津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■12月9日忠利熊本入城す

2023-12-10 08:27:50 | 史料

 細川家の熊本移封に伴い、忠利一行が豊前から熊本に入ったのが寛永九年十二月九日のことである。
翌十日には忠利は早々に江戸に在る嫡男・六丸(光尚)に書状を発している。
「事のほかに広い囲みで、江戸城のほかこんなに広い囲みは見たことがない」とその喜びの心情を率直かつ簡明に記している。
この年光尚は14歳であり、熊本に入国するのは寛永十四年年末、天草島原の乱の勃発によるもので、熊本城に入場することなく戦場に赴いた。

 

              以上
            我事十二月
                 九日ニ
            熊本へ入城申し候
            可心安候 事外
            ひろキ圍にて候
            城も江戸之外ニハ
            これほとひろキ
            見不申候 又十一月
            十五日之状相とゝき
            跡より又可申入候
            其方も登城之
            よし丹州                                    丹州・・稲葉丹後守正勝(小田原城主、春日局嫡男)
            御さしつの
                 よし
            尤ニ候恐々謹言
              十二月十日 利(花押)

                六返事
                  

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■国友次郎という人

2023-12-10 07:51:58 | 人物

 瀬戸到誠氏の研究成果の一つに「資料紹介『遊学一巻帳』(一)(二)」がある。
これを眺めながら、膨大な藩費を受けて遊学を果たした人たちは、その後どのような人生を送ったのだろうかとふと考えた。
これは熊本大学に寄託されている「永青文庫」の史料の中にあるものを瀬戸氏がまとめられたものである。
氏にはこのほか、「幕末維新期の肥後藩における遊学生群像」「幕末肥後藩における洋学受容」「幕末期の肥後藩における海外渡航、海外留学」「 幕末肥後藩西洋砲術家池辺啓太に関する疑問点」「幕末肥後藩と長崎海軍伝習」「荘村助右衛門について」などの論考がある。

 さてその内容を見てみると、108名の名前が記されている。一番目に付くのは、長岡監物家来・井上多久馬だろう。のちの「井上毅」である。
そうして、私にはもう一人気になる人物がいるのだが、国友次郎なる人物である。
最近この人物について検索をしてみると、その肖像や業績などを知ることができる。
皇居三の丸尚蔵館が所蔵する「明治十二年明治天皇御下命人物写真帳・海軍」に次の写真が紹介されている。    https://shozokan.nich.go.jp/collection/object/SZK001477-039
その業績については別に、海軍関係のサイト「人名辞典くな」に次の記載があった。

    国友次郎Kunitomo Jirou、-1904(熊本).大佐.
    大佐1884.2/8龍驤艦艦長  85.11/7艦長  86.6/23浦賀屯営長  87.4/25大和艦艦長  10/27東艦艦長
    88.1/28旧東艦残務取扱 
1902.7/1後備役  04.6/7死去(56歳).

 実は10年ほど以前になるであろうか、国友家の関係者からご連絡をいただき、ご自分の身内に「戦艦三笠」の艦長を務めた人物がいる、先祖の事を知りたい」というお話があった。
三笠の艦長であればすぐわかるだろうと考えたが、これはどうやら龍驤艦の間違いではないかと思われる。
さてその「遊学一巻帳」によると、この国友次郎という人物は国友儀平(国友儀兵衛・南東33-9)の弟であり、自勘(自前)での遊学を申し出たらしい。
そして1年の西欧留学の費用は1,500両に及び、外務省や大蔵省からその返済について盛んに熊本藩庁に催促がなされている。
幕末期の1両の価値は暴落しており3~4,000円だというから、それでも600万円といったところか?
100石取りのお侍の生活ではとても一括返済はむつかしかろう。
また、その費用は留学生15人が現地の豪商から洋銀で8,000弗を借金しているため、一人当たり533弗33セントを返還せよとしている。
1,500両≒533弗なのかはよくわからない。弟の勉学のために留学させたのはよいが、兄・儀平さんの困惑ぶりが見て取れる。
しかし、海軍の大佐にまでなり、龍驤艦などの艦長まで勤め上げられたのも、この留学の結果であることは間違いない。

 

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