津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

六曜紋 or 星梅鉢

2010-11-13 17:51:18 | 歴史

 今日は史談会の例会、家老有吉家の初出文書の勉強が数ヶ月続いている。
そんな中、T氏からN家に残されていたというある方の肖像画の提供を受けた。
拝領物と思われる黒紋付には九曜の紋が付いている。水色の裃をつけ、こちらは六曜紋(星梅鉢?)である。右手に扇子を持ち脇差をさして端座、大刀は後ろの刀架けに置かれている。相当の老齢の方で七十代から八十代の人物である。

さて何方だろうか。N家の方にしては家紋が違う。

帰宅して早速細川家家臣の内から、六曜紋のお宅を調べると、これが結構ある。
   ・堀内家 堀内一族のうち、堀内三盛の流れの三家
         赤穂浪士の接待役を勤めた堀内傳右衛門もその一人である
   ・吉見家 北野松梅院を祖とする二家
   ・田中家 田中吉政の弟・氏次を祖とする三家
   ・山田家 五郎左衛門を祖とする二家
   ・塩山家
   ・森崎家

この中からそれらしい人を見つけ出すのは至難の業である。
どうする津々堂・・・・・早々にその旨を報告せねばならない。

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青龍寺は「しょうりゅうじ? せいりゅうじ?」

2010-11-13 08:15:13 | 歴史

 京都府長岡京市に、勝龍寺城の名の由来となった古刹・勝龍寺がある。
住所は勝竜寺とある。開創は古く大同元年(806)、開祖は弘法大師空海だそうな。寺号は恵解山青龍寺、九十九の坊があったという。長岡京市のサイトによると、「大干ばつ大飢饉の年に住職千観(せんかん)上人の祈とうで雨が降り、龍神に勝ったという意味から「勝龍寺」と改名されました」とある。ほかのサイトには962年のことだとあった。

 先にも書いたが、細川家の諸史料は「青龍寺」と書かれていることが多い。弘法大師に敬意を込めてのことであろうか。「永青文庫」は細川護立侯により命名されているが、永源庵の「永」と青龍寺の「青」から、「えいせいぶんこ」となった。
私は勝龍寺にしろ青龍寺にしろ、「しょうりゅうじ」と読むべきだと思っているが、永青文庫の「青」を「せい」と読むならば、青龍寺の読みは「せいりゅうじ」もありなのかと悩ましいことである。

 長岡京市の同寺の紹介サイトに、「平成18年12月には、「ぼけ封じ観音」が安置され、西日本ぼけ封じ三十三ヶ所霊場の第三番霊場で、同じくぼけ封じ近畿十楽観音霊場の第三霊場となっています。」とあった。これは68爺としては、是非ともそのご利益を頂戴したいと考えてしまう。しかしながら、出かけるとなると至難の業で、ぼけは自然の成り行きに任せなければならないようだ。

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