新島襄が46歳で亡くなったのは明治23年
のこと、そのとき八重は43歳であった。
それからの八重は同志社とは距離をおいて、
独自の生活に。
あれほど苦労して襄をささえてきたのに、未練
たらしくしがみついたり、学校経営に欲を出す
なんてこともしない。
何をしたかというと、日清、日露戦争では篤志
看護婦として傷病兵のために身を粉にして働いた
り、茶道をきわめて、晩年は若い娘さんたちに
お茶を教えたりしている。
このさっぱりした生き方、人生のリセットの
達人!!
見事というほかない。
写真は娘さんたちに茶の指導をする八重。
若いころの顔とちがって、清々しいほど柔和
である。
そして、若いころよりずっと美人でもある。
若いころ、ギンギンしていたひとが老いてから
毒気がぬけて腑抜けになってしまうことが
よくあるが、それとは違う生気がみなぎって
いる。
これはどこからくるものだろうか。
不思議な魅力をもったひとである。