津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■お神楽造りの指月伏見城

2019-01-16 15:28:47 | 歴史

 建築用語に「お神楽造り」がある。太神楽(だいかぐら)造りともいい、「通し柱を使わないで、管柱のみを使って2階建てとする工法」と定義されている。(建築大辞典)

慶長伏見大地震で倒壊した指月伏見城は、二重の天守を揺り落としたとされる。桜井成広氏は「二重の入母屋式の居館の上に、柱を独立させて三重櫓をのせた初期(桃山式)の望楼型天守」で有ったろうと推測している。
居館部分の上部に、構造的に全くつながっていない箱状の望楼部分が乗っかったものであり、これが「振り落とされた」わけである。
この地震では京都で2,000人が死んだとされるが、伏見城内では600人が圧死したとされる。
細川忠興が一番に馳付けたが、助けを求める人たちの惨状は名状しがたいものであったらしい。
その後の城郭建築を見ると、最上階の主だった柱は1階まで通し柱として突き抜けている。

「豊公伏見城ノ圖」は、地震後に整備された御城や城下町が描かれていることになる。
ウイキペディアが記すところでは「指月に築かれた伏見城は築城開始から2年後の1594年(文禄3年)に秀吉が入城し、更にその2年後の1596年(文禄5年)に完成をみるが、その直後に慶長伏見地震によって倒壊した。このため、指月から北東約1kmの木幡山に新たな城が築き直されることになり、翌1597年(慶長2年)に完成した。しかし、秀吉はその1年後の1598年(慶長3年)に城内で没した。」とある。
僅かの時間でこれだけの城郭や、城下町を整備したという事は秀吉の財力をもってしても、大変なことであったことは想像するに難くない。

慶長五年関ケ原の戦いを前にして、鳥居元忠が守るこの城は皮肉にも秀吉股肱の者たちによって攻め立てられ落城し焼失した。

                           
                                                                         木幡伏見城

 




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■度支彙凾 文化八年より十四迄 法令條諭・十八(10)

2019-01-16 06:55:33 | 史料

 七九九
松井式部殿儀、山城と改名願之通被仰出候、此段觸支配               松井式部(山城)→松井家11代督之(タダユキ)
 方えも知せ置可申旨、已下右同断
   (文化十二)亥六月十八日  御奉行中

 八〇〇
篤姫様御事、此節御前様御養女ニ被遊候ニ付、右之段御               御前様→細川齊樹室・紀姫
 用番之御老中様え参月廿一日被遊御届候、依之御中老以               篤姫 →細川齊樹二女(生母・坂内氏慶)
 上、篤姫様と可奉稱旨被仰出候段従江戸申來候條、奉得         宇土支藩藩主立政(後の本藩藩主・齊護)と婚約するも早世、14歳         
 其意、觸支配方えも可被達候、以上                  鎌倉の妙法寺本堂は篤姫の菩提を弔うため、細川家が建立した。
   亥六月十七日        奉行所

 八〇一
一邰姫様事、一条關白様え御再縁組御願書被遊御指出置       一条關白一条忠香
 候處、九月廿四日御願之通被仰出候段御到來有之、奉恐
 悦候、此段為被奉承知申達候條、觸支配方えも可被相知
 候、以上
   文化十二亥十一月朔日    奉行所

 八〇二
一一條様、此度御両敬被仰合相濟、十月十三日御縁組御願
 濟、御祝儀於京都御取遣之節より御両敬被仰進筈候、左
 之通           トウ
   一条關白様  御子様方達姫君様
          チマ                              ミチ
   千萬姫君様      三千姫君様
                                        タカ
   萬壽君様       嵡君様
 大政所様えハ御両敬之御取遣不被遊候、右之通ニ付御家
 中え知せ置可申旨、御用番被申聞候條、已下例文
   亥十二月十四日       御奉行中
一邰姫様、先月六日江府御發輿、同廿四日京都御着、同日一
 條關白様より御結納御祝儀被進、同廿五日夜御婚姻被成
 御整、君號被進、邰君様と奉稱候段御到來有之、重疊奉
 恐悦候、此段為被奉承知申達候條、觸支配方えも可被相
 知候、以上
   亥十二月十四日       奉行所
一邰君様御儀政所様と奉稱、就君様・政所様御順之儀、表
 向二てハ政所様・就君様、御内輪二てハ就君様、政所様   
 ト被仰付候、此段觸支配方えも可被相知候、已上
   文化十三子正月晦日     奉行所

 八〇三
少将様被為在思召之旨、赦被仰出候段、舊臘及達置候通      少将様細川齊茲 
 候處、右ハ今度政所様御婚禮無御滞被為濟候二付、少将      政所様→一条家・政所邰君様 細川齊茲・長女
 様格別之思召二て、去年迄犯罪之者共赦被仰出度御内意
 二付、従太守様赦被仰出候段、此砌江戸より申來候間、      太守様細川齊樹
 右之御旨趣をも為被奉承知、猶可及達旨御用番被申聞候
 條、左様御心得、觸支配方有之面々は可被相達候、以上
   文化十三子三月十三日    御奉行中

 八〇四
一博奕賭之諸勝負、前以御法度之趣度々被仰出も有之、武
 家屋敷其外二ても常々嚴可申付は勿論候處、近來一統相
 弛候由相聞、既ニ先達て小普請三枝清之助屋敷内ニて他
 所之者共入込、博奕致し候間、清之助罷出相咎候得共、
 手向いたし候間討留候ものも有之、遁去候者共ハ追々召
 捕、吟味之上御仕置申付候、依之寛政四子年相達候通、
 彌厚相心得、召仕候者共無油断嚴重ニ申付、不相用ニお
 ゐてハ他所之もの入交候とも無用捨召捕置、奉行所又ハ
 火附盗賊改え加相渡候、時宜ニよつて討捨ニいたし候と
 も不苦候、右之通被加相觸候、博奕賭之勝負之儀付て、
 牧野備前守様被成御渡候御書付寫、代御目付衆より被差
 廻、右御書付之趣可相觸旨従江戸被仰下候付、則寫之別
 紙相添候條奉得其意、觸支配方えも可被相觸候、尤此觸
 状可有判形候、以上
   文化十三子四月       奉行所

 八〇五
一於江府、大納言様三月二日より右大臣様と可奉稱旨、大      大納言様(右大臣様)徳川家斉
 御目附衆より御書附被差廻候、右之趣可相觸旨従江戸被
 仰下候條奉得其意、觸支配方えも可被相觸候、尤此觸状
 可有判形候、以上
   子五月六日         奉行所

 八〇六
    口上書
長岡帯刀殿病気ニ付、依願隠居被仰付、松井山城殿家督      長岡帯刀→松井家9代・松井微之
 相續被仰付、八代之御城御預長岡之御稱號被遊御免、諸      松井山城→松井家10代・松井督之(分家4代賀之二男)
 事帯刀殿家督之節之通被仰付旨、今日於御前被仰渡候、
 此段觸支配方えも可被知旨、御用番被申聞候條左様可被
 相心得候、以上
   子六月廿五日        御奉行中
 
 八〇七
    
一少将様當秋御出京、夫より御國え被遊御下、暫御滞留之
 儀は承知之通ニ候、右之節、少将様えハ御船中被遊候筈
 被為御決置候處、太守様御旅中得斗被遊御勘考候得は、
 其比ニ至り候てハ時候も悪敷折柄ニ相成、何分不被遊御
 安、中國路被遊候様有御座度思召之段、少将様え申上候
 様藪内蔵允え被仰付儀候間、申上ニ相成候處、少将様ニ     藪内蔵允→薮家7代・政純 家老職
 は御儉約之砌ニも有之、御物入を被遊御厭候故、御船中
 ニ被為御決置候得共、太守様御厚思召ニ付其御旨ニ被為
 在中國路被遊候旨被仰出候段、為被奉承知申達候條、組
 支配方えも可被申聞置候
   子二月           奉行所
一少将様御國許御湯治御暇之御願書御差出被置候處、先月
 廿四日依召、少将様為御名代細川采女正殿登城之處、御     細川采女正肥後熊本新田藩の第8代藩主。利愛
 湯治御暇之日仰出巻物被遊御拝借、當月四日江府可被遊
 御發駕旨被仰出候段、御到來有之、重疊奉恐悦候、此段
 觸支配方えも可被相知候、以上
   子閏八月十三日       奉行所
一同月四日江府被遊御發駕候段觸出有之候事

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