一枚の葉

私の好きな画伯・小倉遊亀さんの言葉です。

「一枚の葉が手に入れば宇宙全体が手に入る」

供養

2017-05-05 15:29:26 | 雑記


      先ほどお寺さんに行って猫の供養をしてもらい
      帰ってきました。

      昨年、若いソラという猫が死んだときは家人にまかせて
      付き合わなかったので、私は今回がはじめて。

      お寺さんとはいっても、犬猫霊園はニンゲン様の入り口
      とは違って別棟になっている。

      お経をあげてもらい、線香をたてて拝むのはニンゲンと
      同じ。
      (……ハ~ラ~ミ~……というお経は一般のお葬式でも
       聞くが、ニンゲンと動物では違うのだろうか)

      お代は
      かなりメタボで大きな猫だったので¥16000なり。
      (大きさによって違うらしい)

      さて死なれてみて初めて、その愛らしさに気づく感情は
      どうしたことだろう。
      決して猫好きでもなく(むしろ嫌い!)、たいして
      可愛がらなかったくせに、である。

      生後3年くらいに、娘夫婦が北欧に行くので2ヶ月ばかり
      預かったことがある。
      (当時、私は夫を亡くし独り暮らしだった)

      マロはちょうど少年期のやんちゃ盛り。

      歯をみがいていると、突然、背中によじ登ってくる。
      (後ろ姿にスキがあるのだろう)
      夏だったのでTシャツ一枚だと背中に爪があたって
      びっくりするやら、痛いやら。

      私が外出から帰ると、玄関で横になって甘えてくる。
      (遊んでもらいたい?)
      そして着替えをする足元にからまりついてくる。

      かと思うと、
      猫は夜行性だから、夜中に家じゅうをダーッと走り
      まわる。

      等々、悪行のかぎりを尽くして、マロが帰ったとき
      は心底ほっとした。

      そんなやんちゃなマロも7~8年たつと落ち着いて
      きて、さすがに背中によじ登ることはしなくなった。
      私はかえって、人間の老いをみる気がして、せつない
      思いがしたものだった。

      そして、昨年は膵臓に腫瘍ができて(犬猫の)大病院
      で摘出手術。
      
      マロもこれまでか、と思われたが、なんとか乗り切った。
      でも老いにあらがうことはできず、静かに餌を食べ、
      一日のほとんどを寝ていることが多くなった。

      この一年、
      私は自らの老いと重ねあわせ、複雑な思いで見守った。

      死は突然やってきた。
      (死というものはいつでもそうだが)

      供養をしてもらい、帰る車の中で、そんなことを思い、
      さあ、家に着いたらマロの使っていた部屋の掃除だ!
      と自らを鼓舞した。

      ※ 写真は飼いはじめたころの赤ちゃんのマロ
      
      

      
      



      

      
      

猫の死

2017-05-05 07:59:54 | 雑記


       一匹だけ残っていた老猫のマロが一昨日、死んだ。

       アメリカンショートヘア 雄 生後15年

       3日前、私が千葉の親戚を訪ねて夜遅く帰宅した。
       猫のいる二階でけたたましくマロの鳴き声がする。
       (ふだん、マロはほとんど鳴かない)
    
       よほどお腹がすいているのか。
       そう思って、餌をやろうと二階に上がった。
       マロは子ども部屋の前でうずくまっている。

       どうやら下半身がうごかなくなった様子。
       けたたましく鳴いたのは最後の叫びだったのだろう。

       水をやると、それでもぺろぺろと舌をならして
       少し飲んだ。

       ああ、よかった!
       少し胸騒ぎはするものの、水を飲む元気があること
       に安心して、私は階下で夕食やお風呂の用意等々。

       翌朝、二階が異様に静か!
       マロは前日の夜のそのままの姿勢でこときれていた。

       マロ、頑張ったね!!
       思わず、涙した。

       人間なら痛いの痒いのといって大騒ぎするだろうに、
       猫はひとりでひっそりと死んでゆく。
     
       人間より動物の方がよほど崇高だ。
       最後にけたたましく鳴いたのは断末魔の叫びだった
       のだろう。
       はからずも最後に水を飲ませたことで、この私が
       死に水をとったことになる。

       ふだん、猫をあまりかわいがらなかったくせに、
       私は深く胸を揺さぶられていた。

       しかし一方で、さあ、どうしようという思い。

       家人はゴールデンウィークの最初の日に旅行に出て
       帰ってこない。

       猫アレルギーのある私は死んで物体と化したマロを
       抱きあげることもできない。

       咄嗟(とっさ)にやったことは、
       新しいタオルを出して掛けてやり、大きい保冷剤を
       お腹まわりに当ててやることだった。
   
       (家人が帰ってくるまで保つだろうか)

       そして夕べ、ようやく家人が帰ってきた。
       大きい段ボールに布を敷いてマロをおさめ、
       保冷剤を新たに入れて、お寺さんに連絡。

       今日、これからお寺さんに行ってマロを焼いてもらい、
       納骨の予定です。

       猫の15年というのは、人間でいうと70代半ばらしい。
  
       ほとんど同世代のマロの死をいたみ、
       自分はあんなに見事に死ねない、という思いに駆られて
       いる。


       ※ 在りし日のマロ