唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 能変差別門 (22) 随境得名

2012-08-09 23:05:42 | 心の構造について

 問いをうけて、料簡(りょうけん。考え調べること)する。六識の名は根に依り、或いは境によるけれども、諸論には多く一切位に通じて五義を具す随根得名によって眼識乃至意識と名づけるのであることを説明します。

 「此の後の境に随って六識の名を立てたるは五色根が未自在なるに依りて説けり。若し自在を得つるときには、諸根互用(しょこんごゆう)するを以て一根いい識を発して一切の境を縁じぬ、但根に随う可し、相濫ずる失無しを以て。」(『論』第五・十六左)

 (この後の境(認識対象)に随って、六識の名を立てたのは。五色根が未自在位という位によって説いたのである。もし自在を得たときには、諸根互用するので、一根が識を発して一切の境を縁じることになる。

 随境得名はただ未自在位のみに限る。無漏の五識現在前する自在位にあっては五根が互有するから五識が自根に依って遍く五境を認識する、例えば眼識が眼根によって色境を縁ずるのみならず、余の四境をも縁ずることになり、自在位あって随境得名するならば、一識を色識乃至身識と名づけ五種の区別がなくなってしまうのである。そうなると境に随って名をたてると相濫ずることになる。

 六識の名はただ根に随うべきである。根に随って名を立てるならば、相濫ずる過失はないのである。)

 随境得名は未自在位のみに限って名をたてられたのであり、自在位では問題が起こることを示唆しています。「諸根互有」という問題です。

 諸根互有 - 諸根が互いに他の作用をもすること。眼根乃至身根が転依することに於て、その働きが自在となり、ある一つの感官、例えば眼根が色だけではなく、声・香・味・触をも感覚できるようになることをいう。

 未自在位では問題ないが、自在位では、各識がそれぞれ五境の一切を認識することになり混乱がおこることになる。眼識が耳識とも乃至身識とも名づけ得ることになる、ということです。

 従って、六識の名は未自在位・自在位に通じて五義を具する随根得名によって名づけられるべきであると結論しています。

 『述記』・『演秘』・『樞要』『了義燈』に説かれている諸根互有については明日述べます。

 

 


第三能変 能変差別門 (21) 随境得名

2012-08-08 21:13:00 | 心の構造について

 第三、まとめ

 「故に六識の名は、相濫ずる失無し。」(『論』第五・十六左)

 (故に、六識の名は、相い濫じるという過失はない。)

 「斯の理に由るが故に、六識の名を得たること互に長ずる所有り、相濫ずる失無し」と『述記』は説明しています。

 六識の名は互に特徴を示し、その長ずるところを以て互に混乱することはないのである、と。そして随境得名は未自在位のみに限るといわれています。

 「六識というものを立てるについて、識というものは所依の根と所縁の境とをもったものであるが、その点から六識は一面は根により、一面は境によるから、六識の名は根による場合と、境による場合の二つが可能である。眼識乃至意識は根により、色識乃至法識は境による。根による場合に五義を具するということを理由にあげた。根は、増上なる作用である。眼根は見ること、意根は思量することである。そういう作用が六識というものを起こすのに増上なる力をもつ。五義を具することで増上なる力をあらわす。眼識というのは眼に依る識である。「依る」という中に、総じては「依る」であるが、その依ることの中に、発・属・助・如という義がある。これらの五義ということによって増上なる機能をあらわす。そういうところから根によって名を立てる。

 その次に境によって名を立てるという。六識の名を立てるについては、随根立名と随境立名ということがあって、五義を具するのは随根立名である。五義を具することによって根の意義を明らかにする。全く六識は六根によって起こされたものであるから、六根と一つである。ところが、境によって名を立てる方は、「識の義に順ずるが故に」といわれる。そうすると実はこの方がむしろ、識の独自の意義をあらわしていると考えられる。識は了別である。了別が作用であり、識自体をあらわしている。了別作用が識作用である。境によって名を立てるのは、識の識たる所以をあらわす。識そのものの本質的な意義をあらわしている。根は識の前提である。根によって了別するというが、根はむしろ識の前提であり、識そのものは境の了別作用である。根を前提とする識そのものの識たる所以をあらわすのは、むしろ境である。了別が識法といわれるものの法相である。識の了別という意義を、境において立てられた名はあらわすわけである。」(『安田理深選集』第三巻p234~235)

 「 論。故六識名無相濫失 述曰。由斯理故六識得名互有所長。無相濫失。倶舍云。雖色等境通皆名法。但法界名法。餘不名法。雖標總稱而即別名。意能了此故名法識 問六識得名依根依境。爲唯凡有。通在三乘。」(『述記』第五末・五十右。大正43・417a)

 (「述して曰く。斯の理に由るが故に、六識の名を得たること互に長ずる所有り、相濫ずる失無し。『倶舎』(巻第一)に云く、色等の境にも通じて皆法と名づくと雖も、但法界のみを法と名づけ、余を法と名づけざることは、総称を標すと雖も而も即ち別名なりと云えり。意は能く此れを了するが故に法識と名づく。

 問。六識の名を得たることは、根に依り境に依ってなり。唯だ凡にのみ有りと為んや、通じて三乗に在りや。」) 


第三能変 能変差別門 (20) 随境得名

2012-08-07 21:26:34 | 心の構造について

 別法に随って法識の名を得る。

 「或能了別法独得法識名」(『論』第五・十六左)

 この科段の読み方に二通りあることが『新導本』p212に述べられています。別法の義と別識の義になります。

  •  (1) 別法の義 「或は能く別の法を了すれば、独り法識という名を得たり。」
  •  (2) 別識の義 「或は能く法を了別すれば、独り法識という名を得たり。」

 「能了別法に二説あり、一は別の法、二は別識なり。然も初は本義なり。第一説訓じて云く、能く別の法を了す。謂く見分能く不共別の法処を了す。別法とは相分なり。第二説訓じて云く、能く法を了別す、謂く第六見分の法処を了別す。」

 本義は別法の義になります。別法の義というのは、第六意識は十二処中の第六の外処(第六識の認識対象は、六境中の法境であり、これは十二処中の法処であり、六外処の中の五外処と別している。即ち五外処とは別法であり、法そのものをもってその名を法処という。)のみを了するので、この別法に随って法識と名づけるのである、と。

 外処(げしょ) - 外六処(げろくしょ)と同じ。十二処の中の自己の外にある六つの処。六つの認識対象である色・声・香・味・触・法をいう。所縁となるもの。所依となるものを内処という。法処以外の五外処も法ではるが、五外処は、個別に名をもち、それぞれ色処・声処・香処・味処・触処といい、処とは認識対象であることから、色境乃至触境である。

 「論。或能了別法獨得法識名 述曰。謂十二處中別名法者。謂第六外處。別名爲法不與餘境共同名故。此之別法第六能了。從獨所了以得彼名。故唯第六識1若法識也。亦從不共得法識名。此能了言即是見分。分別之言即是相分。非謂別上有了字故遂言了別也 或彼法處六能了別獨名法識。即了別言唯在見分。亦有此義。然不共名別。是本義意。」(『述記』第五末・四十九左。大正43・416c~417a)

 (「述して曰く。謂く十二処の中に別して法と名づくるは、謂く第六の外処なり。別に名づけて法と為ることは、余の境と名を共同せざるが故に。此の別法をば第六能く了す。独り所了(認識されるもの)に従って以て彼の名を得。故に唯だ第六識を法識とのみ名づくなり。亦不共なるに従って法識の名を得たり。此の能了(認識すること)の言は即ち是れ見分なり。分別法の言は即ち是れ相分なり。別の上に了の字有るが故に、遂に了別と言うと謂うには非ず。或は彼の法処は六能く了別すれば独り法識と名づく。即ち了別の言は唯だ見分のみに在り。亦此の義有り。然るに不共なるを以て別と名づくる是れ本義の意なり。」)

 五処とは別の法を第六識のみが了するので、第六識を法識と言う、と。これが別法の義であり、本義とされると説かれています。

 「故に六識の名は、相濫ずる失(とが)無し。」(『論』第五・十六左)

とまとめられています。  


第三能変 能変差別門 (19) 随境得名

2012-08-06 21:19:40 | 心の構造について

 「何が故に眼識をば法識と名づけず、第六意識を色識と名づけざるや。」(どうして眼識を法識と名づけず、第六意識を色識と名づけられないのであるのか。)という問いに対しての答えがこの科段になります。

 「色等の五の識は、唯色等のみを了す、法識は、通じて能く一切の法を了す。」(『論』第五・十六左)と答えられます。

 (色等の五つの識は、それぞれ、ただ色・声・香・味・触のみを了別する。法識というのは、すべてに通じて、よく一切の法を了別するのである。)

 問いの内容になりますが、もう少し詳しく疑問点をだしますと、随根得名において、眼根に依る識を眼識乃至意根に依る識を意識と名づけられていました。その理由が、根に随って、名を立てたのは、根は五つの義を備えているからである、この五義を備えていることから、六識は、その識が依り所としている根によって名づけられるのである、と。そうであるならば、眼識の認識対象である色は、色法という法(ここでは存在という意味)の一つである、眼識は、法を所縁としているので、眼識を法識と名づけられるべきであるが、そう名づけられないのは何故なのか、またその一方で、意識が了別する認識対象にも色がある、そうであるならば、どうして意識は、色識と名づけられないのであろうか、どうしてそうではないのか、という疑問ですね。この第一の疑問に対する答えの第一答がこの科段なのです。

 「色等の五の識は、唯色等のみを了す」、と述べられています。眼識の認識対象(境)は色(境)ですね。「のみ」と説かれていますように、ただ色境に限るということです。他の境は識別対象とはならないということで、「境界狭きが故に法識と名づけず」と『述記』は説明しています。法といっても色境に限るという狭いものである、と。

 「第六の法識は能く一切の法を了す」、一切ですからすべてです。過去・現在・未来に通ずるわけです。三世十八界の一切諸法を認識対象とする、この意識の認識の対象範囲は寛いので、「了する境寛きが故に色等の識と名づけず」と説かれるわけです。

 論。色等五識至了一切法 述曰。前之五識唯了色等。境界狹故不名法識。第六法識能了一切法。了境寛故不名色等識又第六識更爲別解」(『述記』第五末・四十九左。大正43・416c) 

 (「述して曰く。前の五識は唯色等のみを了す。境界狭きが故に法識と名づけず。第六の法識は能く一切の法を了す。了する境寛き故に色等の識と名づけず。また第六識において更に別解を為す」)

 別解とは次の科段で述べられますが、第六意識は十二処中の第六の外処のみを了するので、この別法に随って法識という名をつけるのである、といわれています。


『下総たより』 第三号 『再会』  追加 Ⅱ (その3)

2012-08-05 18:19:51 | 『下総たより』 第三号 『再会』 安田理

 「凡て存在というものは存在の仕方が時間、願という時間に於て人間は実存となる。願生者、人間は人間をこえて無限になってゆく、無限になってゆくものに満足する、不満だから求めるのでない。不満でもとめるのは理想です。純粋未来は純粋未来の方が現前している。純粋未来を根にもったあらんとするところのある。それが実存というもの、あらんとするところにある願生の時間、願の時間というもの、人間がそこで人間に安んずる。それが安心、未来に理想を追うのでなくして、現在無限にあらんとするところに満足する。満足するような願をもったこと、こういうのが根元的時間、未だかってない時間、過去は宿業の時間、純粋未来の時間はそれが現在の根元、つまり純粋未来にふれて始めて現在に満足できる。願のままが成就、永遠に成就せね願がそこに成就する。それが現生、そういうところに永遠の今、純粋の未来は永遠の今にある。生産する時間、生産的時間、それは願、願という形で存在しているものが人間、願という存在の仕方をもって存在するのが人間実存、実存があるような時間、人間が人間になるような時間、人間というものはあるものでない。あるものを超えてあるものになろうとするのが、あるものに帰ろうとする。なるは帰る所以、往生というのはゆくこと、ゆくのが帰る所以、ゆかずに帰るというのが支弁、娑婆即寂光浄土、ゆかずに帰るというのが支弁でないか、娑婆即寂光浄土というのは無時間、そうかといって限定された描かれた時間でない。ゆくということは帰る所以、根元に帰るという形が未来という形をとる、純粋未来というものを現在の根底にもつ、それによって人間は人間となる。

 そういう時間から歴史をみれば仏教史観、仏教史観の他に史観をもってきてはいかん、正像末の史観というものも本願の史観にかえる契機である。理想主義的時間というのが過去現在未来、古代中世現代、正法像法末法、これは過去を基底にした時間で、未来のものに近づいてゆくのが理想主義的時間である。いつでも時間を破って時間を生産するような時間、過去的時間でも正像末の時間でもない、進化発展の時間でもないし、滅亡する時間でもない。滅亡することを転機として見出す時間。

 いつでも正法末法を通して、かえって正像末を統一するような、いつでも本願の展開、そいう原理が、あらゆる人間社会の曲折もあれば失敗も成功もあるが、堕落するのを喜ぶわけでないが恐れぬ。仏法が滅亡するということは悲しみであるがそれによって絶望せぬ。そういう本願の逆の時間がない限り人間はいつでも夢を追いかける、あきらめては又描く、それが失敗して現実に悲哀する、そいう求めて得られん、得られんけれども求めずにおられんという流転の時間、そこに終止符を打つのが正像末の時間。如何なる絶望にも立ち上がってくるのが本願の時間、永遠にあらんとする、あらんとするという時間は理想主義の時間でもないし、無時間でもない。

 仏法も時間を否定するような観念論に転落すると、今が永遠の中に消えてしまう。無限の今、永遠の今が今になってゆく、今が今から今へ、そういうところへ帰る、帰ることが出る所以、無時間では方向がない。帰るのは出る所以で往相還相の方向がある。過去から未来へではない、往還、ゆくことはかえること、根元にかえる意味もあるし、また現実にかえるのが往相、時間の根元にかえるのを法性のみやこにかえる、法性に都にかえるというのは、往相また還相という意味からもかえるのが二重の意味がある。往相というのはゆくとという形になっている、ゆくというと無時間無時間を包んで時間、無時間も時間の否定にならん。時間の否定にならんというところに時間の根元がある。そいうことは願というよりない。

 根元的時間は願、願に生きるということは、そういう無限にあらんという形で生きる。人間が自己の根元を自覚して生きる、それがあらんという時間、理想は化土、描かれるものは化土である。だから描けない未来に生きる、満足すればするほど願う、描けない未来に生きるが未来にも腰を落付けん、いつでも立上がってゆく、そういうものを根底に見出してこそ生きることに絶望せぬ。人類の社会に絶望せぬ、あらゆる史観は正像末の史観は、転換して本願史観にかえる。       (「追加 二」 完了)


『阿毘達磨倶舎論』に学ぶ。 序章 (2)

2012-08-05 17:19:26 | 『阿毘達磨倶舎論』

 阿毘達磨とは、辞書をひもとくと次のように解説がなされていました。

 「阿毘達磨(あびだつま、サンスクリット:abhidharma ???????) 音写:阿毘曇(あびどん)、毘曇(びどん)

  1. 対法と訳される。これは、原語を abhi-dharma と見て、「法(この場合、存在現象)に相対する」という意味になる。後述のように主に存在現象の分析により、それに対する執着を捨てようとしたことから名づけられた。
  2. 論と訳される。これは、原語を「教法の究明」と解釈して、こう呼ぶ。


釈迦の没後、その教説は経や律に集成されたが、次第に整理され、教説の解釈・注釈・理解などを通じていくつかの学説に発展したが、このような究明を阿毘達磨という。その特色は教説をあらゆる角度から分析的に説明することにある。

部派仏教時代には、とりわけ分析的煩雑な論書の作成が多く行われ、現在ではスリランカの南方上座部と文献がもっとも多く漢訳された説一切有部に属するものが多く伝わっている。

  • スリランカの上座部は、論蔵をもつが、それは『法集』などの7つの論書でできており、さらにこの論書の注釈書が作成された。
  • 説一切有部では、『六足論』と『発智論』の7つの論書を論蔵として、多くの注釈書が作成された。

いずれも、分析的研究がすすみ過ぎてしばしば煩雑になりすぎ、釈迦の真意から離れることもあった。 しかしながら、存在現象の分析とそれをどのように認識しているのかという研究は、後の大乗仏教の精神作用の分析にとって大きな影響を与えた。

この阿毘達磨論書の中で、現在最も著名なのが『阿毘達磨倶舎論』である。この書は、説一切有部の『発智論』とその注釈書の『大毘婆沙論』の内容を体系付けながらまとめ上げたものである。」

                   ―     ・      ―  

阿毘達磨とは、釈尊没後の学僧達が一つの体系としてまとめあげたもので、正確的にはアビダルマ・シャーストラ(阿毘達磨論)と呼ぶべきものでありましょう。釈尊没後、その弟子たちが釈尊の生前の教説をまとめあげ、伝承されたものをアーガマ(教えの伝承)と呼んだんですね。音写して『阿含』あるいは『阿含経』という名で知られています。

 阿毘達磨とは対法と約されますが、「ダルマに対する研究」という意味のほうが解りやすいと思われます。この研究された論書が教義学文献群として成立され、その完成態が『阿毘達磨倶舎論』(アビダルマ・コーシャ)なのです(以後『倶舎論』とよびます)。そして『倶舎論』の構成については前回述べましたので参照してください。


第三能変 能変差別門 (18) 随境得名

2012-08-02 20:43:53 | 心の構造について

 所縁の境は了別する境の名であり、その所縁の境に対して了別の作用が各別であるので色識乃至法識と名づけられる。

 「境に随って名を立てたるとは、識の義に順ぜるが故なり。謂く六の境の於に了別するを識と名くるをもってなり。」(『論』第五十六左)

 (境に随って名を立てるのは、識の意味に順じるからである。つまり六つの境に対し了別するのを識と名づけるからである。)

 「論。隨境立名至了別名識 述曰。謂了境名識。即隨境立名。順通・別名識之義故。謂於六境了別名識。釋順義也 問眼識所了色亦是法。意識所了亦有色等。何故眼識不名法識。第六意識不名色識。爲答此問故次論云。」(『述記』第五末・四十九右。大正43.417c)

 (「述して曰く。謂く境を了するを識と名づく。即ち境に随って名を立てたるは通じても、別しても識と名くる義に順ずるが故に。謂く六境に於て了別するを識と名づくるは順の義を釈するなり。

 問。眼識の所了の色も亦是れ法なり。意識の所了にも亦色等有り。何が故に眼識をば法識と名づけざる、第六意識を色識と名づけざるや。

 答。此の問を答えるが為の故に次の論に云く。」)

  • 通とは - 行別境識
  • 別とは - 眼識乃至意識

 問いが出されていますね。眼識の所了の色も法である、そして第六意識の所了も亦色等である。そうであるならば、眼識を法識と名づけ、法識を眼識と名づけてもいいのに、何故に眼識を法識と名づけず、また第六意識を色識と名づけられないのか、と。 

 この問いに対して答えられるのが次の科段になります。

 前五識は各色等のみを了別し境界狭くして法識とは名づけられないのである。第六意識の法識は通じて一切の法を了別する。要するに了別する境界が寛いので、色等の識とは名づけないのである、と説明されます。

 


第三能変 能変差別門 (17) 能縁彼彼境之識

2012-08-01 22:52:21 | 心の構造について

 第二釈を述べる。依士釈による名である。(第一釈は六識の各々の名は、識の所依である根によって名づけられることを説明した。)

 (1) 六識は、所縁の境に従っても名づけられることを説明し、(2)、その疑問点について答える。(3)は結ぶ。

 「或は色識乃至法識と名く。」(『論』第五・十六左)

 (あるいは、色識から乃至法識と名づけるのである。)

 第二釈は、六識の各々の名は、識の所縁の境によっても名づけられることを説明する。所縁の境である、色・声・香・味・触・法の境を縁じることから六識が色識乃至法識と名づけられるのである、と。

 「此下六識從境得名論。或名色識乃至法識 述曰。此亦依士釋。能縁彼彼境之識故。」(『述記』第五末・四十五右。大正43・416c)

 (「述して曰く。此れは亦依士釈なり。 能く彼彼の境を縁ずる識なるが故に。」)

 「論。惑名色識等者。有義疏説亦依主釋。今解通有財釋。以能有境名色識等。即有財釋 詳曰。若汎爾言非無此義。辨論所説但依主釋。故論斷云隨境立名。順識義故。謂於六境了別名識。不言有境而名爲識。」(『演秘』第四末・三十九右。大正43・905b)

 (「論に「或名色識」等とは、有義は疏の説は亦依主釈なり。今解すらく、有財釈(うざいしゃくー六合釈の一つ)にも通ず。能く境を有するを以て色識等と名く、即ち有財釈なり。

 有財釈 -六合釈(ろくがっしゃく、或いは、りくがっしゃくと読む。)の一つ。六合釈とは、持業釈・依主釈・有財釈・相違釈・ 隣近釈・帯数釈の六つをいう。複合語を構成する初めにある語と後にある語との関係を解釈する方法の分類。有財釈は、複合語全体が形容詞の作用をなし、「持つ」「有する」の意を表すもの。

 詳らかにして曰く、若し汎爾に言うときは此の義無きに非ず。論の所説を弁ずるときは但依主釈なり。故に論に断じて、今日に随いて名を立つるは識の義に順ずるが故なり。謂く、六の境に於て了別するを識と名づくるをもってといえり。境を有するを名づけて識と為すとは言わざるをもってなり。」)

 要するに、所縁の境に随って能縁の識を色識乃至法識と名づけるのである、と。その説明は次の科段において説明されます。