津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■長久手の戦いと「楽只」なる枕

2023-09-20 07:31:01 | 歴史

 豊臣秀吉 VS 織田信雄+徳川家康に於ける小牧長久手の戦いの記録を見ると、細川家の働きぶりは余り見かけないように思える。天正十二年(1584)の春のことだから、忠興22歳である。
忠興は、総勢約3,000、弟・玄蕃頭興元、松井康之、米田是政、有吉立行、篠山五左衛門(飯河豊前こと)、荒川勝兵衛、佐川弥一郎、落合左近、銚子数盃介、西川与助、中嶋左近etc等と共に秀吉の許に参陣している。
長久手の戦いでは細川勢は蒲生氏郷らと秀吉の先手となり出陣、家康勢が池田勝入父子・森武蔵などを討ち取り秀吉勢は多くの死者を出し敗軍した。

 細川勢の働きについては、綿考輯録でもその詳細をうかがい知れないが、忠興はその働きに対し秀吉から感状を受けたらしい。この感状に関して面白い話が残されている。

  此感状ハ忠興君為家珍、御平生の御枕の内に入れはりこミ、御一生御身を御離し不被成候、
  此枕を人々に名を御付させ被成候へ共、御気二不入候を清巌和尚楽只と御附候を御用被成し成、
  於八代御逝去の節御遺言に任せ御葬送の場にて是を焼失す、御隠居の仰に、越中(忠利)ハ越中
  か涯生にて取り不取ハ心次第と被仰けるとなり、

若い忠興にとって小牧長久手の戦いは如何なる感慨が残ったのか、感状を枕に入れて終生これを使い続けたというのだから、思い入れ深い物であったことは間違いない。
5月に入り勝利を得たとはとても思えない秀吉は、陣を引き大坂へ帰っている。
秀吉は何と信雄の領地を攻めるという手に出た。
信雄は和睦を申し入れ信雄の領地が割譲された。家康も信雄に対する義理を果たして三河に帰ったが、秀吉の再度の三河攻めも想定される。秀吉の想いは天正大地震という思いがけない天災で止むことになる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■薮小路屋敷の収公

2023-09-19 06:11:35 | 歴史

三斎の愛宕下屋敷があった薮小路について、江戸名所図繪は次のように記す。(巻一 p189)

 藪小路 愛宕の下通り、加藤侯の邸の北の通りを云。同所艮の隅裏門の傍に少しばかりの竹叢あり、故にしかいへり。
     されど其由来詳ならず、傳説あれども證としがたし。慶長より寛永の頃に至り細川三齋公此地に住せられ、
     その庭中の小池を三齋堀と號くといふ。

             藪小路.JPG 愛宕下藪小路.jpg 
                   図(1)           図(2)

図(1)・左手に藪に囲まれた加藤越中守の屋敷が見える。愛宕山下三斎屋敷があった場所。
図(2)・広重 愛宕下藪小路 右手の薮の中に三斎屋敷があった。

                   

               江戸切絵図「愛宕下之圖」切り抜き 中央部蛇の目紋がある加藤越中守屋敷がかっての三斎屋敷
       中央の通りが現在の愛宕通り、右奥に愛宕神社の森が見える。直進すると東京プリンスホテル前に至る。

熊本藩年表稿によると、元禄十六年九月十九日に宇土支藩2代目の「細川熊次郎(和泉守有孝)愛宕下藪小路之屋敷御用に付差上、この屋敷は忠興以来今年迄持ちつたえたもの」として収公された。

いわゆる三齋公の隠居屋敷であるが、元和八年ころ家作され三齋死去後は宇土支藩の屋敷となった。
北野隆熊本大学名誉教授によると、建物は寛永十年ころ上屋敷・下屋敷その他に移築されたというから、宇土支藩の元に新たに家作されたという事だろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■細川治年公ご命日

2023-09-16 06:08:15 | 歴史

                                                                   

 細川藩九代藩主の治年は天明七年(1787)九月十六日江戸にて死去した。年二十九歳。
父・重賢の嫡男として生まれた。生母は金澤氏(此井=このい)である。
          細川家譜--細川治年譜 ・・ (全)

嫡男・年和、次男應五郎が年若であった為、正室・瑶台院の実弟宇土藩主・立禮を養子として十代藩主とした。
それは当然リリーフ役としてであり、その跡は治年の男子をして継嗣とするとの約があった。

立禮は天明八年宗家に入り齊茲と名を改め正式に家督している。

「度支彙函・寛延より文化迄節儉號令19」七月廿三日付の次の様な文書がのこされている。
     今度入国ニ付家中之者共へ申聞候趣、別紙書付相渡候状、組々えも可申聞者也
 我等儀先代之御不幸ニよつて不慮ニ家相續蒙仰、今度令入國難有儀ニは候得共、領大國候儀當惑感之事ニ候、
 然といへとも應五郎成長迄之内ハ、年寄共を初役人共と相謀り政務之儀心に任すべし、勿論先祖以来代々
 之掟は時勢を以斟酌し、近くは先々代(重賢公)以来之旨を相守候條可得其意事

この文書によると、次の代は治年の二男應五郎に継がせることを示唆している。しかしながら應五郎も死去したため、治年の代まででガラシャの血統が途絶え、齊茲以降は嫡子・齊樹、齊樹に男子がなく再び宇土支藩から齊護が入って宗家を継ぎ以降の細川家は宇土家の血統ということになる。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■贋金つくりの後始末

2023-09-15 09:47:55 | 歴史

 豊前時代の細川家史料を読むと、領内に採銅所等と言う地名があり銅の採取が行われ、「銭」を作っている記録が見える。
しかし、熊本に移封後においてはこれがあまり見られない。幕末に至り各藩が贋金つくりに励んでいるが、熊本藩に於いては見受けられない。私の勉強不足だろうか。

 勝海舟の話をまとめた「氷川清話」を読むと、明治初頭各藩が作った贋金をつかまされた外国人たちが新政府に換金を求めてきたという。大久保利通(内務卿)が頭を抱え、人を介して海舟に相談に来たので「皆引き換えろ」と返事をした。大久保は海舟の言により決断して外国公館に「引き換え」を通告した。20万円に達したとされるが、海舟は大した金額ではなかったと述壊している。明治初頭のこの金額が現在どのくらいになるのかはよく判らない。

 何と言っても贋金つくりは薩摩が出色であろう。アーネスト・サトウの著「遠い崖」によると、「花倉御殿跡で贋二分金造りをしていた」とある。谷あいの隠れ里のような場所であり、大っぴらとはいかなかったことが伺えて面白い。
万延二分金に似せて、銀台に金メッキを施し通称「天ぷら金」と呼ばれる。
戊辰戦争の軍用貨幣に造られたもので、正貨の1/4で出来たからその益は750億円という試算がある。
さすがに明治二年六月以降大久保は、薩摩の密造を廃絶させたといわれる。

これは薩摩に限ったことではなく、会津・名古屋・薩摩・広島などをはじめ土佐・仙台・加賀・秋月・佐土原等の諸藩も戦費を確保するために同様の「天ぷら金」を作った。
「かます」に入れて温泉に浸して古金のように見せかけたとは加賀藩の記録に在る。

竹下倫一著「龍馬の金策日記ー維新の資金をいかにつくったか」をよむと、龍馬も積極的に贋金つくりを奨励している。
明治維新は「贋金」によって成功したともいえるのではないか、皮肉なことに明治新政府がその尻ぬぐいをした。

前に述べた通り熊本藩ではあまり「贋金」つくりの話は聞こえてこないが、筑前の黒田藩は太政官札を偽造までして汚名を蒙った。
筑前黒田の11代の殿さまは長溥公、薩摩からのご養子である。黒田藩の明治維新は熊本よりも程遠かった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■後塵を拝した肥後の維新

2023-09-14 07:01:02 | 歴史

                                                        内田健三氏      

 前回書いた■内藤濯と竜北のわらべ唄に登場する内藤濯の妹の男子が、内田健三氏である。
つまり内田氏は、小楠の弟子で医師の内藤泰吉の娘の子、つまり泰吉の孫にあたる。

近代史家・花立三郎熊本大学教授は「熊本歴史叢書5、細川藩の終焉と明治の熊本」に、「もう一つの明治維新」を書かれているがその冒頭に、内田健三氏の平成12年12月29日の熊本日々新聞の「肥後=細川藩は明治維新に乗り遅れた」という記事を取り上げて居られる。
我々は徳富蘆花の「熊本の維新は、明治三年に来ました」のフレーズが頭から離れない。
研究者の先生方も、これに勝るオリジナルな表現が出来かねるのか、どなたも一様にこのフレーズを引用される。
立花氏も長い間蘆花のこの言葉に「不信をもった」とされる。
先の内田氏のこの「熊本藩が乗り遅れた明治維新」とは、「維新の大業は、薩長土肥に推進され、肥後は後塵を拝した」と書かれている。
つまり四藩の主導によりなされた維新の大業には、肥後ならずともその他大勢の藩も乗り遅れたという事になる。
蘆花がいう熊本の維新とは、主語として「実学党による」と言う言葉が冠されてしかるべきなのだろう。

               (未完)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■強力コンビ

2023-09-12 06:03:05 | 歴史

        

             細川斎護                松井章之(てるゆき)

 蓑田勝彦氏の論考熊本藩主=細川護の「実学連」排除ー「学校党」は存在したかを読むと、実学党に対する頑なな細川齊護の実像が浮かんでくる。
併せて堤勝彦氏の論考肥後藩における「実学」の形成と展開ー藩主細川齊護と藩家老長岡監物の場合ーを読むと、蓑田氏の論考とは若干の差異が認められるが、より理解を深めることが出来る。
藩主齊護に追従して、実学派(後の坪井派)の長岡監物(米田是容)に相対したのが、三卿家老筆頭の松井章之である。
藩主と筆頭家老がタッグを組むのだから、実学派の活動はひこばえが頭を切られるように成長を止められた。
齊護は先代・齊樹の急養子でその遺蹟相続にはいろいろ問題が起きた。
齊樹夫人の実方の人物に決定しかかった処に、細川家の正統を継承させるべきだという声が上がり、急遽使者・杉浦仁一郎が8日間で江戸へ走った。
正統を強く主張したのが、是容の父・米田是陸であったことからすると、齊護にとって是陸は恩人ともいえる人物である。

かって、齊護公御家督一件之事(一)及び齊護公御家督一件之事(二)でご紹介してきたが、相続問題は齊護にとってはある意味重圧であったろうと思われる。
まだ先々代藩主で実叔父である齊茲も健在であった。その意を伺う必要もあったかもしれない。

松井章之と米田監物(是容)は歳もあまり変わらず、家老就任も同様である。強いライバル意識が有り是容が家老職を辞任し野に下った時の悲痛な思いは如何ばかりであったろうか。
かってご紹介した是容の歌「閑居燈」はそんな時期のものではないかと思っている。
しかし実学派の台頭により遅ればせながら肥後の維新がやってきた。是容は弟子たちの活躍ぶりを見ることが出来ないまま死去したが、一方章之は長生きして明治20年75歳で死去した。
肥後の維新をどういう想いで見たことだろうか。

一方、齊護の「実学派嫌い」は継嗣・慶順(韶邦)にも継承された感があるが、こちらは実学派の士と共に藩政改革を目指した弟護久・護美兄弟によって隠居させられている。実学派と新政府の力を借りての静かなクーデターともいえる。
齊護の「実学派嫌い」は実の子護久・護美兄弟によって覆った。まさに時代が求めた結果であろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■国を去る人・帰る人

2023-09-10 08:51:17 | 歴史

 今日9月10日は、年は変われど日本の歴史上にその名を残した人たちの運命の日であった。

(1)その一人は、ガラシャ夫人のキリスト教への傾倒の橋懸りを作ったとされる高山右近で、慶長19年家康の
   キリシタン国外追放をうけてマニラに向け出国するに当たり、忠興に別れの書簡を送っている。
   教養ある武人のその心情を吐露する書簡の内容には心打たれる。
   マニラに於いては、スペイン総督の歓迎などを受けているが、失意と旅の疲れ等が重なりわずか二か月足
   らずで死去している。

            

                    近日出舟仕候
                    仍此呈一軸致進上候
                    誠誰ニカト存候志耳
                      帰ラシト思ヘハ兼テ
                      梓弓ナキ数ニイル
                      名ヲソ留ル
                    彼ハ向戦場命墜
                    名ヲ天下ニ挙 是ハ
                    南海ニ趣 命懸天名ヲ流 
                    如何六十年之苦
                    忽散申候 此中之御礼ハ
                    中々申上候/\
                    恐惶敬白
                            南坊
                      九月十日   等伯 花押
                     羽越中様
                      参る人々御中


(2)徳川家康の二男・結城秀康の子・松平忠直は大坂冬の陣で戦功をあげるものの論功行賞に不満を抱き、その
   後酒色に溺れ、家臣などを殺害するなどの乱行を重ねた。参勤さえも拒否するようになったため、元和9年
   豊後に配流となった。豊後に於いては人が変わたようになり穏やかな生活をつづけた。
   慶安3年9月10日に忠直は死去する。豊前で側室に二男一女が誕生し、忠直の死をうけて越前からの迎えによ
   りこの人たちが帰国している。次子(三男)永見長良は後に起こる越後騒動の渦中の人物として知られる。
              ■大分の松平忠直配流の賄領・・番外編 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■事件に巻き込まれた人々

2023-09-10 06:12:41 | 歴史

 「神風連の志を自らの志」と言ってはばからない、荒木精之氏の著「近代への叛逆」を読んでいる。
「神風連の墓について」とこれに関連する記事が数十頁あるが、氏は神風連の乱で亡くなった方々のお墓を自ら歩き回ってそのすべて確認されている。終戦前の話である。
その情熱はこの著書にも現れていて、「熊本新聞」の当時の記事などもすべて書留め、この中に紹介されている。
それを見ると、意外な事件の内実が見えてくる。
パラパラ頁をめくっていたら、裁判を受けた人たちの判決の内容が記されている。
そんな中に「三渕永次郎」の名前を見付け、少々驚いてしまった。
石原醜男氏著の「神風連血涙史」は完璧にとはいかないが一応は目を通している中で、氏の名前は見かけなかったように思う。

細川家に近いご親族ともいえるご大身の家柄のお人が何事と思い記事を精読する。

                    第二大区九小区高橋町 士族 三渕永次郎
 其方儀太田伴雄ヨリ熊本鎮台ヲ襲撃セントノ談示ヲ受ルト雖モ同意セサルヲ以テ其罪ヲ問ハス

その他11名程が同様の処分を得たようだが、その中には神風連の人々に「脅迫されて参加」した人が半分ほどいる事が記されている。
「罪は問わず」とはいえ裁判を受けたのだから、一応容疑を掛けられたことは間違いないのだろう。
脅迫された人たちは、人を殺めることがあったならばそれ相当の罪を得ることに間違いない。
熊本には「郷党」の強いきずながあり、死した人の中にも止む無く参加して人もあるのではなかろうか。
荒木氏のこの資料の開示は大きな意味合いを持つ。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■ロシア皇太子の入れ墨

2023-09-09 07:25:50 | 歴史

 観光地で入浴する外人観光客の入れ墨の問題に、関係者が困惑しているニュースをよく聞くが、日本でも若者や女性などの間でも「Tattoo」として広がりを見せている。
かっては「身体髪膚これを父母に受く。あえて毀傷せざるは孝の始めなり」などといって、入れ墨等はもっての外であり、罪を得たものが罪として入れ墨をいれられ「入れ墨者」と言われた。
やくざの世界やチョット粋がったお兄ちゃんたちが、入れ墨を入れて不幸者となった。
現代の若者にとっては「Tattoo」としてファッションアイテムの一つとして捉えられているのであろう。
又、船員などに多かったのは、船が遭難した時の目印にするためだとも伝えられる。

 作家・吉村昭氏の著に大津事件で襲撃されたロシア皇太子の事を題材にした「ニコライ遭難」という一文が有るそうだが、同氏の「史実を歩く」にこの作品を書くに当たっての経緯が書かれている。
氏の「丹念な調査を進めて歴史の真実に肉薄して作品に反映させる」という姿勢が明らかにされている。

 事件は明治24年5月11日、滋賀県大津の街中でロシア皇太子ニコライの通行の警備をしていた巡査・津田三蔵がサーベルで切りつけるというものである。
ニコライは数十メートル走って逃げたという。津田がサーベルをかざして追いかけてきたが、有栖川宮を始めとする日本の随行員は一人として止めに入る者はいなかった。ゲオリギオスがお土産に買った杖で津田を叩き、取り落としたサーベルを拾った車夫が津田に切り付けて取り押さえた。
ドナルドキーンの「明治天皇(下巻)」には、第42章に「ロシア皇太子襲撃」(p122~143)という項が立てられているが、明治天皇は事件の10分後有栖川宮から電報による報告を受けると、すぐさま天皇は自ら見舞いに行くことを決意する。翌12日の早朝天皇は汽車で出発する。
すぐさまニコライを訪問するが、ロシアの随行団がこれを拒否している。翌13日ゲオリギオスの案内でようやく対面することが出来て深い遺憾の意を表した。皇太子も又、東京で再開することを約した。
しかし、本国からの連絡を受けて皇太子一行は帰国するとの報告を受ける。天皇は晩餐の席に招待するがこれも拒否され憂慮された。しかし、逆に皇太子の方から晩餐の招待が有り天皇は快諾して、政府重臣たちの心配を振り切って出席し、その席は大きな笑い声が聞こえるほど打ち解けたものであったという。

 話が脱線してしまったが、入れ墨に話を戻そう。
実は事件前の4月27・8日らしいが、寄港した長崎で彫り物師を招き、入れ墨を施したというのである。
吉村氏は長崎の図書館で偶然展示されていたロシア皇太子の来航の史料からこの事実を発見されている。2~3日彫り物師を船内に招き入れ「両臂(かいな)に刺繍を為し居らるゝよし」というという新聞記事も残されているという。同時に船員の多くも入れ墨をしたらしい。
下絵帳をしめしてこれから選ばれたらしいが、皇太子の入れ墨は「龍」ではなかったかと、吉村氏はスケッチさえしておられる。

作家の著作に関する資料収集は出版社の助太刀を頼む場合が多いそうだが、吉村氏の夫々の作品のディテールの確かさは、自らの徹底的な取材によるものだとされる。
それは読んでいて実感する。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■歴史は悲しい「小篠四兄弟と義犬・虎」

2023-09-08 11:01:18 | 歴史

 本妙寺参道の両側に並ぶ塔頭の左側の奥に位置して「雲晴院」がある。
ここに「神風連の挙」に参加して果てた小篠(おざさ)四兄弟の墓地があるが、脇に四男・源三が愛した「虎」が埋葬されている。
桜山神社には「義犬虎」という碑が建立されている。明治九年十一月廿ニ日出版の熊本新聞・第百卅号には次のように記している。

    哀れにも又珍らしき一話あり、第一大区三小区高麗門士族小篠某は兄弟四人共凶徒の内なりしが、某
    末弟小篠源三幼少の時肥前嶋原へ渡海せし折一疋の狗児を見て遂に連れ帰り、やゝ成長に従ひ、一家
    挙つて是を愛し殊に兄弟四人の内若他行すればいつも行衛を尋ぬる有様なりしが、本月初に至り兄弟
    の人々自尽せし折柄此狗魚類の料理捨を喰わんとするを、家僕が戯れに狗に向ひ、斯迄汝を愛せられ
    し主兄弟共に死に就給ひしに今此魚肉を食うに忍ひんやと云を聞、狗は忽ち首を垂れて退きしが、其
    後行衛しれされば一家不思議におもひ一両日を過ぎて兄弟の墓所なる寺へ参詣したるに、犬(ママ)
    数日食を断たる有様にて痩せ衰え、彼の墳墓を守り居たり、皆々涙にくれて呼へとも更に応せず、拠
    なく縄を付屋敷へ曳帰り、門を出さる様気を付ありしか夕暮に至り猶行衛を失ひ、方々捜索すれ共知
    れす、一家心を痛めしか翌日に至り屋敷の隅なる大樹の本に此狗自ら舌を喰切り斃れ居たりと云。旧
    藩の昔忠利公のお鷹二羽は火葬の火に飛入、重賢公の御寵犬は犬牽の津崎五助と共に殉死を遂たりし
    は、本県の人口に膾炙する処なるか小篠氏の犬(ママ)も亦比類なるへし。

四人兄弟が想いを一にして志の為に若い命を捧げたこと自体に涙に誘われるが、「虎」のこの逸話はさらに悲しさを増幅させる。
神風連資料館・収蔵品図録には「餓死」とあるが、此の記事では「舌を喰い切った」とあり、これはどうやら脚色くさい。

花園に住んでいたころ、本妙寺を散策するとお寺の角の低い塀越しに四兄弟のお墓が望むことが出来たので手を合わせたことだが、「虎」のお墓には気付かなかった。
仁王門下の参道の道路環境が随分変わったと聞く。ぜひとも本妙寺周辺を掃苔したいと思っている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■横井小楠・木下韡村往復書簡ーその(三・了)

2023-09-07 06:28:33 | 歴史

天保十一年二月二十六日
 ■木下宇太郎へ
   昨日は再御返事之趣承知仕候
   一 藤田方歸り及過酒候一件は従來浅井先生より御聞に相成候旨に付、私不束にて聞取違仕候筋に御
     座候へば了簡仕候。右聞取違は御挨拶仕候。
   一 名札之儀御當地詰込之習に被任寒中年始御廻勤之節に御遣に相成、時候佳節之一體御述被成候迄
     之由。然處私方に御名札見へ候て疑惑仕候儀は舊冬之事にて、一度は寒中と覺へ一度は平日無何
     事時節に御座候。被仰下候通り年頭時候等に御座候へば私疑惑可仕子細無御座、御返書之趣と相
     違仕候。
   一 御往來之儀年明候ては御互に両度づゝとかし候様に覺申候。尤私は一度は御他行御留守に参上、
     其後御紙面取遣之節に御留守に参上仕候儀は被仰向仕候。舊冬より年明迄切々御來臨被成下、毎
     度私外出にて於御手許は墨田川以來少も御心を被遣候儀無御座、私外出多候處より失敬に及び切
     て疑惑仕候旨に罷成、甚以赤面之至に御座候。乍然交際は用向述候迄にて無御座、互に出違等に
     て久敷逢不申候へば必ず紙面にても申合出會述舊事候儀は熊本にて左様に仕申候。まして旅中に
     て御座候へば一シラの事に候。既に白金連朋友抔は月に一両度は必ず申合出會仕事に御座候。然
     し私より御うち合御出會不仕儀は前條疑惑仕候より是迄の通に罷在申候。右の次第尚御返書仕候。
     已上。
          二月廿六日                 横井平四郎
            木下宇太郎様

 ■木下宇太郎より(返書)
   御手簡又々薰讀、被仰下儀拝承仕候。御聞取違之事御挨拶被成下痛入奉存候。名札之儀は一度は如仰
   寒中一度は正月二日朝回勤之節に御座候。乍去兩舊冬御見當被成候と被仰下候へば如何之折にて御座
   候哉頓斗覺不申、因是御不審と御座候ては當惑之仕合無念に奉存候。御往來之儀用向迄に無御座、出
   違抔にて暫唔盡不仕候へば紙面にて申合出會述舊候等之儀は誰も樂候事にて私とても別儀は無御座候
   得ども、御見通も被下候通此節に限不申聊不自由にも有之藝業之形も付不申平生憫■只々物事に届兼、
   於御國も追々後に陪候事も御座候へども私より起會話之御約束等は少く實に疎き様に有之、此元にて
   も存外諸用之外出も多、白金當振懸娯談仕候外前以之約束等月に度々は扨置、用事御座候てさへ押移
   候事多、御小屋え出申候も序勝之事にて、被仰下通に御座候へば何方にも申譯無御座候へども稽古等
   に怠も不致候はゝ私身分には御恕察も可被成下と兼て相恃居申候。思召に違候迄は因是疎遠之御疑惑
   御尤に奉存候。早速相改可申と御断可申上筋にも可有御座候得ども、跡以届兼又は嬌飾に出申候半も
   難斗、是迄不束之至御推量被下、公面之御交迄被江候はゝ難有奉存候。度々煩來鴻是又恐懼不少、右
   奉答如此御座候。已上。
      二月廿六日                    宇太郎
        横井平四郎様

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「横井小楠遺稿」に天保十一年の横井平四郎(小楠)・木下宇太郎(韡村)の往復書簡として往復三度六通が紹介され
ているが、最末尾に「小楠は木下の行動に友情身が乏しいとの不平で義絶を申込み、木下も色々弁解の末それを容認し
ている。」と解説してある。
読んでみると、文体も丁寧でそのようには感じは見受けられないように思えるが、小楠の「酒過」を通しての記憶の齟
齬があるように思われ、意思の疎通に木下が困惑している様が見て取れる。
結果として「義絶」したのであろうが、まるで痴話喧嘩の様にも思えるが、小楠21歳の若気の至りのような気がしてな
らない。「お酒慎みなさりまっせ」


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■歴史は悲しい

2023-09-06 09:50:57 | 歴史

 何気に本棚を見回していたら渡辺京二氏の著「神風連とその時代」に何やら紙が挟まっている。
取り出してみると作家・小山寛ニの「哀愁の碑‐神風連の女たち」のB5判のコピー2枚である。
「日本談義」に掲載された記事だが、行方知れずの状態だった。
ああここに在ったかと思い、A4判に拡大コピーして別にファイルすることにした。

                               

 小山の母親の実家は八代龍峯の郷士・高田家で、男子がなく三人姉妹であったため、長姉が一族から婿養子を迎えた。
熊本の城下で神風連の一党が蜂起した時、その学統であった高田家の婿はこれに参加するではなく出奔した。
長姉は「ご同志の皆様に申し訳ない」と自刃して果てたという。その後高田家は次姉が林桜園の学統に連なる人を婿に迎えたが、この人は当時東京遊学中であった。小山はこの義伯父からいろいろ薫陶を受けたらしい。
この一文は、そんな小山の縁戚である高田家で起きた悲話からスタートしている。

神風連の挙は林桜園に連なる学統の絆が徒党を組んだが、その結末は自らの死に加えてその家族の身の上にも悲しく切ない悲話を生んだ。
小山はその一つとして、小林恒太郎の新妻の短い悲しい人生を取り上げている。
新婚四ヶ月での夫との別れ、望まぬ離縁、実家からの圧力による離縁・再婚・出産、さらなる離婚、小林家に対する悔悟、そして自刃と悲しい一生であった。
小山は最後に「かにかくに、わが火の国の神風連は、かぎりなく悲しい」と結んでいる。

これは封建時代の婦道感がもたらした一例にすぎず、神風連の挙はいかにも悲しい。
その後の当事者の家々の皆様の平安を願うばかりである。
ちなみに、小林家のご子孫にはご厚誼をいただいている。秀逸なWEBサイト小林党-小武士団の700年を主宰しておられる。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■肥後の維新の一側面

2023-09-05 06:10:43 | 歴史

 明治三年にやってきた肥後の維新は、様々な新気軸が打ち出された。
百姓衆に大いなる恩恵をもたらしたのが雑税(上米、口米三稜 、会所・村出来銭)の廃止である。これが9万石弱に至った。喜びに沸いた百姓衆はその気持ちを顕そうと、各地に「知事塔」なるものを建立してその英断をたたえた。
一方では、近隣各地で同様の措置を求める一揆を誘発、責任を感じた細川護久の知事辞職のきっかけとなった。
又弟護美も嫌気を覚えて熊本を去った。

この時期、百姓衆の約25%ほどは自前の土地を持たない「小作人」である。時代を経るにしたがいこの数は増加していく。
「新・肥後学講座‐明治の熊本」にある猪飼隆明氏の「藩知事細川護久と維新の夜明け」を読むと、小作人を抱える地主は小作人から「年貢+雑税+小作料」をとり、小作人の雑税は自らの懐に収めたと紹介されている。
これが毎年続いたとは思えないが、過渡期に於いてこのようなことが起きたのだろう。
古川古松軒の「西遊雑記」をかってこのサイトでご紹介したが、彼の目に写った肥後の村々は、「白壁の土蔵」もなく、百姓の家は建具もなく竹などを組んだすだれが懸けられていると記し、宝暦の改革をなした名君・重賢公の治世に首をかしげている。
しかし、熊本に訪れた維新により、各地に瓦葺の農家が増えていったという。豪農層等のリードによって明治の維新は訪れたが、その豪農と呼ばれる人たちが一番恩恵を受けたのが「肥後の維新」だとすると皮肉なことである。
肩で風を切っていた侍衆は禄を離れ、生活の術を失い家族ともども路頭に迷う人々が誕生していく。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■禅定寺脇の都市計画道路工事始まる

2023-08-30 10:11:48 | 歴史

 我が家には菩提寺が二つある。その一つが横手の禅定寺だが、ここには曽祖父・又太郎一家と絶家した三男の一族のお墓がある。
曾祖母は上田久兵衛の嫡女・晩稲だが、その実家上田家のお墓が禅定寺の西北の角に存在する。
禅定寺の西側を都市計画道路が走っていて、工事が始まれば上田家のお墓も心配された。
禅定寺はいわゆる歴史墓がたくさん残る。
禅定寺を興したとされるのが加藤清正の家臣・並河志摩守だが、そのご子孫s女史が史談会の会員だった。
政治力のある方で強烈な反対運動の先頭に立たれ、これが効を奏して県知事が現場確認に訪れるなどして、その都市計画道路の路線変更されることになった。もう10年ほど前のことである。
上田家のお墓も難を逃れた。
難を逃れきれていないのではないかと心配されるのが藤村紫朗のお墓や、剣客・雲林院弥四郎などである。
その工事が始まったと聞く。

 藤村紫朗は山梨県縣令などを務めた人物だが、旧姓は黒瀬氏である。寺原家鴨丁で黒瀬市左衛門の二男として生まれた。兄は市郎助という。
いわゆる横井小楠の「市道忘却事件」の舞台となった、江戸留守居役・吉田平之助別宅で都築四郎や小楠が酒宴を開いている処を、この黒瀬市郎助等が襲った。
事件の詳細はここでは触れないが、黒瀬は逃亡し、吉田の嫡男・傳太は敵討ちの苦しい旅を重ねる。
黒瀬は四国松山で捕獲されて熊本藩領・豊後鶴崎に護送された。
その時の顛末を我が家の曽祖父・又太郎安正が「吉田傳太復仇一件聞取帳」「 吉田傳太復仇現聞録」として書き遺した。
覚悟した黒瀬市郎助は立ち向かう事もなく、吉田傳太のもとに首を討たれた。
吉田家の墓前に市郎助の首が供えられたが、市郎助の母親が訪れて「その首にはもう用がないでしょうから、持ち帰ります」といって持ち帰ったという。
その首は、弟・藤村紫朗のお墓の隣に在る黒瀬家の墓地に埋葬されたのであろう。

市郎助を訊問している又太郎と、その市郎助のお墓は100m程しか離れていない。
禅定寺西側の、都市計画道路の工事が始まっと言う話を聞いて、黒瀬家のお墓はどうなるのだろうかと心配をしている。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■実学党坪井派の長岡是容死去に際しての、沼山津派・横井小楠の想い

2023-08-30 06:51:20 | 歴史

 実学党の巨頭、家老・米田監物(是容)と横井小楠の決別は安政2年(1855)の頃だとされる。
その原因は「大学の道は闘徳を明らかにするにあり、民を新にするにあり」の解釈上の相違であった。
攘夷論者であった監物と、開国論で対した小楠は修復し難い亀裂を生み「絶交」した。
この時期からそれぞれの住まいの地の名により、小楠は沼山津派(新民派)を形成し、監物は下屋敷がある地名から坪井派(明徳派)を形成した。

 それから過ぎる事6年後の安政六年八月十日に監物は死去した。
福井に居た小楠に対して「下津久也・荻角兵衛」が訃報を届けた。これに対する小楠の書簡が残されているが、遺族に対しては「絶交中」であることを理由に、弔問する仔細はないと述べている。

  (前略)然ば八月十日に候哉監物殿被致死去候段申参驚絶仕候 扨々人事不定吉凶變態總て以外に出
                              あいだちがい
  申候 於御両君別て御痛情之程奉察入候 小生事御案内之通り近年間違に相成候儀は唯々意見の相違に
  て其末は色々行き違に相成時としては何やらん不平之心も起り候へ共於全體舊相識之情態替申様も無
  之 平成之心は依然たる舊交したはしき思を起し候事は於彼方も同然たるべきかと被存候 況哉千里之
  客居にて此凶事承り 不覺舊情満懐いたし 是迄間違之事總て消亡唯々なつかしく思はれざる心地に相
  成落涙感嘆仕候 誰之歌にて候哉
    あるときはありのすさみににくかりきなくてそ人は戀しかりける
                       長岡家
  心情御推察可被下候 本より絶交之事に候へばニノ丸に弔詞申進候子細無之 御両君迄心緒拝呈候 過ぎ
  去りし人は呼べども不可返(以下略)
     十月十五日          平四郎 

心情あふれる書簡にほっとさせられる。                      

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする