読売新聞 2016年01月22日 23時22分の記事から
昨年は没後400年にあたり、日本のカトリック関係者らが、殉教者として福者への認定を働きかけていた。バチカンは来年2月にも、高山右近の地元・大阪で、福者の敬称を与える「列福式」を行う予定だ。
日本カトリック司教協議会で列聖推進委員長を務める大塚喜直・京都教区司教は「信念を貫いて生きることが難しい現代において、高山右近の生き方は勇気を与えてくれるものだ」と話し、列福を歓迎した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
高山右近に付いては過去にもいろいろ書いたり取り上げたりしてきた。
■高山右近列福・・・・?
■松寿庵先生・第154講
■まだ見ぬ故郷〈上〉〈下〉―高山右近の生涯 (新潮文庫)
次はガラシャ夫人なんて事は・・・無いでしょうね
この屏風の発見者、熊本大学工学部の伊藤教授の許では昨年、「甲斐青萍の熊本の町並図に関する研究」を行っておられる。
これもその研究の過程で見つけ出されたものであろう。
甲斐青萍は先祖を細川家家臣とする説があるが、さらに上益城郡御船町の出身であることから甲斐宗運に関係するのではないかと思ったりしている。
伊藤教授から一度お問い合わせをいただいたが、確たるご返事を申し上げるには至らなかった。今後の課題としたい。
中央画壇には進出しなかった甲斐青萍は、熊本の地に根差した作品を多く残している。この屏風を始めとして作品が一堂に会する機会はないものだろうか。本物をぜひとも拝見したいものだ。
昨日の熊本日日新聞の夕刊に、隣県の宮崎日々新聞のニュースが掲載されていた。
阿蘇家家臣にして熊本・御船城の城主・甲斐宗運の生誕地では、宗運を顕彰しようと史談会が設立されて活動に入られたということである。
宮崎県と云っても熊本のすぐお隣の地域だが、熱気を感じさせるものがある。将来は我が史談会でも交流をさせていただきたいものだと考えている。
信長の「幻の上洛」計画裏付け 熊本市で新史料 2014年10月03日熊本日日新聞から
|
|
|
|
|
県立美術館と熊本大永青文庫研究センター、東京大史料編纂所の共同調査で判明。同日、県庁で会見した。
新出史料群は、13代将軍足利義輝が暗殺された後、近江矢島(現滋賀県守山市)に亡命していた弟義昭と側近が、1566(永禄9)年8月28日付で、伊賀(現滋賀県)や山城(現京都府)など京都周辺の武士に出そうとしていた書状14通。幕府再興を目指す義昭が信長を味方に付けて、上洛する際の協力を求める内容が記されている。宛先などから、尾張から北伊勢(現三重県)、甲賀(現滋賀県)、矢島を通って上洛する予定だったことも推定される。
書状の日付が近江の六角氏が義昭側から離反した前日であることから、配布直前まで作戦が進行し、六角氏が離反したことが作戦破たんの原因だったことも分かるという。
書状群は、足利将軍家に医術で仕えていた側近で、後に肥後細川家家老となる米田家に医術書冊子の裏紙として伝来。亡命中の義昭に随行し書状類の配布を任された米田家が、不要になった書状の裏紙を再利用したものとみられ、現在は個人所有となっている。
記者会見で、調査した県立美術館の山田貴司主任学芸員は「書状を通じて、計画が一瞬で反古[ほご]になったという乱世の息吹が感じられる貴重な史料だ」と話している。 書状の一部は、10日から県立美術館本館で始まる「信長からの手紙」展で初公開される。
今日の熊本日日新聞から引用
明治の山鹿“発掘” 旧家から市中心部の街絵図
|
見つかったのは大森加寿[かず]さん(88)方。大森家は代々、貸家業や酒造業を営んできた旧家。縦約2メートル、横約1メートルの絵図は掛け軸状で、巻いたまま保管してあったという。
絵図は、市中心部の菊池川と吉田川に囲まれた範囲。1870年に大改修された「さくら湯」には面積以外に「700人持」と書かれ、細川藩からの譲渡後、市民の共同所有となったことが分かる。
作者は浦田雪長(本名・長次郎)で、日本画家・高橋廣湖(久馬記)と八千代座の天井画を描いた弟・浦田湖月(四郎)の父親。旧山鹿大橋や移築され県文化財となっている湯町橋など、石橋と木造橋の違いも分かるように書かれている。
調査した木村理郎・元市文化課長は「詳細な面積の記述から、課税のために作成されたとみられる。時代の空白を埋める博物館級の資料だ」と話している。(岩下勉)
細川元首相の襖絵公開 京都・建仁寺で特別展 朝日新聞デジタル 久保智祥
2014年4月21日23時12分
京都最古の禅寺・建仁寺(京都市東山区)で21日、元首相の細川護熙(もりひろ)さん(76)が描いた襖絵(ふすまえ)などを展示する特別展「細川護熙 美の世界」の開会式が開かれた。京都の春夏秋冬を描いた水墨画「四季山水図」全24面が並んだ。
臨済宗を日本に伝え、建仁寺を開いた高僧・栄西の没後「800年大遠諱(だいおんき)」にあたる今年、記念事業の一環で5月4日まで公開する。
寺の塔頭(たっちゅう)、正伝永源院(しょうでんえいげんいん)が細川家の菩提(ぼだい)寺のため、依頼を受けた細川さんが3年以上前から制作してきた。夏に北山杉の木立の間を霧が流れる情景を描いた「渓聲(けいせい)」など8面は今年3月に完成したばかり。細川さんは「800年大遠諱の大変おめでたい節目に奉納させていただき、ありがたいことです」と話した。
午前10時~午後4時半受け付け。大人500円。問い合わせは建仁寺(075・561・6363)へ。(久保智祥)
7月から9カ月間休館へ 県立図書館
県立図書館は1985年に同市中央区千葉城町から移転し、熊本近代文学館を併設して開館。約30年が経過して老朽化し、貴重資料などの保存環境が悪化しているため、隣接する熊本近代文学館の機能を拡充するにあたり、図書館内にも貴重資料収蔵庫を整備するとともに、館内空調設備を全面改修する。
県によると、休館は図書館が7月から2015年3月ごろまで、文学館は7月から15年度後半までの予定。県立図書館協議会の委員からは、利用者への休館の周知徹底を求める意見のほか、「臨時の仮設図書館を設けるなど、休館中も一部サービスを継続してほしい」「市町村や学校など他の公共図書館と連携し、利用者への書籍や資料類の情報提供に努めてほしい」など注文が多く出た。
一方、「休館期間をどう生かすかが大事。市町村など他機関との連携強化や、図書館利用を推進する取り組みを考える期間としてぜひ活用してほしい」「個別資料の保存方法も見直してほしい」といった提案や意見もあった。
県は現時点で、市町村への配本や出前講座など、施設外で提供できるサービスに力を入れる方針で、「休館中にどのようなサービスを提供できるか検討を進める」と話している。(浪床敬子)
今日の読売新聞は「小林一茶、愛妻家の証明 自筆の手紙見つかる」と報道している。
江戸時代の俳人・小林一茶(1763~1827年)が妻に宛てて書いた自筆の手紙など、これまで未確認だった資料45点が京都市内で見つかったと、長野県信濃町の一茶記念館が19日、発表した。手紙は自宅にいる病気がちな妻・きくを気遣う内容で、鑑定した矢羽勝幸・二松学舎大客員教授(68)は「愛妻家だった一茶の優しさがうかがえる」と話している。一茶は、出身の柏原村(現在の信濃町)に戻り、52歳の時に24歳年下のきくと結婚した。3男1女をもうけたが、いずれも幼い頃に亡くなり、きくも結婚から9年後に病死した。妻への手紙の現物が確認されたのは2例目。縦約15センチ、横約32センチの和紙で、宛先は「柏原 留主様」となっている。長野市の善光寺周辺にいた一茶は、9月6日から10日まで長野市の門下生方、11日以降は小布施町の寺に滞在するとして、「(あなたが)もし病気にでもなったら、寺に使いをよこしてほしい」と書いている。これまでに見つかっている日記から、1817年か20年のものとみられる。中村敦子学芸員は「門下生への手紙と違って崩した字が少なく、読みやすい。妻への思いやりがうかがえる」と分析。「宛名に『きく』と書いていないところに、一茶のちゃめっ気が感じられる」と話す。 (2014年3月19日15時39分 読売新聞)
私は俳句つながりで、田辺聖子の小説「ひねくれ一茶」を所蔵している。548頁に及ぶ大作だが、田辺氏の洒脱さが文面に満ちて、一茶の人となりはこんな物であったろうと伺わせる佳作である。きゃんきゃら(お転婆)娘・おきくとの出合や、その死に至る貧しくも豊かな時の流れなど一茶の喜びや悲しみを堪能したものだった。
この手紙をじっくり見て見たいものである。
学研グループのブックビヨンドは、ムック本『歴史群像シリーズ』のバックナンバーから記事単位での電子書籍配信を始めた。
第1弾は、今年のNHK大河ドラマにちなみ、小和田哲男・静岡大学名誉教授の『黒田官兵衛の素顔』など官兵衛関連の記事5本。学研電子ストアなどで1本95円で配信している。執筆者や画像提供者など許諾手続き先が多いムック本は、1冊単位での電子書籍化に手間がかかったが、記事単位とすることで、許諾の得られたものから価格を抑えて配信することが可能になったという。今後、戦国時代の記事を中心に、約500本の配信を予定している。 (2014年3月10日 読売新聞)
春告げる臥龍梅 八代市・松井神社で満開

原発ゼロ 小泉・細川連携でへ流れ変わるか
- 文 保坂展人
- 2013年11月12日
11月12日付の東京新聞は1面トップで、「『原発ゼロ』へ共闘 細川・小泉元首相『国民運動』を」と大きく伝えています。日本記者クラブでの会見で「原発ゼロ」を訴えた小泉純一郎・元首相(71)と、細川護煕(もりひろ)・元首相(75)が連携するというニュースです。以下に引用します。
細川護煕(もりひろ)元首相は11日、都内での本紙のインタビューで、安倍政権の原発再稼働路線を「犯罪的な行為だ」と批判し、「原発ゼロ」に向けた活動を国民的な運動に発展させたい考えを示した。講演会などで「原発ゼロ」を主張している小泉純一郎元首相と会談したことを明らかにし「目的を達成するまで、主張し続けていきたい」と述べた。
いずれも首相時代には原発推進政策をとったものの、「東京電力福島第1原発事故」で根本から姿勢を転換したことに共通点がある。それは、3・11以後に「脱原発」へ転換し、「原発ゼロ」を求める多くの人々と共通し、「原発輸出」や「再稼働」に腐心する安倍政権や経済団体の鈍感さを浮き彫りにするものだと思います。
一方、小泉元首相の語る「原発ゼロ」には、朝日新聞の世論調査でも好感が寄せられています。それによると、小泉元首相が政府や自民党に対して「原発ゼロ」を主張していることについて、「支持する」は60%にのぼり、「支持しない」の25%を上回ったそうです。
首相経験者の発言が脚光を浴びるのは、永田町政治がこの問題で国民の声を代表していないということも示しているように思います。自民党はもとより、民主党も「原発ゼロ」を先導してきた議員が落選するなどして、電力労組の影響下にある労働組合への配慮が目立ちます。その他の野党も、「原発再依存」の既成事実化に対して、一致結束して政策変更を求める布陣を組むにはいたっていません。
東日本大震災と福島第1原発事故を教訓として、エネルギー政策の大きな転換をはかるためには、「原発ゼロ」に向かう人々の声を結集する必要があります。
小さな差異を問題にして手を携えないのも、ひとつの考え方かもしれません。
ただ、私は、日本を「原発再依存」の社会にしたくはありません。そのためにエネルギー政策転換という明確な結果を出す必要があるように思います。その好機がいままさに訪れているように思います。そのためにも、できるだけ多様な声が、複数の異なる立場から発信されて、そのうねりを政治が無視することができないような状況を生みだすべきだと考えます。
さらに、臨時国会の一大争点として浮上してきたのが「特定秘密保護法案」です。そもそも、電力会社は「原発安全神話」を維持するために、事故やトラブルを表沙汰にすることを回避してきました。それは、巨額の広告費を使用して、「原発=クリーン電力」という言論コントロールさえ可能としていたのです。「テロ対策防止」という理由で「特定秘密」として封印された施設や調査結果は、原発の安全性を検証するのにはなくてはならないものです。
何が「特定秘密」に指定されているのかも不明のままでは、原発・核処理施設の取材・調査のために情報に接近することが、秘密漏洩の「共謀」「教唆」「扇動」とみなされて処罰対象となりかねない、とジャーナリストから強い危惧の声があがっています。
誰もが「政治はすぐには変わらない」と思っている時期であるからこそ、一気に流れを変えるチャンスでもあると思うのです
10月18日の熊本日日新聞夕刊に掲載された、大分合同新聞からの提供記事である。細川家の小倉藩時代の日帳に書かれた「葡萄酒」つくりの記事を元に、中津で新たなワインのブランドを立ち上げようという話である。
このことは2009年に永青文庫が日帳の中から発見された。私は2007年福岡県史・近世史料編「細川小倉藩」から該当資料を見つけ出してブログでご紹介した。(ちょっと鼻が高い)忠利公の時代まさか「葡萄酒作り」が行われていたことにびっくりしたのだが、それにもまして我が高祖父・上田久兵衛家の初代がこれに関わっていたことを知って驚いたことを思い出す。
時をへて新たな動きがあることは結構なことだし、これは出来上がったら是非とも買い求めたいものだ。
関係記事を再度ご紹介して置く。
・細川小倉藩版ボジョレー・ヌーヴォー
・memo上田久兵衛家初代周辺
・上田久兵衛家、初代の周辺(ニ)
・黄飯・鳥めし・ナンハン料理
熊本日日新聞に 長崎大に解体の熊本城櫓門の写真 という記事を「撮れたてニュース」として出している。
よくよく読んでみると、「マンスフェルトが見た長崎・熊本」に掲載されている、新三丁目の櫓門の紹介記事である。
この本は 2012年10月3日初版の本であり、今頃鬼の首を取ったような記事に驚いてしまった。遅きに失していますよ・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
長崎大に解体の熊本城櫓門の写真2013年09月19日
|
同門は薩摩・日向街道上に設けられ、熊本城内に入る時の最初の櫓[やぐら]門。江戸時代には門前に番所も置かれ、城下を通る人たちを監視していた。1872(明治5)年、当時の鎮西鎮台司令長官、桐野利秋の命で解体されたという。
オランダ人医師マンスフェルトは71年6月から3年間、現第一高(古城町)の敷地にあった古城[ふるしろ]医学校・病院で臨床医学などを教え、北里柴三郎らを育てた。
門の写真は71~72年に熊本滞在中にマンスフェルト本人が撮影したとされる。「熊本城城壁の表門」というタイトルで、縦169ミリ、横213ミリのモノクロ。
|
熊本市の富田紘一・文化財専門相談員は「城内では天守閣や大手門しか使われていない朝鮮式の垂瓦[たれがわら]が見え、新三丁目御門の重要性がうかがえる」と解説。門のそばには野菜売りのかごや、遊ぶ子どもたちの姿も写っており、「当時の生活を知る史料になる」と話している。(星原克也)