我が家には菩提寺が二つある。その一つが横手の禅定寺だが、ここには曽祖父・又太郎一家と絶家した三男の一族のお墓がある。
曾祖母は上田久兵衛の嫡女・晩稲だが、その実家上田家のお墓が禅定寺の西北の角に存在する。
禅定寺の西側を都市計画道路が走っていて、工事が始まれば上田家のお墓も心配された。
禅定寺はいわゆる歴史墓がたくさん残る。
禅定寺を興したとされるのが加藤清正の家臣・並河志摩守だが、そのご子孫s女史が史談会の会員だった。
政治力のある方で強烈な反対運動の先頭に立たれ、これが効を奏して県知事が現場確認に訪れるなどして、その都市計画道路の路線変更されることになった。もう10年ほど前のことである。
上田家のお墓も難を逃れた。
難を逃れきれていないのではないかと心配されるのが藤村紫朗のお墓や、剣客・雲林院弥四郎などである。
その工事が始まったと聞く。
藤村紫朗は山梨県縣令などを務めた人物だが、旧姓は黒瀬氏である。寺原家鴨丁で黒瀬市左衛門の二男として生まれた。兄は市郎助という。
いわゆる横井小楠の「市道忘却事件」の舞台となった、江戸留守居役・吉田平之助別宅で都築四郎や小楠が酒宴を開いている処を、この黒瀬市郎助等が襲った。
事件の詳細はここでは触れないが、黒瀬は逃亡し、吉田の嫡男・傳太は敵討ちの苦しい旅を重ねる。
黒瀬は四国松山で捕獲されて熊本藩領・豊後鶴崎に護送された。
その時の顛末を我が家の曽祖父・又太郎安正が「吉田傳太復仇一件聞取帳」「 吉田傳太復仇現聞録」として書き遺した。
覚悟した黒瀬市郎助は立ち向かう事もなく、吉田傳太のもとに首を討たれた。
吉田家の墓前に市郎助の首が供えられたが、市郎助の母親が訪れて「その首にはもう用がないでしょうから、持ち帰ります」といって持ち帰ったという。
その首は、弟・藤村紫朗のお墓の隣に在る黒瀬家の墓地に埋葬されたのであろう。
市郎助を訊問している又太郎と、その市郎助のお墓は100m程しか離れていない。
禅定寺西側の、都市計画道路の工事が始まっと言う話を聞いて、黒瀬家のお墓はどうなるのだろうかと心配をしている。
先日禅定寺を訪れましたが、上田家のお墓が見当たりませんでした。上田家墓について何かご存じでしょうか?