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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■清正公の南蛮服:大航海時代に渡来した一枚のシャツの物語

2019-01-09 21:09:52 | 書籍・読書

                              『清正公の南蛮服:大航海時代に渡来した一枚のシャツの物語』伊藤なお枝著

  ■本体1700円+税/四六判/264頁/並製    ■ISBN978-4-905327-95-0 C0021

ご注文方法はこちらへ。

加藤清正公所用の南蛮服──それは勇猛な戦国武将の印象を覆し、豪華ないわゆる“南蛮服”のイメージともかけ離れたものだった。シャツに導かれその来歴や国内外の時代背景、清正の生涯と熊本のゆかりの地を辿ることで見えてきた、その孤独と壮大な海外交易構想の夢

【目次】

 序文[発星山本妙寺第四十一世住職 池上正示氏]
第一章 清正公の菩提寺、肥後本妙寺へ
 一 清正公の御廟所「浄池廟」/二 清正公の最期
 三 清正公の菩提寺、本妙寺/四 本妙寺宝物館
第二章 清正公の南蛮服
 一 清正公の南蛮服/二 エポックとなった三つの研究報告[江馬務氏・野上俊子氏・丹野郁氏の研究]
 三 復元された南蛮服/四 清正公由来の南蛮風陣羽織も
第三章 戦国大名を魅了した南蛮ファッション
 一 南蛮服の伝来/二 交易と布教を目的に
 三 南蛮服を愛した戦国大名たち/四 フィリピンを植民地化したスペインも日本へ
 五 ルソン商人・原田喜右衛門/六 南蛮ブーム、全国を席巻
第四章 清正と南蛮との出会い
 一 数字に強かった清正/二 南蛮色の濃い九州へ
 三 若武者清正、肥後半国の領主となる
第五章 清正の南蛮貿易
 一 清正時代の熊本の国際港、高瀬と川尻/二 清正、スペインと出会う
 三 戦場から唐船派遣を指示/四 異国渡海朱印状を取得
 五 ルソン貿易に着手/六 かなわなかったルソン貿易
第六章 清正の朱印船貿易と南蛮服の贈り主
 一 秀吉から家康の時代へ/二 肥後の戦後復興に着手
 三 朱印船貿易に本格参入/四 「清正公の南蛮服」の贈り主
 五 清正公の羅針盤(和磁石)

■資料1 現存する安土桃山─江戸初期の南蛮服飾(戦衣)一覧
■資料2 加藤清正関連年表

 

【序文より】
 本書は、十六世紀末にポルトガルで作られ、清正公に献上されたと推定される南蛮服の来歴を、当時の国際情勢、大航海時代が日本にもたらした鉄砲・キリスト教、そして織豊時代の大名たちが夢中になった南蛮ファッションと南蛮貿易、旧教と新教の覇権争い、秀吉の朝鮮出兵など、あらゆる角度から壮大なスケールで、しかも緻密に考察している。歴史の専門家ではないという著者が、ここまで調査したことに驚嘆するが、そこから浮かび上がるのが、本書の主人公、加藤清正公の素顔だ。
 本書は、「虎退治」のイメージだけでは量れない、進取の気概に満ち、海外貿易に意欲を示し、五十年の生涯を燃焼した加藤清正の、真の姿を活写していてうれしい。清正公ファンの方は、第四章「清正と南蛮との出会い」から読み進めるのもよいだろう。 
 [加藤清正公記念館館長/本妙寺住職 池上正示氏]

**

【第六章 清正の朱印船貿易と南蛮服の贈り主より】
 多くのドラマや映画、小説で描かれ、誰もが心惹かれる戦国時代。
 アジア諸国との交易を熱望した清正が死去したのは、海外との交流が盛んだった時代のさなか、一六一一年六月二十四日のことだった。
 肥後本妙寺の地下の収蔵庫で初めて「清正公の南蛮服」に出会ってから三十年余り。自分でも理由がよく分からないまま、南蛮服にこだわり続け、先人の研究や体験を渉猟して手にすることができたのは、西洋と日本の波がぶつかりあった時代の小さな欠片(かけら)だったかもしれない。
 人々のエネルギーが沸騰した時代に、南蛮から日本にやってきた「清正公の南蛮服」。
 四百年以上前にはるばると海を越えてやってきた一枚のシャツが、私には燻し銀のように輝いて見える。歴史の証言者でもある「清正公の南蛮服」は、清正の見果てぬ夢の象徴でもあると私は思う。 

【著者紹介】伊藤なお枝(いとう・なおえ)

 ライター・編集者
福岡県出身。東京の出版社,編集プロダクションを経て帰福。福岡を中心に活動。1981年,取材・執筆・企画編集を専門とする「編集工房ナオ」(福岡市)設立。現在まで手がけた一般取材記事,企業情報誌・年史,単行本などは多岐にわたる。福岡市在住。
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■史談会例会準備

2019-01-09 13:12:31 | 熊本史談会

 史談会1月例会は「細川忠興軍功記」を取り上げることにした。
「史籍集覧」から引用させていただいているが、約34頁に及ぶ。
実は昨年九月の例会で一度お話したが、よけいな説明に時間を使いすぎて7頁しか進まなかった。その二回目である。
残り27頁をなんとか今回一回で終わらせたいと思っていたが、2時間弱で終わらせるには少々無理な感じもある。
三回にすることに決めたのだが、つながりからして何処で切ればよいか思案中で、何度も通しで読んでいるが大いに難儀している。
試験前のかけこみ勉強の感じであり、中途半端では皆様に申し訳ないので19日の定例会迄大いに勉強しなければならない。

私事ながら当日は私の誕生日、満77歳喜寿の祝いのお話とあいなる。

           

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■度支彙凾 文化八年より十四迄 法令條諭・十八(3)

2019-01-09 07:03:08 | 史料

 七三九                           ノリ
職五郎様、當春被成御出府筈ニて、其段御用番松平伊豆     職五郎→細川齊茲三男・茲詮、当時17歳
 守様え御届之御書付、舊臘十一日被遊御差出候處、無御
 滞被成御受取候段申來奉恐悦候、依之來月三日御發途之
 筈ニ候、此段觸之面々えも知せ置可申旨、御用番被申聞
 候條、已下同断
   文化九申正月十一日     右同

 七四〇    (豊後国一揆について)
一去十一月末比より竹田御領之百姓共願事有之由ニて、大     途中流説(一)     
 勢相集及騒動、或鎮或起候由相聞候、其後臼杵御領同様     脇蘭室 「黨民流説」
 相聞、近來ハ延岡府内御領も不穏相聞候、右御領所/\
 之村々ハ、鶴崎・野津原・久住・阿蘇等之御郡ニ相境、
 間ニハ入交居候所も有之候、尤御領内ニハ御妨等も不致、
 勿論御領内は御静謐ニ有之候、然處右御領所/\之者共、
 御領内際ニ及騒動候節ハ、所之御郡代御家人等召連、御
 境を固メ居候間、是迄子細茂無之候得共、彼方角騒立候 
 て手廣御境目之事ニも有之、如何成亂民も可有之哉、且
                        ママ
 右之ヶ所/\取狭居候御領分之百姓共之内、萬一隣單之
   ママ
 動騒ニ被引立、心得違之者等有之候てハ不埒之事ニ候、
 警固として御物頭之内組共此節出在被仰付候、且右等之
 事付てが、自然と唱違も可有之哉、惣てヶ様之砌は別て
 之事ニて人氣を動候躰之取沙汰等仕間敷事候、右之趣無
 屹、組支配家來末々迄ニも申聞候方可然と御用番被申聞
 候條、左様相心得、已下例文
   文化九申正月十一日     御奉行中

 七四一
堀平太左衛門、今度病死ニ付、今日中諸事穏便御觸達有      堀家6代平左衛門勝貞(文化五・九・七没)74歳
 之候事                            堀家で平太左衛門を名乗るのは、4代勝名のみである。
一太守様五月朔日江府御發駕御歓、組不入御中小姓以上麻
 上下着、五月十八日御花畑へ出懸、御小姓頭謁之御觸、  
 其後五月七日掛川駅へ被遊御着候段五月廿二日御触、六
 月三日熊本御着座之御觸有之候事
 御目見場所麻上下着之御觸も有之候事

 七四二
芳姫様御事、松平出羽守様え御婚姻被成御整候處、御不                 (1)七三二でもふれた。文化11年12月一条関白忠香に再嫁(22歳)改名して邰姫
 縁ニ付御双方御熟談之上被成御離縁候段、先月十八日御
 用番御老中様え御届書被遊御差出候、尤御熟談之御事ニ
 付、只今迄之通不相替御両敬ニて可成御通路旨被仰合候
 段申來候、此段觸支配方、已下例文
   文化九申五月十三日     御奉行中

 七四三
一今度御入國之上、於御城御禮被遊御受候節、大勢之御禮
 人即朝ニ至習禮有之候てハ、手間取御禮初之刻限遅々可       習禮=しゅうらい
 致、依之習禮有之度面々ハ、前以着座ハ最寄之御小姓頭
 え懸合有之、御物頭以下都て最寄之御使番へ懸合、習禮
 相濟居候様、且又揃刻限よりハ随分早メニ相揃被居候様、
 左候て御禮之即朝は御間所幷御疊目等之物見迄ニて相濟       疊目→御禮の規式に於ける所作は畳目単位で決められている
 御禮速ニ相濟候様                        これらの事については以前「有吉家文書・年中行事抜粋」として47回にわたり
一於御花畑御目見諸御禮等被為受候節も、習禮有之度面々       詳しくご紹介した。このブログ内で検索していただきたい。       
 ハ右同断被仰出候、揃刻限前以被罷出候様近年頭々え達
 ニ相成居候得共、大勢之御禮人有之節は習禮ニ手間取、
 被仰出候揃刻限ニ相濟兼、上ニも度々被遊御待奉恐入候
 儀ニ候間、以來は御目見諸御禮ニ被罷出候面々、兼て父
 兄よりも習禮等之儀示談有之候様、尤以來頭々えハ定達
 ニ被相心得居、組支配方之内追々御目見御禮被遊御受候
 節々、其達有之候様、別て遠在宅之面々ハ前廣ニ出所有
 之、習禮相濟居候様、且又御禮即朝御間所拝見仕候節、
 御所柄之儀ニ付別て謹慎有之も、御城ハ御座所等も御間
 近ニ有之候間、猶更不敬之儀等有之候てハ難相濟候條、
 子弟之面々えハ是等之所も父兄より精々可被示置候、右
 定之儀付てハ御小姓頭より申達之趣も有之、此段可及達
 旨御用番被申聞候條、左様御心得、觸支配已下例文
   文化九申五月廿ニ日     御奉行中

 七四四
一百姓之公事其外出入之儀、給人より一切構申間敷旨、従
 前々被仰出置、彌以其通被相心得候様、貞享元年六月一
 統及達置候處、年久敷相成、右様之儀當時存知不被申面
 々も可有之哉、百姓共公事訴訟、其外米錢等出入之儀ニ
 付、給人又ハ手筋違之族より御惣庄屋・村役人へ懸合、
 或ハ中ニ入取計被申候様之儀も有之、右之外諸浪人者之
 内ニも右様之儀ニ携、取持之儀有之、筋々取捌之妨ニ相
 成候様子ニ相聞候間、給人ハ勿論前々被仰出之趣彌以堅
 被相守、一切差構被申間敷候、其外諸浪人者等是又向後
 右様之出入携不申様可及達旨候條、已下例文
   五月晦日          御奉行中

 七四五
一今度於御城御禮之節、座並御禮申上候面々揃所之儀、此
 節ハ平左衛門丸内被究置、座札打せ候間、右之所ニ揃罷               平左衛門丸
→加藤時代、重臣・加藤平左衛門屋敷があった
 在、御禮初前歩御使番より申達次第闇り御門より入込、                                大小天守と宇土櫓に挟まれた広場
 四ッ辻御門を通り抜、右之方へ輕輩口ト張札有之所より     くらがり
 御間内へ入込可申候、尤闇り御門より輕輩口迄ハ置座幷      闇り御門→本丸御殿の地下(石垣部分)部分にある入口 ⇔ 
部分
 竹簀敷込、雨天たり共通路無支様いたし有之候間、右闇
 り御門前ニて刀を持せ小者ハ開せ申筈候、此段座並御禮
 申上候面々え可有御達候、以上
   文化九申六月十四日     御奉行中
                                                                                                                                                                                                                                                             

 七四六
一御省略中式日御禮之儀、御役付之着座以上出仕被仰付置

 候處、暫以前之通御物頭列以上出仕被仰付、來月朔日よ
 り五半時揃ニて被遊御受旨、且又五節句御禮之儀も暫以
 前之通惣出仕被仰付、七夕より五半時揃ニて被遊御受旨
 被仰出候間、奉得其意、觸支配方へも可被御達候、以上
   六月廿五日         奉行所

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