さっきも電話が入った。
外出先から急ぎ帰ってお茶を飲もうとしていた
ところである。
「○○さんですか」「はい」
「○○△△さんいらっしゃいますか」
男の人の声で、やけに慇懃である。
「私ですけど」
「先日もお電話した××保険ですが」
「はあ?」
この辺から私の声はとげとげしくなる。
相手は保険会社の名前を二度くりかえした。
「勧誘か何かでしょうか。あの、保険はたくさん
入っていますのでお断りしたはずですが」
先方はまた粘って、くりかえそうとする。
「今取り込み中なので失礼します」
ガチャン!!
受話器を置いた。
(電話で勧誘するなよ~)
(用があるときはこっちから連絡するさ)
私はお茶をすすりながら、まだうそぶいている。
不愉快な気持ちはしばらくおさまらない。
こんなことが頻繁になると、どうやら私の頑固さ
は年齢とともに度を増してくるようだ。
年々、こらえ性がなくなってきているように思う。
古代ローマの政治家、哲学者のキケロは「老年論」
のなかでこんなことを云っている。
<人生のおのおのの時期には、それにふさわしい
ものが備わっているんだよ。
少年期の元気よさ、壮年期の重々しさ、老年期の
まろやかさには、何か自然なものがある。それを
それぞれの時代に享受すべきなのだ>
老年期のまろやかさ、ねえ。
ここで私はしばし、考えこむ。
そして、2000年前のキケロさんはこう諭す
のである。
<人はやはり、いつまでも生きようとはせずに
それぞれ適当なときに消え去ることが望ましい
のだ。
自然は他のすべてのことに限界をおくのと同じ
ように、生きることにも限界をおくからだ>
老年期のまろやかさにはほど遠いけど、
私だって、少しは忍耐づよく、不意の電話にも
臨機応変の対応をしたいと思っているのだ。
※ 陽だまりの水仙