釈尊伝 (82) 転法輪 : 梵天の勧請 その(2)柳は緑
禅宗などでは、そういうことを”柳は緑、花は紅”という言葉で表現します。柳は緑という意味は、一年中緑という意味ではないのです。春になると葉を出してくる。秋になれば枯れて落ちるのですけれども、しかし毎年春になって葉を出してくればかならず緑の葉を出してくるということです。花は紅というのは、別に花といったらすべて紅だという意味ではありません。紅い花だといわれるものなのです。それも、かならずしも紅い花が一年中咲いているわけではありません。一年中咲いていたら、それは造花にすぎない。花は咲いたら散るものです。しかし翌年春になるとまた咲いてくるときには、去年咲いたときと同じ紅い花が咲いてくるという、それが毎年、毎年変わらないという意味です。一つの規則のように、花が咲くならば紅い花として咲いてくるという、白い花ならばかならず白い花が咲くということ。それがないと花が植えられないわけです。紅い花の種を蒔いたつもりであったのが、白い花が出てきた。よく朝顔などにはそういうことがあります。朝顔を蒔いてみると、思いもかけない色の花がでてきたりする。これは交配によって変わるからであります。けれども一応、・規則正しく、毎年変わらないものは、柳の葉がでてくるときには緑色の葉となってでてくるという、こういうような意味で、 ”柳は緑、花は紅”ということばでもって、この法という意味を、いいあらわしています。
ー その(3) そのまま常住 -
また別の言葉では"花は咲く咲く常住、散る散る常住”という言葉もあります。咲くままが常住、散るままが常住だと。こうなるとすこしわからないです。常住というのはいつも失われないという意味であります。花は散っているのだけれども、花はなくなってしまったのではない。なぜかというと、来年になるとまた咲いてくるということです。花は散ってしまって、影も形もなくなった。見たところはそうだけれども、花は依然としてなくなっておらない。その証拠には、春になるとまた同じような色の花が咲いてくる。こういう意味であります。 (つづく) 『仏陀 釈尊伝』 蓬茨祖運述より
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第三能変 列名釈義門 有部の説を論破する
初めに有部の説を挙げる。後に護法が論破する。
「有るが説かく(有部)、要ず境を希望する力に由って諸の心心所いい方に所縁を取る(有部の主張)、故に(証拠を引く)経に、欲をば諸法の本と為すと説けり」(『論』)
(意訳) 有部が説くのは、かならず境を希望する力に由って、諸々の心・心所は、所縁(認識対象)を取る(把握する)のである。そのために、経典(中阿含経)に、「欲を諸法の根本とする」と説かれているからである。故に欲は遍行であると、有部はいうのである。
この主張はよくわかります。納得ができます。何かを求める意思によって、心・心所は対象を認識するわけですから、もし何かを求める意思がなかったならば、すなわち欲がなかったならば、心・心所は対象を認識することはないだろう、どのようにして認識するのであろうか、という主張ですね。だから心王が生起するときには、欲は必ず倶に働く心所であるので遍行であると、いうわけです。その証拠に『中阿含経』を引用して証明します。その言葉は「欲を諸法の本とする」(経説欲為諸法本)というものです。
ここは『述記』には詳しい説明はありませんが、論破するところで詳しく説明がなされます。問題としては何故『中阿含経』では「欲を諸法の本と為す」といわれているのか、ということです。(安田理深選集 第三巻 p277~p289 を参照してください)
尚、『倶舎論』大地法の記述は前にも述べましたが、次のように説かれています。
「受と想と思と触と欲と、慧と念と作意と勝解と三摩地とは一切の心に遍ず」