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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■東京大学史料編纂所「資料集版画ギャラリー」を公開する

2019-04-03 10:13:07 | 史料

 4月2日付、東京大学史料編纂所では編纂・出版した史料集の「史料集版面ギャラリー」を公開した。
p様の早々のご教示により知ったのだが、御礼申し上げる。
これだけの膨大な史料が、簡単に拝見できることは誠にありがたいことである。これらの資料がより各位に間近な存在になるであろう。
大いに利用したいと思うが、それこそが史料編纂所の本資料公開の本意となすところかもしれない。

「大日本近世史料・細川家資料」の25巻や「肥後藩人畜改帳」、また「大日本古文書」の「相良家文書」「阿蘇文書」等熊本に関する史料も多い。
「維新史」に関する史料も豊富であり、研究者のみならず、多くの好事家の注目するところであろう。
誠にありがたく、関係者にたいして敬意を表したい。

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■永源師檀紀年録・巻之四(10)

2019-04-03 06:11:37 | 史料

〇天正二年正月諸将年賀トシテ岐阜ニ至ル、十七日ニ於テ信長公酒肴ヲ諸将ニ饗ス、乃シ屋形及ヒ蒲生・青地
 ・池田・松永・筒井・畠山・中川・閉地・関・分部・平塚等ノ十四員也、岐阜家ノ曰ク、筒井順慶ハ多病ナ
 リ嗣子アリヤ、答テ言ナシト曰ク、明智光秀ニ子数多アリ其ノ四男ヲ以テ継嗣ニセヨト、両家敬テ諾ス。且
 ツ岐阜家モ亦タ光秀ノ娘ヲ乞ヒ取て信澄ニ嫁娶ス。岐阜家又タ屋形ニ謂テ曰ク、光秀ト縁家タル可シト、屋    織田信澄
 形ハ与一郎殿ノ豪強ナルヲ以テ辞ス、岐阜家重テ曰ク、光秀ニ配合セバ此後我モ又タ与一郎ニ教誡ヲモナサ
 ント、屋形此ノ恩渥ヲ謝シテ諾ス、仍て明智家ト与一郎殿ハ贅壻ノ佳期ヲ為ス、此外前田・柴田・佐久間等    忠興・明智珠の婚約
 ノ諸士ノ不和ヲ解カシメテ或ハ縁家タラシム。然シテ岐阜家ハ光秀ニ謂ラク、向キニ汝ヲ西国ノ征将ト為カ
 故ニ丹波ヲ征伐ス可シ、然ラハ長岡父子ト偕倶ニ赴ク可シトテ都テ暇ヲ諸将ニ与フ、然ルニ畠山昭高帰国ノ
 時キ其ノ臣遊佐カ為ニ弑セラル。岐阜家此ヲ伝テ大ニ憤リ、先ツ万方ヲ閣キ此ヲ征伐ス可トシテ、同三月四
 日ニ於テ入洛シテ参内ス、岐阜家ヲシテ従三位参議ニ任セシム、諸将来賀ス、屋形ハ岐阜家ニ謂テ曰ク、河
 州征伐トシテ公豈ニ自親ラ出馬ヲ労センヤ、彼等底ノ者ノ一両士ヲ蹴散事ハ掌ヲ反スヨリ易シト、岐阜家甚
 ク悦懌シテ忠興主及ヒ中川瀬兵衛ヲ両将トシテ千余兵ヲ率ヒサセテ進発セシム、松永父子ヲシテ此ノ後援タ
 ラシム、忠興主ノ到処破フラスト云事ナシ。殊ニ同四月十二日高屋口ニテ終日ニ四度ノ鎗下ニ遊佐ヲ初メ六
 十余兵ノ首ヲ授ク檄を馳ス、岐阜家感賞シテ忠興主ニ三百貫ノ地ヲ河州中ニ授ケ、松永父子モ又タ此ニ同シ、   貫高制1貫文=2石として600石程
 因テ九月萱振及ヒ飯盛ヲ囲テ功ヲ策ス、岐阜家賞帖ヲ忠興主ニ授ル事二封ナリ。茲年屋形は青龍寺二在シテ
 亀山城主内藤備前守定政カ丹州二卒スル事ヲ聞テ密ニ此ヲ明智ニ告ク、光秀五千余騎ヲ帥テ十月五日東坂本
 ヲ発シテ丹波ニ赴ク、忠興主ハ三百五十騎ヲ率シテ倶ニ赴ク、屋形此ノ時キ書ヲ亀山城中ノ安村次郎衛門・
 嶋村主計・内藤等ヱ馳テ云ク、各ハ其ノ家ノ新参トシテ且ツ家将及ヒ士卒ノ意区別シテ其ノ幼弱主ヲ奉シテ
 信長及ヒ兵将明智ニ敵対セン事難カナ深ク思慮ヲ廻サル可シ、首肯セラルヽニ於テハ我カ賞ニ替ヘテ岐阜家
 エハ宜ク取リ計ロフベシ、其ノ主君ノ家ヲ全スル事此レ忠臣ノ専要ナリト言ヲ竭シテ告報スト言へトモ、亀
 山ノ家士は岐阜家ノ表裏ヲ悪ンテ領掌セズ、就テ此ヲ光秀ニ語ル、此ニ於テ明智及ヒ忠興主亀山城ヲ重々ニ
 囲ム、同十月十六日ヨリ三昼夜襲ヒ戦フ、城兵モ能ク防戦スト言へトモ遂ニ陥ントスルカ故ニ降ヲ乞フ、光
 秀点頭シテ大手ノ囲ヲ解ト言へトモ、忠興主ハ我父言ヲ尽シテ諭ス処ニ是非籠城ト決断ス、然モ豈ニ此ヲ聴
 サンヤト云テ縦横ニ撃チ廻リ搦手ヨリ推破ント議ス、光秀頻リニ此ヲ諭シ漸クニ無事ニシテ内藤一族家士降
 ス檄ヲ馳ル、岐阜家ノ曰ク、光秀善ク此ヲ計レト、就テ内藤カ家人等ハ明智ノ旗下ニ属ス、光秀ハ亀山ノ本
 丸ニ移居ル、忠興主ハ二ノ丸ニ居ス。屋形ハ此行忠興主ノ豪強ヲ怒テ重テ不和タラントス、明智家ヨリ和ケ
 テ云ク、万般我ニマカセラルヘシトアツテ終ニ無事ナリ、此ノ時ヤ屋形ノ思慮フカク仁慈アツキ事ヤ且ツ岐
 阜家ノ賢慮ヲ美称ス、伯々ヶ部権頭・同次郎左衛門ハ隣郷ノ諸士ヲ招キ五百余兵ニテ笹山ノ要害ニ拠ル、光
 秀此ヲ聞テ自ラ亀山ニ在テ七百余騎ヲシテ彼ニ発セシム、忠興主ハ搦手ニ在テ力戦ス、伯々ヶ部・紀州四王
 天・但州天方孫三郎ハ伯々ヶ部ヱ後援ス、城兵此ニ力ヲ獲タリ、仍テ挟テ奇手ヲ伐ツテ大ニ利アリ、此ニ於
 テ久下・長澤・保津ノ兵ハ伯々ヶ部ニ与力セヨトテ発向スルト聞テ、溝尾・三宅等頻ニ軍使ヲ亀山ニ馳ス、
 就テ光秀ハ亀山城ヲ屋形ニ預ケ、自ラ彼ニ進発ス、此ノ時キ屋形ハ並河掃部介ヲ招キテ曰ク、汝ハ本州一方
 ノ故将ナリ、向ニ我レ舟井ヲ征伐の時キ汝カ軍利ナフシテ潰ユ、以来光秀ノ与力ト成レリ、今善計ヲ為シテ
 本州ヲシテ無事ナラシメハ功ハ汝ニ在ンノミト、並河ハ光秀ノ与力トナレリト云へトモ用ヒラレズシテ徒然
 トシテ亀山ニ在カ故ニ此ノ言ニ及ブナリ、掃部助曰ク、貴命ノ如ク此行何方ヱモ従軍セズシテ空ク日ヲ消シ
 ヌ、今承ル笹山表伯々ヶ部強シテ身方利ヲ失フト、光秀・忠興ノ両将モ容易ニ此ヲ陥ザル事所以アリ、総ニ
 本州ハ往古ヨリ衆ノ心能ク調ヒ互ニ相替テ親子ノ如シ、是ヲ以テ甚タ強シ、今マ笹山ヲ囲マレバ福地□部・
 久下・長澤・太田等ノ諸城ヲ厳ク押サヘサセ、割リ城ニシテ攻ラレバ陥ラズト言事有ヘカラズト、屋形委説
 ヲ聞テ介ヲ馳テ、此ヲ光秀等ニ告ゲラルㇾバ、忠興主ハ久下ニ発向セラルヽカ故ニ久下七郎衛門・中沢越後
 守・並河四郎左衛門・釈迦牟尼仏靱負助・河田甚右衛門防戦スト云へトモ、忠興主豪強ニシテ力戦ノ故ニ此
 ヲ撑ル事能ワズ、城ヲ捨テ鬼令城・高見城ヱ逃ケ聚ル、忠興主此ヲ撃チ散シテ直ニ進テ福井因幡守貞通カ過
 部城ニ在テ光秀ニ服従セサルヲ征伐ス、光秀ヨリ山本対馬守・番頭大炊介ヲ馳テ搦手ヨリ囲マシム、屋形
 亀山ニ居テ過部笹山等ノ諸城強シテ、動スレハ身方ヒキ色ナリト聞テ、城ヲ妻木主計介・松田太郎左衛門ニ
 預ケ、自ラ二百余兵ヲ帥テ過部ニ進み城ヲ巡検シテ明智光春ニ謂テ曰ク、我父子ハ宇津ヲ押ヘン、若シ宇津
 右近大夫出テヽ防戦セハ、快ニ鋒ヲ交ヘント、光春ハ命ノマヽナリト云テ躬ラ二百五十余騎ヲ率テ屋形ノ殿
 後ヲ為ス、過部ト宇津ノ間ニ小川アリ、兵ヲ此辺ノ林中ニ伏シテ有吉四郎右衛門ヲシテ鉄炮四十余挺ヲ川ノ    有吉立行・家老
 向ヱニ列子張リ出サシム、宇津ハ四百余兵ヲ帥テ屋形ニ半路ニ相ヒ対陣スル処ニ、押へ勢ノ中ヨリ溝尾庄兵
 衛茂朝ハ夫ノ隊ノ横ヨリ衝カヽリ力戦ス、屋上部ノ城主波多野中務ハ宇津ニ後援シテ五百余騎ヲ進メテ戦ヲ
 挑ム、屋形ノ隊中ヨリ米田助左衛門等七十六騎鑓ヲ揮テ馳ケ入リ縦横無碍ニ戦フ、屋形ノ臣相田権内カ発ス    米田助政(慶長五年戦死)
 ル所ノ鉄砲宇津カウチ□□(甲ニ)中テ死ス、過部ニモ宇津・波多野カ後援ヲ力トテ守リ固テ待ツニ、已ニ
 宇津ハ命ヲ殞シ、波多野ハ力尽テ屋上部ニ還リヌト伝ヘテ、若カジ死センニハト城門ヲ開テ出戦フ、屋形
 子サイハイヲ振リ揚ケテ士卒ヲ指呼シテ戦シムルカ故ニ、藤木又左衛門・有吉四郎右衛門等ヲ始メ逞兵八十
 余騎、各自ニ馬ヲ騎リ放チ鎗ヲ取テ奮撃ス、城兵モ再三小返シシテ此ヲ追散サント欲スレトモ、忠興主ハ豪
       ママ(家カ)
 将ナリ其ノ鹿臣ハ猛勇ナリ、名将の誉アル屋形ノ下知ニ敵防戦スル事能ワズ城中へ引退キ、門ヲ閉ント欲ル
 ニ能ワズシテ屋形ノ士卒城中ニ乱入ス、明智左馬モ屋形ノ兵ニ随テ倶ニ城中ニ入ル、福井与一政輝・同喜之
 介吉行・同新兵衛・星崎刑部左衛門等ハ本丸ノ外ニ於テ屋形ノ兵ノ為ニ首ヲ授ク、忠興主ノ麾下ニ首級ヲ獲
 ル者ノ凡ソ三百余ナリ、敵将福井因幡ハ首ヲ明智次右衛門ニ授ク、国幾乎平治ス、光秀ヨリ檄ヲ織田家ニ    =門構ニ蓋
 馳ス、織田家大ニ悦テ湯浅甚介ヲ馳テ賞シテ云ク、屋形及ヒ明智ノ両旗ヲ以テ早速ノ大功悦喜不斜、弥粉骨
 ヲ砕テ計策アル可キノ旨慰労アル、且ツ余黨尚強クハ我カ兵副ベシ、重テ注進アル可シトナリ、時ニ萩野彦
 兵衛・波々伯部権頭・尾石与三・中沢豊後守・酒井孫左衛門・加治石見守等ハ降シテ光秀ニ属ス、岐阜家ヨ
 リ書ヲ屋形ニ授テ本願寺ヲ征伐セン事ヲ告ク、屋形領掌ス。

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