津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川家家臣・梅原家

2009-12-14 11:07:13 | 歴史
 初代九兵衛は柳生家に在った人だが、忠利に請われて細川家家臣となった。嶋原に於いて活躍して知られるが、何と言っても彼の名を高らしめているのは、「袖引き九兵衛」の話であろう。
細川光尚は末期に至り「領地返上」を言い出している。継嗣六丸は七歳であった。これを受けて幕府でもその検討を始めた。三つの案が検討されたとされるが定かではない。

   1、肥後二分案 40万石(六丸=綱利)、14万石(宇土・細川丹後守)
   2、肥後三分案 六丸、宇土・細川丹後守、光尚弟・松之助に三分与
   3、国替え説

 これを受けて家老松井興之は、養嗣子・松井寄之(忠興末子16歳)に梅原九兵衛、備頭都甲太兵衛を付けて江戸へ向わせ、江戸家老・沼田勘解由と共に幕府への折衝に当らせた。老中酒井雅楽頭と入魂であった九兵衛は、老中雅楽頭の袖にすがり刀をのぞかせ、切腹の覚悟を披露したとされる。「袖引き九兵衛」と呼ばれる所以である。
このようなことがあって、光尚の遺領は無事六丸(綱利)に受け継がれたのである。

 このような誉ある九兵衛には、狂人となった息子が在った。あるとき家人が食事を運んだ折逃亡を図り鑓をもち暴れた為、九兵衛は三刀にて切り倒したという。九兵衛も鑓で突かれ、二人共に死亡した。
 長男が別禄を拝領していたが、何の故か謹慎の身であり、その禄を嫡男が継ぎ梅原家は明治に至っている。
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北関始末實記・・番外編

2009-12-14 08:49:38 | 歴史
 北の関で藤田一族を討果した、前川勘右衛門の自裁死は思いがけない結果であった。仇と狙われる精神的重圧に押しつぶされたのであろうか。
「肥後先哲偉蹟」の大木夕岸(兼近)の項に、勘右衛門を仇と狙う藤田氏一族の動向を知る記事がある。彼らは巡見使の一行にまぎれて九州に入り、本懐を遂げようと画策していたらしい。大木氏はその事をどうして知ったのか、又藤田方は勘右衛門の動きをどう察知していたのか。大変興味深い。

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 大木古舎人、家老勤居、在江戸の時、諸國へ御巡検(ママ)御下との儀なり、然るに
 山名十右衛門は、先年南関にて、藤田某を討放され候、此者二子有て、山名をね
 らひしとて誰も知る事なり、右の御巡見の御衆の内の家来に成、紛れ下る由、とこ
 ともなく取沙汰あるを、舎人殿聞付られ、安からぬ事に思ひ、或時不快と號して引
 込、一間に立籠り居られ、家来共も不審に思ひ、心を配りても、様子を見取らず、只
 何ぞ書付など仕ても有之かと存たる計りなり、其日も八半比に、其間より出て、家
 司宇田彌二兵衛を呼て申付けるは、兼て此方様へも懇に御出成れ候、直参の御
 衆、何某殿へ使者を遣候へとの儀なり、彌二兵衛畏り、舎人殿封箱を持せ遣、早
 速舎人方へ、右の御衆御出候へば、又右の所へ御入れ申、家来遠ざけたり、暫し
 て客御歸翌朝又御出、料理を出候て、御噺抔有之御歸、其後も舎人殿不快と申て
 出勤せず、家来共も彌不審に思ひ、病気の様子も見えず、舎人殿身上に事有之、
 不首尾にも有へき歟と、気遣するも理なり、扨十日程過て、宇田を呼び、差向に申
 され候は、今日は必祝の事あり、其方も祝べき事あり、盃すべし、譯は跡より咄べ
 し、料理申付よとなり、扨事済て其方へ盃すべし、近く寄候へとあり、扨今度御巡
 見九州へ御下の衆の家来に紛れ、山名十左衛門をねらひ候者下る由を、取沙汰あ
 り、左候ては、御國元の騒動、公義にも御事多く有之、第一は右の者御國へ抜れ
 下し候ては、我も又届さるようにして、御為ならず思ひ、色々工夫して、此方へ御出
 入の何某殿は、幸御老中衆何某殿へ御出入、殊に御気入にて、御懇の事と承及
 居候に拙者御願申度事ござ候、仔細は此書附にて総労、之を御老中何某殿へ御
 達成し下さるべく候、尤越中守用事にてござ候へとも、越中守へも聞せ不申儀にて
 ござ候、尤以後共、越中守へ少計も御噂下さるまじく候、命を際に仕候ての御願に
 てござ候と申候へば、客申され候は、御申の通、承知仕候得共、此儀は御受合あ
 つと難申候、尤も此の書付の内は、見不申候へば、事の趣意も不存、只取次と計
 の儀迷惑に候、扨又何某殿は、今日出の御事なれば、御埒もよく候へども、夫程
 に御六敷存する事に候へば、御書付届候様、仕済候儀は不知候へども、御命を際
 にと候へば、黙止難く、先持参候、返々内を見申事にては無ござ候、此事御安堵
 候へとなり、扨翌日早朝に、御老中へ参られ候へば、御膳参懸候處に、直に御通
 り候へと有に付、何某殿は、此書付を手に持ながら、御通り候へば、飯を喰ながら、
 是へ々々となり、御側へ御寄候へば、何か書付持参と御申あり、其處にて先何か
 差置、此書付の儀、御尋成れ候間申上候、是は越中守家来、大木舎人と申者、命
 を際に存するとの儀難黙示、尤此趣越中守存候ては、不成首尾にてござ候間、此
 處をも呉々私へ申聞候、御覧成れ不下され候はば、於私も重々忝可奉存候と申さ
 れければ、舎人事は、兼て聞及たる者なり、其書付是へ御越候へと仰らる、是は忝
 とて差出されければ、請取て脇に置、又飯を参り候、右書付は封も切らず、側に置
 れ、其節御覧はなしとなり、御老中より、直に是へ御出、上首尾なりと御噺候、扨
 書付、其願の趣、御老中御取上も無之時は、右之九州御巡見衆、江府發足の節、
 其方へ人數を附、懸り能き場所に出し置、無ニ無三に行列を切りくずし、御巡見の
 御存命候とも、御仁柄替るべし、然ば十左衛門をねらひ候者の、志を遂まじと見え
 たり、如此に致すべきと思込、今日迄様子を伺ひ、不快と云て有しが、宣石留守居
 廻状来るを見れば、御巡見衆、今度諸國へ下候に、敵持たつ者抔、堅く召連申さぬ
 様に、念を入吟味遂べし、若相違の儀も候はば、曲事たるべしとの儀也、然ば右の
 書付願の通、埒明に依てと知たるなり、さすれば、拙者も其方も、命を拾ひし心地な
 り、知し召されざる儀ながら、上へも御安堵の御儀、旁以て今日の心祝は、大切な
 る故と申され候、陪臣公義に事を届け、天下の定儀を引替たること、気量と云べし、
 是は舎人殿、宇田彌次兵衛へ密々咄され、両人の外知る人なし
                            (見聞雑誌)
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