津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■禅定寺脇の都市計画道路工事始まる

2023-08-30 10:11:48 | 歴史

 我が家には菩提寺が二つある。その一つが横手の禅定寺だが、ここには曽祖父・又太郎一家と絶家した三男の一族のお墓がある。
曾祖母は上田久兵衛の嫡女・晩稲だが、その実家上田家のお墓が禅定寺の西北の角に存在する。
禅定寺の西側を都市計画道路が走っていて、工事が始まれば上田家のお墓も心配された。
禅定寺はいわゆる歴史墓がたくさん残る。
禅定寺を興したとされるのが加藤清正の家臣・並河志摩守だが、そのご子孫s女史が史談会の会員だった。
政治力のある方で強烈な反対運動の先頭に立たれ、これが効を奏して県知事が現場確認に訪れるなどして、その都市計画道路の路線変更されることになった。もう10年ほど前のことである。
上田家のお墓も難を逃れた。
難を逃れきれていないのではないかと心配されるのが藤村紫朗のお墓や、剣客・雲林院弥四郎などである。
その工事が始まったと聞く。

 藤村紫朗は山梨県縣令などを務めた人物だが、旧姓は黒瀬氏である。寺原家鴨丁で黒瀬市左衛門の二男として生まれた。兄は市郎助という。
いわゆる横井小楠の「市道忘却事件」の舞台となった、江戸留守居役・吉田平之助別宅で都築四郎や小楠が酒宴を開いている処を、この黒瀬市郎助等が襲った。
事件の詳細はここでは触れないが、黒瀬は逃亡し、吉田の嫡男・傳太は敵討ちの苦しい旅を重ねる。
黒瀬は四国松山で捕獲されて熊本藩領・豊後鶴崎に護送された。
その時の顛末を我が家の曽祖父・又太郎安正が「吉田傳太復仇一件聞取帳」「 吉田傳太復仇現聞録」として書き遺した。
覚悟した黒瀬市郎助は立ち向かう事もなく、吉田傳太のもとに首を討たれた。
吉田家の墓前に市郎助の首が供えられたが、市郎助の母親が訪れて「その首にはもう用がないでしょうから、持ち帰ります」といって持ち帰ったという。
その首は、弟・藤村紫朗のお墓の隣に在る黒瀬家の墓地に埋葬されたのであろう。

市郎助を訊問している又太郎と、その市郎助のお墓は100m程しか離れていない。
禅定寺西側の、都市計画道路の工事が始まっと言う話を聞いて、黒瀬家のお墓はどうなるのだろうかと心配をしている。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■実学党坪井派の長岡是容死去に際しての、沼山津派・横井小楠の想い

2023-08-30 06:51:20 | 歴史

 実学党の巨頭、家老・米田監物(是容)と横井小楠の決別は安政2年(1855)の頃だとされる。
その原因は「大学の道は闘徳を明らかにするにあり、民を新にするにあり」の解釈上の相違であった。
攘夷論者であった監物と、開国論で対した小楠は修復し難い亀裂を生み「絶交」した。
この時期からそれぞれの住まいの地の名により、小楠は沼山津派(新民派)を形成し、監物は下屋敷がある地名から坪井派(明徳派)を形成した。

 それから過ぎる事6年後の安政六年八月十日に監物は死去した。
福井に居た小楠に対して「下津久也・荻角兵衛」が訃報を届けた。これに対する小楠の書簡が残されているが、遺族に対しては「絶交中」であることを理由に、弔問する仔細はないと述べている。

  (前略)然ば八月十日に候哉監物殿被致死去候段申参驚絶仕候 扨々人事不定吉凶變態總て以外に出
                              あいだちがい
  申候 於御両君別て御痛情之程奉察入候 小生事御案内之通り近年間違に相成候儀は唯々意見の相違に
  て其末は色々行き違に相成時としては何やらん不平之心も起り候へ共於全體舊相識之情態替申様も無
  之 平成之心は依然たる舊交したはしき思を起し候事は於彼方も同然たるべきかと被存候 況哉千里之
  客居にて此凶事承り 不覺舊情満懐いたし 是迄間違之事總て消亡唯々なつかしく思はれざる心地に相
  成落涙感嘆仕候 誰之歌にて候哉
    あるときはありのすさみににくかりきなくてそ人は戀しかりける
                       長岡家
  心情御推察可被下候 本より絶交之事に候へばニノ丸に弔詞申進候子細無之 御両君迄心緒拝呈候 過ぎ
  去りし人は呼べども不可返(以下略)
     十月十五日          平四郎 

心情あふれる書簡にほっとさせられる。                      

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■幽齋公の御命日

2023-08-20 08:18:20 | 歴史

 今日は、幽齋公(藤孝)のご命日である。没年は慶長十五年(1610)八月廿日である。
細川家記は「京都天授庵及び小倉に葬る。肥後入国の後分骨を立田山に移し、寛永十四年七月十一日寺を建立して泰勝寺と号す」と記す。
13年前、その泰勝寺跡で細川家主催の「幽齋公400年祭」が催されるに当たり、細川家から「300年祭」が催された際の出席者名簿が送られてきた。
幽齋公に関係ある「勝龍寺以来」「田辺城籠城衆」のご子孫の方々だが、その後3世代程あとのご子孫を調べ出すには大いに苦労奔走した事を思い出す。

11月7日、25家のご子孫が集合されて、「幽齋公400年祭」は滞りなく開催された。
前日、ご準備で忙しくされている中、佳代子夫人にお目にかかり、ご報告を申し上げた。
のちに集合写真を拝見して、その当時の苦労がいっぺんに吹き飛んだことを思い出す。今年で幽齋公没後413年になる。

        集合写真2

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■江戸時代の貨幣表示「分」

2023-08-20 06:15:37 | 歴史

 「分」という貨幣表示がある。金であれば「分」は「ぶ」とよみ4分をもって一両とする。
「銀目」に於いても「分」があるが、これは銀1匁の1/10を1分、こちらは「ぶん」と読む。
金1両=銀60匁(600分)=銭4000文だから、銀1分は銭では6.7文ほどとなる。

 さて東京に三分坂という急坂がある。かっては「さんぶ坂」と呼んでいたらしい。
昭和45年発刊の「江戸の坂東京の坂」という本によると、当時はまだそう呼んでいたのだろう。
著者・横関英一氏によると、余りにも急阪であるため荷車を押す人夫賃を「三分(さんぶ)」余計に払わなければならない処からこの名がついたという。
そうだとすると、金の「さんぶ=金三分」ではべらぼうに高く、銀の「さんぶん=銀三分」が正当なところだから「さんぶん坂」と呼ぶべきだと主張される。
落語「時蕎麦」のニ八そばが16文だというから、3分=20文は妥当なところだろう。
下の写真を見ると「SANPUN ZAKA」と表示されている。過ちて改むるに憚ることなかれである。
           三分坂 | 東京とりっぷ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■1900年という日の今日

2023-08-14 05:37:41 | 歴史

 50年とか100年刻みでその年に起こった主な事件を覚えるというのも、歴史を親しむうえで大いに役立つように思える。
そんな中で、1900年と言うきりの善い年の今日という日は、日本をはじめとする八ヶ国連合軍が北京に入城して、義和団の乱が終結した記念すべき日である。
祖母の叔父に当たる狩野直喜は北京留学中に事件に巻き込まれて、柴五郎中佐らと行動を共にして籠城している。
二列目中央の軍服姿の人物が柴五郎、右から二番目が同時に留学した二人のうちの一人服部宇之吉、その左隣が狩野直喜である。
狩野直喜には「服部先生の思出」という小文が残されている。

                               

 柴五郎は会津出身、石光真人編著の「ある明治人の記録・会津人柴五郎の遺書」に詳しいが、会津城落城にあたっては祖母・母・姉妹が自刃するという辛い過去を背負いながら軍人の道に進んだ。
この事件に於ける柴中佐の沈着果断の判断は、大変称賛されて会津出身者として陸軍大将迄上り詰めた人である。
会津陥落後の斗南に於ける会津人の苦労も、庄内藩に対した西郷の温情とはかけ離れた過酷なものであり、今もって心からなるわだかまりは解けないと聞く。
上記の著を手に取ら一読されることをお勧めする。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■難儀な護久時代の幕開け

2023-08-10 06:20:23 | 歴史

 幕末期、熊本藩主細川韶邦は、将軍家慶から拝領した御名「慶」から長く「慶順」を名乗って来たのを、「韶邦」と変えたのは、慶応4年(1864)4月23日であり、新政府側に与する意思を示すためであった。
しかし、明治3年5月8日には隠居を余儀なくされた。これは実学党の人物らによる京都に対しての働き掛けによる、一種のクーデターともいえる。
跡を受けた護久とその弟・護美らも承知の上だと考えるのが妥当だと思われるが、残念ながらこれに関しての知見はない。
護久は明治四年の正月鳥羽伏見の戦いをつぶさに実見しており、洋式兵法の確かさを実感し帰国後護美とともに熊本藩内の洋式化を目指すがこれは屯と前進するものではなかった。
これは攘夷論が沸騰する中での、洋式化は倭式の各種武術師範家の抵抗や、旧守派の大形の反対を受けている。
それでも練兵場が設けられ訓練が義務付けられたが、参加者は芳しくなく、後には主に軽輩の士卒が多数を占めることになった。
当時の軍政御用掛で兵法師範役の上田休兵衛は「六備の内の一備」だけを特に訓練させてはどうかと、折衷案を出している。
まだまだ、肥後の維新は遠く感じられる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■本能寺からお玉が池へ ~その⑯~ 

2023-08-02 06:46:36 | 歴史

 この資料をお贈りいただく東京調布深大寺の吉祥寺病院のDr西岡先生は明智光秀のご子孫である。
その先生がお勤めの病院に小木貞孝先生も長く務められた。著名な作家・加賀乙彦氏である。
令和5年1月12日天に召された。1987年洗礼を受けられたクリスチャンである。そんな小木先生を悼みながらの書き出しです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

  吉祥寺病院・機関紙「じんだい」2023:7:20日発行 第72号            
     本能寺からお玉が池へ ~その⑯~              医局・西岡  曉


 何処の野山も浦も里も、万緑に輝く夏になりました。夏はまた、日が長いので夕焼けの季節でもあります。ですが、正岡子規や高浜虚子
の時代にはまだ(?)夕焼けの季語はありませんでした。それが今では俳句雑誌「ホトトギス」同人が夕焼けを季語に詠む時代です。

      素晴らしき夕焼けよ 飛んでゆく時間  (嶋田摩耶子)

 どれ程「素晴らしき」「時間」を刻んだとしても、佳き日々はあっというまに「飛んでゆ」き、どんな花も人も必ず「散りぬべき時」
を迎えます。
 年明けに我等が(?)加賀乙彦こと小木貞孝先生が帰天されて早半年になりましょうか?小木先生は「加賀乙彦自伝」でこう語られてい
ます。「私の洗礼名はルカで、・・・私がルカを選んだのは、福音書を書いたルカは医者で、私は作家専業となってからも、ずっと医者を続け
る気持ちがあったからです。・・・当時もいまも、ある私立精神病院で定期的に患者を診ています。」
 そう、小木先生が「ずっと医者を続け」られた「私立精神病院」こそ、ここ吉祥寺病院なのでした。
そこで、この夏「じんだい」は、小木先生を偲ぶ特集を組んでいます。ですから、こちらでも小木先生に関わるお話を致しましょう。
小木先生が1929年(昭和4年)に誕生した処は、お母様の実家の野上病院(現存しません。@港区三田2丁目)ですが、小木家の住まいは旧加賀藩主・前田家の屋敷内(こちらは別邸@新宿区歌舞伎町2丁目で、お父様の生家は本邸⦅ご存知かもしれませんが、その時代前田家本邸は東大本郷キャンパス内。1930年に現在に都立駒場公園に移転⦆)でした。
お祖父さまの代まで小木家は代々加賀藩士だったからです。ですから小木先生は、学生時代から東大病院時代の15年の間毎日のように(西久保から本郷へと)二つの前田屋敷(跡知ではありますが、)を行き来されていたことになります。
その15年の間先生は、何時も赤門から東大構内に入られました。その頃鉄門はまだ(?)再建されていませんから(2006年再建)、通りたくても通れません。尤も鉄門は、先生が通学通勤に利用されていた都電の通りからは大分離れたいますから、再建されていたとしてもやはり通ることはなかったでしょう。
 ご存じないかもしれませんが、「都電(=東京都電の略称)は、1903年(明治36年)開業の私鉄「東京電気鉄道」を前身とする都営の路面電車で、今は荒川線一か所しかありませんせしたが、1960年代までは都民の足として都区内中(約80路線)を走り回っていました。「加賀乙彦自伝」によれば、「新宿の自宅から本郷の東大まで都電で通っていました。いまの歌舞伎町2丁目ー昔の西大久保ーから13番線の万世橋行きで松住町まで行き、そこで19番線の駒込行きの電車に乗り換え、赤門前で降りる。」のだそうです。「松住町」(現・千代田区外神田2丁目)は、神田川西岸の町で、そこから1㎞ほど下流には「和泉橋」があります。和泉橋の北側は「お玉ヶ池種痘所」が再建された処であり、幕府の直轄になって種痘所が移転した藤堂藩上屋敷があった場所です。その対岸(南岸)には大昔、「お玉ヶ池」が水を湛えていました。

 小木先生が卒業された東京大学医学部は、「お玉ヶ池種痘所」として「創立」された医学校です。(ここま迄何度も述べたように)「・・・種痘所は東京大学医学部のはじめにあたる」(「お玉ヶ池種痘所記念碑」)のです。東大になってからも医学部は、お玉ヶ池種痘所の正門に因んで「鉄門」と呼ばれました。
 大学を卒業した先生が入局(当時「臨床研修制度」はなかったので、卒後すぐ各科医局に入局した。)した東大精神科の教授は内村祐之(1897~1980)でしたが、先代教授は三宅鑛一(=御玉ヶ池種痘所発起人・三宅艮斎の孫
)です。また先生の祖父の先妻(なので、血縁はありません。)の妹は、[10]に登場した(「味の素」の素?)池田菊苗の妻で、その父(なので、系図上の曽祖父)・岡田棣(なろう・1836~1807)は、加賀藩士(高岡町奉行、軍艦奉行・大参事)で1803年(文久3年)に藩校・壮猶館(そうゆうかん)に入学した人です。[10]で述べたように、三宅秀は1867年(慶應3年)にその壮猶館の翻訳係に就きました。(岡田様はその頃分館奉行でしたので、三宅秀との出会いななさそうです。)小説「帰らざる夏」は、「三島批判」であると「同時に追悼」でもあるそうですが、三島由紀夫の曽祖父は、壮猶館の漢学教授・橋健堂です。

              
                                         壮猶館
                                  出典 いしかわの文化

 小木先生は、芭蕉さんの愛読者でもあります。「わたしの芭蕉」という著書で、「芭蕉は、美しい日本語の世界に遊ぶ楽しみを私に教えてくれた。」と書かれています。先生自身の最期の言葉は判りませんが、この本の中で芭蕉さんの最期の句
   旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る (芭蕉)

 について、こう書かれています。
「一度読んだら忘れられぬ温とか寒とが、この句に充満し、不思議な力を発散している作品である。芭蕉の死後も、いつまでも忘れられぬ、永遠に生きる句である。」
 小木先生はまた、ご自身がクリスチャンあるためか「宣告」、「高山右近」、「殉教者」等クリスチャンが主人公の小説を幾つも書かれています。そんな先生は、最後に(?)ガラシャの小説を書く意欲を示しておられました。加賀乙彦の「ガラシャ」が書かれていれば、きっと「永遠に生きる」作品になったことでしょう。

[19] 一橋、本郷
 さてここからは、前回の続きです。
徳川幕府の洋学所「蕃書調所」は、1862年(文久2年)に「洋書調所」となって護持院ヶ原に移転しました。その頃の護持院ヶ原は、福沢諭吉によれば「大きな松の樹などが生繁って居る恐ろしい淋しい処で、追剥でも出そうな処だ」(「福翁自伝」)つたようです。
「洋書調所」はその後「開成所」、明治維新後は「開成学校」、「東京開成学校」と名を変え、1877年に「東京大学」が開学すると、その法・理・文三学部に発展しました。洋書調所がイギリスに発注した洋書の納入時に幕府(は既に崩壊していたので)には資金がなく、外国方・田辺太一に相談された三宅艮斎の計らいで(三宅を介して、非常に欲しがっていた福澤諭吉の先を越す形で)加賀藩が購入することになりました。
 元「護持院ヶ原」の「東京開成学校」の跡地(現・学士会館@千代田区神田錦町3丁目)に「我が国の大学発祥地」碑が立っていますので、読んでみましょう。
「当学士会館の現在の所在地は我が国の大学発祥地である。・・・明治10年(1877)4月12日に神田錦町3丁目に在った東京開成学校と神田和泉町から本郷元富士町に移転していた東京医学校が合併し、東京大学が創立された。創立当時は法学部・理学部・文学部・医学部の4学部を以て構成され、・・・法学部・理学部・文学部の校舎は神田錦町3丁目の当地に設けられていた。・・・この地が我が国の大学発祥地すなわち東京大学発祥の地ということになる。」
 この碑文にある1877年4月に「東京大学がそうりつされた。」と言うのは、正確には医学部以外の三学部(現在の東大は、医学部を含めると10学部あります。)についてです。東大医学部の創立は8先ほども述べたように、)「お玉ヶ池種痘所」の創立だったのですから、東京大学医学部の創立は、(多学部より9年早い)「1858年5月7日」と「定め」られているのです。
 東大医学部は、江戸時代の創立時には「お玉ヶ池種痘所」で、通称「鉄門」と呼ばれていました。明治維新後お玉が池種痘所は、医学校兼病院、大学東校、東京医学校、と何度か名前を変えて、「東京大学医学部」になったのですが、その20年の間も通称「鉄門」は変わりませんでしたし、そればかりか、今日もなお「鉄門」と呼ばれています。(そのことも、昨年[9]で述べました。
 それに対して、東大開学時の(法・理・文)「三学部」は、洋書調所
、(洋書調所が改称した)開成所、東京開成所、があった一ッ橋の護持院ヶ原に開学したので「一橋」と呼ばれました。[10]で三宅秀が福澤諭吉に叱られた「一つ橋の大学」です。1885年(明治18年)に「三学部」が一橋から本郷キャンパスに移転した後は、「一橋」の名を「東京高等商業学校(現・一橋大学)」に譲ったので、医学部以外の学部の通称は無くなってしまいました。仕方がないので(?)「赤門」と呼ぶ方もいらっしゃいますが、赤門は本郷に医学部しかない頃からありますし、東大開学時には医学部(だけのしかなかった)の通用門でした。赤門は医学部にに行く時にも通れますので、(東大全学であればともかく)「医学部以外の学部」を指すのに相応しいとは言えません。(東大関係者でなければ、どうでも良いことかも知れませんが、)困ったものです。
 東大医学部の公式サイトにも、赤門との関りが書いてあります。
「東京大学の赤門は、明治9年(1876)当時東京医学校(現東京大学医学部)が下谷和泉橋通りから本郷の現在地に移り新しい大学と病院の運営が始まり、明治17年(1884)他の学部が本郷に移るまで医学部の門として使われていました。赤門は、文政10年(1884)江戸時代の有力大名の加賀藩主前田家が、前田斉泰(なりやす)に嫁いだ11代将軍徳川家斉の娘溶姫のために建てられた朱塗りの御守殿門です。当時、大名の子息が将軍の姫君と結婚するとき、花嫁のために赤い漆を塗った門を建てる習わしとなっていました。また、この門は武家屋敷の門の中でその希な様式と美しい表現が認められ、現在国の重要文化財に指定されています。」
 前田斉泰(1811~1884)は、前田利長(利家の嫡男)を初代とする加賀藩の12代藩主で、溶姫の輿入れのために江戸屋敷に赤門を建てて27年の後、地元・金沢に洋学所・壮猶館を創設し、その更に13年後、その壮猶館に三宅秀を雇い入れた人です。後年三宅秀が赤門の(? 本当は鉄門の)東大医学部の最初の学部長になったのも不思議な御縁ですね。
 話は変わって、東大工学部鉱山学(現・システム創生学)教授・山口吉郎(1892~1988)は、俳号を青邨(せいそん)と称する「ホトトギス」の同人です。工学部は赤門より大分北寄りなので、普段は正門を使っていただろう青邨は、赤門の句を幾つか詠んでいます。

    赤門は古し 紫陽花も 古き藍  (山口青邨)

 

          
          我が国の大学発祥地                        東大赤門        

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■通潤橋建設費の藩借入金の返済の行方

2023-07-31 06:39:12 | 歴史

 先に■藩債処分という大盤振舞いを書いたが、各藩の負債1/3は切り捨て、2/3は明治新政府が引き取って長期に返済するという驚くべき話である。
そして藩主は実高の1/10を頂戴するというのだから、藩主の権利をはく奪されるとはいえ抵抗の余地はない。
一方では当時、藩には貸金が当然存在しているが、これはどう処分されたのだろうか。

 例えば、嘉永~安政期、矢部手永の惣庄屋・布田保之助が計画立案して、矢部の白糸地区の灌漑の為に造った「吹上臺目鑑橋(通潤橋)」は、「町在」の史料に在る決算報告書によると、総額 銀・711貫306匁という膨大な費用が掛かっているが、藩が383貫306匁(約54%)を融資していることが判る。

某ブログで「通潤橋資料館」は「橋本体工事費銀319貫400匁6分、付帯工事費銀375貫403匁2分、(計・694貫803匁8分)現在の金額に換算すると、通潤橋建築費が約17億5千万円、付帯工事である水路の建築費が約20億6千万円ですね。付帯の水路工事がいかに大変だったかが分かります」とし、総事業費として現代に換算して38.1億と試算している。
「町在」の資料との誤差は、「諸間拝借などの利払い=16貫496匁8分」が入れられていないことによる。
銀60匁=1両だから115,800両、即ち1両を32,900円ほどで換算しているが、1両の換算値が妥当かどうかは疑問である。
この時期の米価からすると10,000円もしくはそれ以下とされるが、大工・石工の日当から算出されているのかもしれない。


 この大事業は、布田保之助の綿密で巧妙な計画で事業計画書が作られ、これに郡代の上妻半右衛門が全面的に助言協力して郡奉行に提出されている。
大奉行から家老の決済を得て巨大な融資を受けた。

この灌漑のための通水施設を持つ橋の完成で、白糸地区の米の増収は驚くべき結果を生んだ。
そして返済資金は一部の田畑がその為に充当されている。「新井手修繕料開」として返済用の徳米12.8石余を確保している。布田保之助が考えた妙案である。

この徳米をもって50年賦位で返済しようとしたらしい。
通潤橋の完成は1年8ヶ月という短時間で、嘉永7(安政元年改元・1854)年8月に完成しているから、50年と言えば1904年に突入する。
明治も37年であり、県の債務として引き継がれたのだろうか?この辺りに触れた史料が見当たらない。

 一方自己資金である矢部手永の会所官銭の返済も同時並行で行われている。約18億円と言う膨大な金額であるが、これがいわゆる一分半米の蓄積であるということからすると、この課税が農民にとっては大変負担であったことはうなずける。
明治三年に熊本に到来した維新の中で、熊本の実学党政権は上米やこの一分半米などの雑税を免除して農民の喝采を受けたが、これが近隣諸所の一揆を誘発する原因となり、中央政権の進出を余儀なくし、政権崩壊となったことは皮肉である。
この会所官銭は新政府により、旧手永管理から郡に移され「郷備金」と名前を変えるが、明治10年に至ると西南役勃発に呼応するようにこの「郷備金」の返還を求める農民一揆がおきている。
熊大永青文庫研究センターの今村直樹准教授の「肥後藩の「遺産」相続争いー肥後の民衆と郷備金」に詳しい。
この郷備金は一部村民に返還されたが微々たる金額であり、相当額は新政府の収納する処となり、後には裁判となったが返還されることはなかった。
通潤橋建設に関わる旧藩からの借入金の返済などがその後どう解決されたのかは承知しないが、明治三年にやってきた熊本の維新政権が解決しておくべき重大案件であったように思える。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■「開結」でご大身

2023-07-26 08:02:04 | 歴史

 「開結」という難しい言葉がある。「御赦免開で開発した開地(開墾地)を藩に差上げて知行高に繰り込むこと」をいう。
細川家の表高は54万石の侭だが、この開結によって藩の実高は増加したことになる。
元禄九年・寺本兵右衛門が552石もの「開結」をしたという記録が残るがこれが一番か?
単純に1石を収穫する為の農地面積を1反とするなら、552反(165,600坪)を開墾したという事になる。
膨大な労力を費やしたことになる。

宝永六年には一村家3代目の200石・弥三兵衛が420石を開結して一気に家禄が増加した。
  3代・弥三兵衛  御詰衆・四番横山藤左衛門組 二百石 (御侍帳・元禄五年比カ)
            開結四百二十石(村数五拾ケ村)を知行として願い出・・・地方宛行とした
                         (松本寿三郎著「近世の領主支配と村落」p292)
620石取りとなった一村家は弥三兵衛の息・市郎兵衛の代にいたり宝暦六年には鉄炮廿挺頭になり、更に「天明八年十一月(三拾挺頭)~寛政二年二月(依願免)鉄炮五十挺頭」となっている。
開結による家禄の増加が御役をもたらしたことが判る。処でこの「開結」は何故か享保年間には禁止されて、家禄を増やすという事はなくなっている。

一村家は天草島原の乱に於いては細川家家臣ではなく、浪人者として参陣しているが大きな働きが認められて召し出しとなっている。
綿考輯録(巻五十)は、その一村家召し出しの経緯を次のように記している。

    有馬にて手首尾能働候、熊本ニて浪人御振廻之節弥三兵衛ハ洩候処、即晩為御内意
    今日ハ思召有之候而之事也 御国を出候体ニ仕御国内ニ居候へと御懇之御意有之、諸
    浪人不残罷立候跡にて有馬之功を以弐百石拝領

 


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■村上景則離国

2023-07-20 08:20:24 | 歴史

 細川忠興の死後の八代の情勢に対する光尚の神経質的な行動は、過去にも何度か触れてきたが、丹羽亀丞の「松江城秘録」等で知られるように徹底している。
特に最側近・長岡河内(村上景則)の、三斎遺言の実効を計らんとする行動に対する嫌悪感である。
結果として、三斎と光尚の父・忠利の間で交わされた八代支藩創立は反古となった。家老松井興長を八代城主として入城させ、細川行孝は宇土の地に宇土支藩の創立で決着せしめた。
幕閣と周到な打ち合わせが為された結果であり、当の松井興長にも事前に知らせなかったと綿考輯録は記録している。
光尚は、村上景則には扶持を与えて隠居を進めたが、これを拒否して離国している。その返事ともされるのが以下の「御請」とする書簡である。
村上水軍の末裔である景則は、父・隆重と二代にわたり忠興に仕え、戦場で功名を上げ10,000石を知行せられてらだひたすら忠興→三斎の代に仕えた。

                      御請
          一妙解院御代ニ私参上申間敷と申上候儀、 公儀
           御奉行衆も御存候ニ、今更熊本江被 召出候儀も
           不被為成被 思召候、又私参上仕儀も不成儀ニ御
           座候由 御諚御尤ニ奉存候事
          一妙解院様御代ニ私参上不仕わけ色々御座候得共、
           事永ク御座候間、有増申上候、 三齋様私ニ御懇ニ御
           座候故、小倉ゟ中津江御隠居之刻、せめての御奉公ニ
           御隠居之御供仕、御一世者御奉公仕度奉存候、御
           手せばニ被為成候間、縦御そうり取御一人之御仕合ニ御
           座候共、其御さうり取を仕可申覚悟ニ御座候由申上、御
           供不仕申候間、 妙解院様江不参不仕候事
          一御合力可被 仰付候条、御國之内何方ニも罷居、宮松殿
           御見舞申候様ニと 御諚之通忝奉存候、如何様共
           御諚次第ニ可仕儀ニ御座候得共、御奉公も不仕候ニ御恩を
           いたゝき申候儀、如何ニ奉存候間、御暇被下候者忝可奉
           存候、此等之旨宜被仰上可被下候、以上

                  七月廿日 長岡河内守 花押・印

              長岡(沼田)勘解由殿
              丹羽亀丞殿

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■赤子の旅

2023-07-19 08:28:12 | 歴史

        一猪八郎様來ル廿二日五時の御供揃ニて、此元御發途之筈ニ候、
         此段觸之面々えも知せ置可申旨御用番被申聞候條被奉承知、
         觸支配方有之面々は可被相知せ置候、以上      
            文化六年巳七月十九日    御奉行中

猪八郎君とは齊茲の五男、文化六年三月十八日に誕生された。僅か四ヶ月ほどしか経過していない中で江戸へ下られたが、赤児の旅は無理というものだろう。
案の定というべきか翌七年十二月廿九日二歳で江戸で死去している。

生母は松岡氏女・為のち春、二男三女を為したがすべて二歳以下で夭折している。熊本生まれ2人、江戸生まれ3人、つまり齊茲公はこの側室を伴って参勤されていることが判る。
この間、他の側室が子を為されることはないところをみると、お気に入りの側室であったのだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■内分とか分知とか・・・

2023-07-19 06:41:56 | 歴史

 ある資料を読んでいたら、「分知或内分奉願候儀・・・」とある。「内分分知」と言う言葉があるが、この資料によるとどうやら、内分と分知は違うもののように思われる。
例えば細川家においては、宇土細川藩と細川新田藩がありこれは内分分知だとされる。本家の表高54万石は変わらない。
そこから考えると「分知」とは、表高を分けるという事だろう。

 細川家家臣のお宅をみると、弟や二三男に自らの禄を分け与えて新家を創家している例は多く見受けられる。
これがいわゆる分知ということだろう。分知したことにより本家の禄高は当然減少する。
そして上記資料を見ると、分知する主が弟に300石分知すると当主は1,700石になり、2,000石の役職には就けないという指摘である。
「大身之面々茂おのつから小身ニ罷成其上重キ御役儀被仰付候儀茂差支候・・」とする。
役高相当の家禄がなければ、「良い役職には就けませんよ」と言う話である。そういう決まりが存在した時代がある。「それでもよければ500石を限度にどうぞ」と規定した。これは当然高禄のお宅でしか通用しない話である。
しかしそれ以前、500石と言う限度がない時代は、親族のH家(200石)は弟に80石を分知し、自らは120石取りとなり両家は明治を迎えている。
役儀にはこだわらかったのだろう。

 しかし宝暦の改革が行われると、優秀な人材の登用が行われ始め、先の決まりは反古となり禄高に関わらず重要な役儀に着くようになってくる。
200石位の人が、500石・700石の役職につくようになる。そうすると、役高と家禄の差については「足高(たしだか)」と共に「役料」が支給されるという現実的な手法が取り入れられた。
優秀な人材が新たな時代を作っていくとともに、家禄の大きなお宅の当主が「重き御役儀」にありつけないという状況を生んだ。

 一つ引っかかっているのは、■藩債処分という大盤振舞いで触れた件である。
細川本家は表高54万石だが、宇土支藩3万石、新田藩3.5万石を分知しているから実高70万石からすると63.5万石が対象になるのではないかとも思えるが、これはどうやら表高が対象であり本家がすべてを受領したものではないのか。
そして内分分知高相当分が、本家から渡されたと理解しているのだが如何であろうか。
御承知の方のご教示をいただきたい。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■藩債処分という大盤振舞い

2023-07-18 06:35:21 | 歴史

   読書連鎖がまだ続いている。

 明治二年六月の版籍奉還(大名が治めていた土地(版)と人民(籍)を朝廷に変えさせるという政策)にあたり、領主権を奪われる旧藩主については、その藩の禄高の10%が与えられた。
それも表高(54万石)ではなく小物成などを含む実高が基準になったというから、細川家に於いては70万石とか75万石とかの1割を受け取けとられたか?(詳細な史料が見当たらない)
あるデータによると幕末期の米の値段は、「(江戸の米) 1 石(150 ㎏) 慶應二年秋では銀 585 匁、約 99.450 円」とあるから、約70億円をもらえることになる。
一方では、各藩には膨大な借金が有り、これが頭の痛い問題であった。近い時期においても明治元年新政府は陸軍の編成の目的で諸藩に万石当り300両の納付を指令しているから、熊本藩に於いては1,620両を拠出したことになる。
はたしてこの金額はどこから賄ったのだろうか。

「読書連鎖」の中で読んだ、大石慎三郎著「江戸時代」に、私が長年解決しえなかった「藩債処分」についてほんの少し触れられていた。

 明治四年七月の廃藩置県(江戸幕府以来の藩を廃止し地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革)にあたり、新政府はそれまでの幕藩体制にとどめを刺すため、旧藩の不安や不満を抑えるために各藩の債務を一部廃棄、その他は明治政府が肩代わり返済するという驚くべき手に出ている。
その総額は3,600万両だと大石氏は指摘される。その内の約1/3は破棄、その他については新政府が返済するというのである。
破棄された1/3の債務は天保14年以前のもので12,000両だとされる。驚くべき債務が一気に免除された。
そして、発足時の新政府の収入は120万両だとされる。どうやって返済していったのか、大いなる疑問を今後勉強していこうと思っている。

 これらの説明の記述の最期に大石氏は、旧藩主にとって「現石の10%の家禄を保証されたうえ、旧債一切を明治政府が引き受けてくれたということは、領主権の喪失にひきかえても、なお維新変革は領主たちにとって笑顔でむかえいれるべき慶事であったということになる。領主階級は維新変革による被害者ではなく利得者なのである。」と記しておられる。
薩長土肥による維新の大業に乗り遅れたとされる熊本藩は、賞典禄こそ得ることは出来なかったが、細川護久は3000両の賞典金をもらっている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■細川ガラシャ(明智 玉)忌 ー つづき

2023-07-17 08:43:59 | 歴史

                

 熊本県立美術館で開催された「細川ガラシャ」展の図録は、ガラシャの生涯を知るのには一等の資料である。
ガラシャが書き遺した書状は17点が確認されている。

 ガラシャの書状の特徴は、宛名の下に「た・多」と書かれているが、これはガラシャの名前・たまからきている。

例えば三宅藤兵衛に宛てた書状には「そつ(帥=幼名)まいる より
                              」と書かれている。
書状の多くは松本小侍従という女性に宛てたものだが、これは忠興の命により松本因幡に嫁いだ人物だが、名前は判明していない。「まつもとないき(松本内儀)」という宛名も見え、小侍従が結婚後も親密な書状のやり取りがあったことを伺わせている。
これ等の書簡は「松本文書」として、国立国会図書館が収蔵している。

 その他宛名に、「そうしゅんさま」「ひこのしん□」「ゑもしさま」等があるが、「ゑもしさま」は忠興のことである。これらすべてのあて名の下に「」と記されている。
ただ一点「ただおき殿」宛の書状があり、これだけは「からしや より」と記されている。
玉がキリシタンである事を細川家史料が秘匿しようとする中、大いに注目すべき貴重な書状である。
ただし、内容は誠に穏やかな家族の平安を知らせるものである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■ツツミ様のご教示

2023-07-11 06:49:11 | 歴史
 菊池寛の小説に「忠直公行状記」がある。その史料になったであろう「片聾記」という史料が存在する。
それを知ったのは約19年前、唐木順三の「千利休」を読んでいたら「福井県立図書館から藩の裏面史「片つんぼ記」なる本が出版されそれを購入したとあったことに始まる。
何だこれはと思い、福井県立図書館に電話をしたら、「片聾記」でありそのようなよみかたではなく「へんろうき」と読みますとお教えいただいた。そのことをブログに書いたら、いろいろコメントをいただいた。
4年ほど経過した2008年7月、HN「ツツミ」様からコメントをいただいているが、氏とのお付き合いはこれが始まりだったようだ。
それ以来度々コメントを頂戴し、いろいろご教示をいただいている。

先に「■可惜人生を棒にふる」越後騒動について少し触れた。この事件に連座した小栗美作の弟で遠島となった小栗兵庫の年端もいかぬ幼い子供たち四人が細川家に預けられ、二人は夭折、残りの二人は四十年にも及ぶ拘禁生活をすごした。
越後高田藩主・光長の後継者争いのよるものだが、遡ること55年ほど前、その光長の父で家康の次男結城秀康の嫡男・徳川忠直の狂気に満ちた事件によりその忠直は豊後国へ配流となった。
これが菊池寛の小説になった。
夫人勝姫の父・秀忠により隠居を言い渡され豊後国(大分市萩原大分市津守)に流されたが、それまでの狂気に満ちた行いは、付き物が落ちたようにように穏やかに過ごしたという。
ここで生まれた男子二人は、忠直の嫡男・光長の許に帰国して仕えたが、こちらでは越後騒動が起きた。
大分で生まれた忠直の二人の男子の下の子・永見太蔵が小栗美作の非を訴えたのが、後の越後騒動の始まりであり、これも罪を得て配流となった。

 そんな、忠直の大分に於ける状況についてツツミ様から数度にわたりコメント頂いているが、コメント欄にうずもれたままでは申し訳なく思い、御承引をいただきここにご紹介する。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

■Unknown (ツツミ)
2019-07-12 21:46:16

こういう本が出ていたんですね。今度図書館で読んでみようと思います。
中日新聞で連載されていたもののようですが、私が、越前藩士と忠直の娘達の萩原随行の事を知ったのも、一昨年の中日新聞のウェブ記事でした。けっこう興奮を覚えた記憶が有ります。

忠直卿の狂気を示す例に、正室の勝姫を殺害しようとした、という話が挙げられる事があります。越前の編纂史料には、勝姫だけでなく娘の殺害も企てたとしているものまで有りますが、もし本当にそのような状態であったのなら、二人の姫を随行させるような事は無かったでしょう。

文禄四年(1595年)に、長崎に居たルイス・フロイスが、忠直乱行譚と全く同じ内容の話が載る報告を、イエズス会に送っています(『関白殿薨去の報知』)。
文禄四年というのは、松平忠直が生まれた年であり、ここに載せられているのは、同年、豊臣秀吉により自害させられた「殺生関白」豊臣秀次に関する噂です。秀次自害から間も無く、長崎にまで届いていたこうした乱行の噂は、秀次追い落としの正当化の為に、秀吉の周辺が、広めたものだったのではないでしょうか。
この乱行譚はすっかり定着し、『聚楽物語』、『真書太閤記』、『絵本太閤記』と、秀次の悪行として語られますが、一心太助や、松平長七郎の登場する『大久保武蔵鐙』あたりで、松平忠直の行った事にされてしまいます。『大久保武蔵鐙』の忠直乱行譚は、『本邦続々史記』にそのままコピペされ、その内容は豊後にも伝わっており、天保年間に編纂された豊後の地誌『雉城雑志』に、歴史的事実のごとく引用されています。このようにして、日本国中にステレオタイプの暴君忠直像が広まって行ったものと思われます。
誕生した年に、自分の暴君像が作られていたというのは、なんとも皮肉な話です。
■お蘭様 (ツツミ)
2019-07-28 21:43:37

先日ご紹介した忠直関連史料は、『大日本史料』の「十二編の六十」でしたが、その後、既に「十二編の六十一」も刊行されていたらしく、東大史料編纂所の刊行物紹介を見ると、先に未載録とお伝えした、「萩原御姫様」や随従家臣団についての、中川家史料も採録されているようです。熊本の図書館でも、ご覧になれると思います。
これまでバラバラに掲載されてきた忠直の書状なども、ほとんど網羅されているのではないかと思います。府内の医師小野昌庵に宛てた書状は、越前の三陽和尚宛の物同様、忠直の人間味を感じさせるものです。

既に『大分縣史料』に載録されている、津守の熊野神社に納められていた忠直の願文も、採り上げられているのではないかと思いますが、これらの願文には、萩原で元和九年十一月二十一日に死去し、浄土寺の比翼塚の一方に葬られたはずの、「お蘭女」の署名が見られます。
『忠直に迫る』の試し読み画面を見ると、「お蘭様」は切支丹で、元和九年十一月に死去した、という説を唱えているようです。実際浄土寺でもこの没年を採っていますが、私は、これには、疑問を持っています。
「お蘭女」の署名が最後に登場するのは、寛永九年正月の寄進状です。翌年正月の寄進状からは、その名を見る事は、出来ません。この間に亡くなったものと思われますが、あるいは、「寛永九年」の没年が、「元和九年」と、誤って伝えられたものかも知れません。そして、この寛永九年に誕生し、翌年の寄進状から署名に名を連ねるのが、忠直の三男熊千代(永見長良)です。
いつか津々堂さんが紹介されていた『津守一伯公伝記』では、津守で生まれた忠直の子は、三人とも「おふり殿」の所生となっています。しかし、系譜上忠直の直系である津山藩の家譜では、次男松千代(永見長頼)と熊千代の母は、家臣平賀治郎右衛門の女であり、三女お勘の母は「小糸」となっており、平賀氏は、熊千代を生んだ日に死去したとされます。
例年願文に名を連ねる女中は、「小むく女」、「お蘭女」、「おむく女」、「おいと女」でしたが、寛永十年からは、「お蘭女」の名だけが記されなくなります。忠直の子を生む女中であれば、願文に名を連ねる立場だったはずであり、この四人の中に熊千代の母親が居たはずです。そして、熊千代が生まれた年に死去した(と推定される)のは、「お蘭様」だけである事から、私は、この平賀氏が「お蘭様」であり、松千代、熊千代の母だったから、比翼塚に葬られるという特別な扱いを受けたのではないかと考えているのですが・・・。
■Unknown (ツツミ)
2023-07-05 21:16:52

先週の記事「可惜人生を棒にふる」で触れられていた「越後騒動」は、松平忠直が配流先の豊後津守でもうけた、次男松千代(永見長頼)、三男熊千代(永見長良)、三女お勘が、直接、間接に関係している(騒動当時長頼とお勘は既に他界し、その子等が騒動の火種)ものですが、熊千代誕生の翌年(寛永十年)、津守の熊野神社に奉納された熊千代名義の寄進状願文に託した、「万〃ねん/\、松竹靏亀、千世にや千よ、いくひさしく、ちやくし越後守殿(長男越後高田藩主松平光長)へたいめん申、ぢなん松千代我等(熊千代)同前ニ、きやうだいもろともに、ちとせの春いわい可申候、はじめての御いわい之しるしまでにしんし候物也、」という、兄弟の繁栄を願う忠直の想いが、虚しく感じられます。
ところで、コロナ前に記したコメントに、これら熊野神社に納められた寄進状の署名から、松千代、熊千代の母は、浄土寺忠直廟所の比翼塚に葬られたとされる「お蘭様」だったのではないか、という推論を立てましたが、あながち突飛な考えではなかったかも知れません。水戸彰考館で享保年間に編纂された、徳川一門を網羅する系譜『源流綜貫』に、長頼、長良、お勘の三人について、以下のように説明されているのを見つけました。

「長頼 母某氏(《割注》“名蘭”号紅源院)寛永七年庚午正月二十日生于豊後小名熊千代為光長家臣称永見市正寛文七年丁未八月十六日卒年三十八葬高田善行寺㳒名蓮長日頼号立源院」
「長良 母同長頼寛永九年壬申七月二十三日生于豊後小名松千代為光長家臣称永見大蔵天和元年壬酉六月二十二日有故流八丈島」
「女子 名閑母某氏寛永十一年甲戌生適光長家臣小栗美作正矩生大六某寛文五年乙巳五月十七日卒年三十二㳒名清誉春㳒号高源院」

長頼と長良の幼名が取り違えられてはいますが、二人の母親は「蘭」である事が明記されています。忠直の系統が、津山藩主として復活した後、永見長頼の子孫は、津山藩家老として存続していますので、長頼の母に関する正しい情報が伝えられていた可能性は高いと思われます。彰考館にしても、根拠も無しに、いきなり「蘭」という名を持ち出すはずもなく、津山藩から得た情報に依り、このように記載したのでしょう。
今では、大分市民でも、忠直卿の愛妾「お蘭様」という人が居たと知る人は、ほとんど居ないのではないかと思いますが、私が子供だった大昔には、「おらんさま」という大分銘菓(どういう菓子だったのかは知りません)が有りましたので、その名だけは聞き覚えがあるという人は、けっこう多いはずです。大分の史料館や浄土寺でも、「お蘭様」の実像について再検証して、その存在に再び光を当てて欲しいものです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする