津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■肥後の維新の一側面

2023-09-05 06:10:43 | 歴史

 明治三年にやってきた肥後の維新は、様々な新気軸が打ち出された。
百姓衆に大いなる恩恵をもたらしたのが雑税(上米、口米三稜 、会所・村出来銭)の廃止である。これが9万石弱に至った。喜びに沸いた百姓衆はその気持ちを顕そうと、各地に「知事塔」なるものを建立してその英断をたたえた。
一方では、近隣各地で同様の措置を求める一揆を誘発、責任を感じた細川護久の知事辞職のきっかけとなった。
又弟護美も嫌気を覚えて熊本を去った。

この時期、百姓衆の約25%ほどは自前の土地を持たない「小作人」である。時代を経るにしたがいこの数は増加していく。
「新・肥後学講座‐明治の熊本」にある猪飼隆明氏の「藩知事細川護久と維新の夜明け」を読むと、小作人を抱える地主は小作人から「年貢+雑税+小作料」をとり、小作人の雑税は自らの懐に収めたと紹介されている。
これが毎年続いたとは思えないが、過渡期に於いてこのようなことが起きたのだろう。
古川古松軒の「西遊雑記」をかってこのサイトでご紹介したが、彼の目に写った肥後の村々は、「白壁の土蔵」もなく、百姓の家は建具もなく竹などを組んだすだれが懸けられていると記し、宝暦の改革をなした名君・重賢公の治世に首をかしげている。
しかし、熊本に訪れた維新により、各地に瓦葺の農家が増えていったという。豪農層等のリードによって明治の維新は訪れたが、その豪農と呼ばれる人たちが一番恩恵を受けたのが「肥後の維新」だとすると皮肉なことである。
肩で風を切っていた侍衆は禄を離れ、生活の術を失い家族ともども路頭に迷う人々が誕生していく。

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