唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 遍行(五遍行について)

2010-08-05 23:23:21 | 心の構造について

       遍行について・五遍行についての教証

 「此れが中に教とは。契経(かいきょう)の言うが如し。眼と色といい縁と為って眼識を生ず、三和合して触あり、触と倶生して受と想と思とあり、乃至広く説けり。斯に由って触等は、四つながら是れ遍行なり」(『論』)

 「即ちこれは別答なり。初めに教をもって答し、後に理をもって答す。

 瑜伽の五十六巻にも此の経を引いて経部等を破す。大小(乗)の共許なり。即ち阿含経なり。前者をまた起尽経ともいうなり。これはこれ初めの経なり。何故にこれが中にただ四のみを説くとならば、触を依とするをあげたり。前の第三に云うが如し。瑜伽には何故にただ触は受、想、思の三法がために依となると説けるや。蘊として勝れたるをあげるが故にといえり。即ちこれは触が三蘊を生ずるなり。しばらく作意をかくして説かざることは、即ち行蘊に摂するが故なり」(『述記』)

 (意訳) 触・受・想・思の四は必ず遍行であることを経典の内容を証拠として証明する。経というのは、阿含経に説かれていることである。「眼根と色境とが縁となって、眼識を生ずる。眼根・色境・眼識の三が和合して触がある。そして触を倶生して、受と想と思とがある」と、『阿含経』(大正二・74b~c)には広く、詳しく説かれている。これによって、触等は、四つながら遍行であるということが証明される。

 ここに云われる経典は『雑阿含経』です。何故引用されるのかは、大乗・小乗をとわず、「共許」といわれますように、『阿含経』は、大乗・小乗両方に承認された経典であることが論拠になるわけです。ここが非常に大事なところになります。なぜなら、大乗のみ、あるいは小乗のみの承認された経典である場合は引用の根拠として不十分であるのです。護法が『阿含経』を大事にしていたことがわかり、また法相唯識が『阿含経』を大切に取り扱っていたことがよくわかります。また『瑜伽論』全体を通じて『阿含経』の影響を受け、経部等を論破しているこは注意されるべきことです。

 私たちは、小乗仏教ということで、いささかの偏見をもって、大乗に劣ったものという見方をしますが、そうじゃないのですね。私は清沢先生が「予の三部経」として『阿含経』と『歎異抄』と『エピクテタス語録』を挙げておられますが、意味のあるところであると、今はじめて感じました。1897年・34歳のころに『阿含経』に親しまれていたのですね。そして翌年の1898年に「エピクテタス氏教訓書」に出会われるのです。『歎異抄』はミニマムポシプルといわれる禁欲生活を始められた1890年・27歳の頃に親しまれたといわれています。この一連の流れの中にも、大小を問わずに共許の心をもって仏教そのものの本質である人間解放の道を探し求められた先生の姿が思い起こされます。また、護法・玄奘・基の論師も、辺見をもたずに真摯に道を求められた姿が想像できます。倶舎・唯識が仏教の基礎学といわれる所以も頷けるわけです。

 後が作意が偏行であることの証明がされます。