問いをうけて、料簡(りょうけん。考え調べること)する。六識の名は根に依り、或いは境によるけれども、諸論には多く一切位に通じて五義を具す随根得名によって眼識乃至意識と名づけるのであることを説明します。
「此の後の境に随って六識の名を立てたるは五色根が未自在なるに依りて説けり。若し自在を得つるときには、諸根互用(しょこんごゆう)するを以て一根いい識を発して一切の境を縁じぬ、但根に随う可し、相濫ずる失無しを以て。」(『論』第五・十六左)
(この後の境(認識対象)に随って、六識の名を立てたのは。五色根が未自在位という位によって説いたのである。もし自在を得たときには、諸根互用するので、一根が識を発して一切の境を縁じることになる。
随境得名はただ未自在位のみに限る。無漏の五識現在前する自在位にあっては五根が互有するから五識が自根に依って遍く五境を認識する、例えば眼識が眼根によって色境を縁ずるのみならず、余の四境をも縁ずることになり、自在位あって随境得名するならば、一識を色識乃至身識と名づけ五種の区別がなくなってしまうのである。そうなると境に随って名をたてると相濫ずることになる。
六識の名はただ根に随うべきである。根に随って名を立てるならば、相濫ずる過失はないのである。)
随境得名は未自在位のみに限って名をたてられたのであり、自在位では問題が起こることを示唆しています。「諸根互有」という問題です。
諸根互有 - 諸根が互いに他の作用をもすること。眼根乃至身根が転依することに於て、その働きが自在となり、ある一つの感官、例えば眼根が色だけではなく、声・香・味・触をも感覚できるようになることをいう。
未自在位では問題ないが、自在位では、各識がそれぞれ五境の一切を認識することになり混乱がおこることになる。眼識が耳識とも乃至身識とも名づけ得ることになる、ということです。
従って、六識の名は未自在位・自在位に通じて五義を具する随根得名によって名づけられるべきであると結論しています。
『述記』・『演秘』・『樞要』『了義燈』に説かれている諸根互有については明日述べます。
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