没落士族の娘として生まれたセツが、松江に英語教師として赴任してきたラフカディオ・ハーンの世話をするようになり、当時はまだ珍しかった国際結婚をする。時にセツ23歳。そしてハーンの再話文学を陰で支えることになる人生が描かれる。
 
 小泉八雲熊本旧居では、来る10月8日、下記の講座が開かれる。ぜひ参加してみたい。

八景水谷でひと涼み

2024-09-19 10:12:24 | 季節
 昨日は家族から頼まれた戸籍謄本を取るため北区役所・清水総合出張所へ出かけた。以前、戸籍謄本を取りに熊本市役所本庁へ行った時、えらい手間取ったので行先を変えてみた。来庁者も少なく窓口の職員も親切で交付手続きはあっけないほど短時間で終わった。
 この清水総合出張所のすぐとなりが八景水谷(はけのみや)公園である。ここは熊本市の水道を賄う水源地の一つでもあり観光スポットでもある。せっかく近くまで来たので、しばらく涼んで行こうと園内を散歩した。豊かな自然が広がり心が安らぐ。幼稚園や小学校時代は遠足の定番でもあった懐かしい想い出の残る場所でもある。
 「八景水谷」の名前の由来は、江戸時代中期、熊本藩主の細川綱利公がここに御茶屋を造り、辺りの景観を近江八景や金沢八景などになぞらえて「八景水谷」と名付けたと伝えられる。もともと「ハケ」と呼ばれていた地名に八景をかけたものといわれる。「ブラタモリ 国分寺編」で「国分寺崖線」のことを地元の人たちは「ハケ」と呼ぶと紹介されたが、ここも同じで台地のへりの崖から地下水が湧き出すことを意味していたらしい。柳田國男は 著書「地名の研究」において、「ハッケまたはハケは東国一般に岡の端の部分を表示する普通名詞である」と記しているが、実際には必ずしも東国にかぎらず、ここ九州も同様と思われる。八景水谷はかつての湧水量に比べれば随分減ったと言われるが、世代を継いで残すべき大事な熊本市の宝である。


清流の岸辺にはヒガンバナが咲き始めていた。


清水を満々と湛える八景水谷

ブラタモリの復活!

2024-09-17 18:34:51 | テレビ
 今年3月、レギュラー放送が終了した「ブラタモリ」(NHK総合)が、8ヶ月ぶりに復活する。しかも初の3夜連続。11月2日(土)、3日(日・祝)、4日(月・振休)に放送されるという。

 今回は「道」がテーマ。江戸時代に整備された京都から大阪への“ある道”を歩きながらそれぞれの街の魅力や個性を探っていく内容だという。今回のパートナーは広島局の佐藤茉那アナウンサー。


タモリと佐藤茉那アナ

 番組の復活もさることながら、今回嬉しかったのは、2020年に熊本放送局に初任配置された佐藤茉那(さとうまな)さんがパートナーを務めること。熊本局で新人時代を送ったアナウンサーでブラタモリのパートナーを務めるのは近江友里恵さんに続いて二人目。佐藤さんは熊本着任早々のニュース読みなどもしっかりできていて物おじしない印象があったのは、学生時代バトントワリングをやっていたせいかなと思っていた。いずれはNHKの看板番組を背負うのではないかと期待していた。今回の抜擢をステップに大きく飛躍してほしい。


とにかく暑かった随兵でした。

2024-09-16 18:04:13 | イベント
 今日は朝から、藤崎八旛宮例大祭の朝随兵を段山の御旅所近くで見物。とにかく暑い。コンクリートの路面に立ったままでいると体感温度は40℃に近いと思われる。ひょっとしたら、この祭史上最も暑い日なのかもしれない。「随兵寒合(ずいびょうがんや)」などという言葉も死語になりそうだ。
 一番大変なのは祭の参加者の皆さん。藤崎宮を出発して段山御旅所まで約5㌔の道中でヘトヘトの様子。これから各団体それぞれが確保した休憩場所で昼食と休憩をとった後、夕随兵の準備になるわけだが、大丈夫かなと心配になる。来年以降もこの気候が続くようならば、いずれ祭の開催日も問題になるかもしれない。
 御旅所の能舞台では能奉納が行われ、半能が四番のほか素謡と狂言が奉納された。


御旅所での能奉納。喜多流 半能「敦盛」


飾馬も勢子の皆さんも足取り重く、お疲れの様子。


休憩所となった熊本城三の丸の漆畑では馬が水浴び。

八幡さんの大まつり

2024-09-15 20:47:33 | イベント
 明治16年生まれの祖母が生前、「八幡さんの大まつり」と呼んでいた藤崎八旛宮例大祭のクライマックス「随兵(ずいびょう)」はいよいよ明日。

 ラフカディオ・ハーンが
 「それは気違いじみた大祭で、おかしな飾りをつけた馬をひきまわし、ボシタリ!ボシタリ!と
  叫ぶ。これは朝鮮出兵前に加藤清正が八旛様に唱えて以来の記念すべき掛け声・・・」と言い、
 種田山頭火は
 「熊本は今日が藤崎宮の御神幸、飾馬のボシタイ/\の声が聞えるやうな気がする、熊本は第二
  の故郷、なつかしい・・・」と言った。

 今年は飾馬60頭が町へ繰り出し、約1万2千人の勢子が藤崎宮から段山の御旅所間を往復し街中を練り歩く。飾馬の先頭は藤崎宮の鳥居基で二番目は水道町が恒例となっている。
 祖母の生家は一番被分町(現在の水道町)で、産土神として藤崎宮を篤く崇敬してきた祖母にとって例大祭は特別な大まつりだったのである。
 

水道町の飾馬

藤崎八旛宮例大祭を唄った「まつり囃子」

松本隆の詩世界

2024-09-14 19:44:01 | 音楽芸能
 ポップスやロックのヒットメーカーとして知られる作詞家の松本隆さんが、なんと日本舞踊のための長唄を作詞されるという。小野小町を題材とした「儚小町(はかなこまち)」という曲だそうだ。今秋行われる日本舞踊若柳流の若柳佑輝子さんの公演で披露される。作曲は横笛奏者の藤舎貴生(とうしゃきしょう)さん。
 松本隆さんといえば、1970年頃から、細野晴臣さん、大瀧詠一さん、鈴木茂さんたちとロックグループ「はっぴいえんど」として活動され、中でも「風をあつめて」は当時よく聞いたものだが日本のロック史に残る名曲だと思う。


 その後、ポップスの作詞家として数多の曲に詩を提供しておられるが、その代表的な曲として
  • 太田裕美さんが歌った「木綿のハンカチーフ」
  • 松田聖子さんが歌った「赤いスイートピー」
の2曲を聴いてみた。



 さて、既に出来上がっているという長唄「儚小町」はいったいどんな詩世界になっているのだろうか。松本さんは長唄独特の言い回しにはこだわっていないそうだ。ぜひ一度聴いてみたいものだ。
 参考までに従来の長唄の歌詞の例として「長唄 鏡獅子」を添付してみた。


Can't Take My Eyes Off You

2024-09-13 20:52:29 | 音楽芸能
 今日は白内障術後1ヶ月の経過観察のための受診日。相変わらず受診者が多い。それもほとんどが僕と同じくらいの高齢者。皆さん、受付番号をコールされても反応が鈍いこと。自分もこうなんだろうかといやになる。担当医の診察では施術した右眼は順調のようだ。何か気になることがありますかと問われたので、左右の視力のアンバランスが気になると答えた。医師によれば左眼の視力はそれほど落ちていないので当分は施術する必要はないとの見立てだった。この両眼と付き合っていくしかないだろう。
 そんなわけで、眼がテーマになった曲はなかったかなと考えていると、僕の学生時代、フォーシーズンズのフランキー・ヴァリが歌ってヒットした「君の瞳に恋してる(Can't Take My Eyes Off You)」を思い出した。原題を見ると邦題はだいぶ意訳のような気がするのだが、そういえば名画「カサブランカ」の最後の別れのシーンで、ハンフリー・ボガートがイングリッド・バーグマンに言う「君の瞳に乾杯」という有名なセリフもかなり意訳だったような記憶がある。