唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

別境 念の心所について ・ 釈尊伝(90)

2010-08-28 22:31:22 | 心の構造について
残暑は非常に厳しいものがありますが、少し気候が変化してきたようです。大阪は猛暑日が、連日連夜で続いているのですが、風通しのなかで、少し秋の気配を感じます。そういえば、トンボが飛んでいました。自然界では秋を感じているのですね。そんな自然と一体になって秋の気配を感じる我が身でありたいです。
 釈尊伝 (90) 縁起の法 その(4) 生によって
  仏陀の縁起は、老病死、略して老死です。老死という言葉を課題としてもちいましたから、老死は、なにによってあるかとたずねて、生によってあると。この生は、普通は単に生まれると解釈するわけです。けれども、生まれるという意味もありますが、いわゆる生全般という意味をもっています。“生によって老死あり、生なければ老死なし”ということです。生がなければ、老死がない。これは抽象的には、誰だって解りきったことでありますが、しかし、いたずらな議論です。抽象的にいえば、いたずらな議論になってしまいます。
           - 有によって -
 仏陀は、生によって老死がある、その生はなにによってあるかと、有によってあるとたずねた。有はつまり、一切の存在ということであります。つまり万法です。よろずのものがあるということです。有るということにすべてはおさまる。つまり、この世界があるといってもよいわけです。この有るということは、なんによってなり立つかというと、取によってある。執着といいまして、有るということは、それに取り着くからだということです。取り着くということがある。この世界があるということは、この世界に取り着くからです。われわれが考えてもいないことでありますけれども、この世界に取り着くということがあるからだということです。 (つづく) 蓬茨祖運述より
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 一月二日の記事より 「念」について
 「念」という心所は「勝解」を受けるというかたちです。境(対象)に対し善悪を明確に(はっきりと)確認し、認識をして決定する。それに応じて、「念」は認識されたものを明らかにして(記憶して)忘れない。(明認不忘)ということになります。「曾習(ぞうじゅ)の境に於いて。心をして明記して不忘ならしむるを以って性と為し。定の依たるを以って業と為す。」といわれています。曾はかって・以前にということで、過去のことです。習は経験です。よって過去に経験したことを確認し認識をして忘れないことが性質であるということになります。ここに「念」という心がはたらくのですね。はたらくことが定の依り処になる。私の経験したことのすべてが今を生み出しているということですね。それを私は忘れてはいないことに心が定まるということです。そうしますとそこに私の行き先・方向が決まってくるということになります。業は行為ですから過去の経験のすべてを依り処として明日の行動が決まるということなのですね。ですから方向転換ということはものすごいエネルギーを要するのです。しかしね。今、決定(けつじょう)することが大事なのです。なぜならこの念は善悪のどちらにもはたらきますから、選びがないのです。今が未来を決定するのです。忘れてはなりませんね。『法相二巻抄』には「経て過にし事を心のうちに明に記して忘れざる心なり」(過去に経験した事を心の中に明らかに、はっきりと記憶して忘れない心を念という)とより具体的に述べられています。この念が定をおこす因となるということなのです。欲望のままにということになりますと欲念ということになりましょうし、怨みを抱いてということですと怨念ということになりますね。仏を念ずることは念仏ということになりましょう。問題は私は何処に向かって歩いているのかということです。生きる方向です。それがはっきりしているのかが問われています。訓覇先生からお聞きしたことではありますが「火葬場一直線の人生を歩むのか」それとも「浄土という方向性をもつのか」はっきりせよと。「君たちね、何もはっきりしとらんから、のほほんとして仕事しとるんだろ。ようするに暇人なんだ。暇つぶしに仕事をしとるんだよ。本当にするべきことがはっきりしたらいてもたってもおられんよ。」と、今だ、はっきりせよときつく言われました。それでもはっきりしないのが私の業ですね。(仏かねてしろしめしてですね。お前はそんなものだ。心配することはない。そんなことはお見通しというわけです。)行き先がはっきりすると今まで覆われていたことが明らかに現れてくるのです。それを廻向というのではありませんか。如来廻向です。「一切苦脳の衆生を捨てずして心に常に作願して、廻向を首としたまいて大悲心を成就することを得たまえるが故にと」ということです。これが私にとって無碍道になるわけですね。人生が空過しない、空しく過ぎることのない人生をはからずも賜るということになりましょうか。心のうちで今何を念じているのか、この念の心所は私に人生の大切なことを教えています。」この記事は1月2日に投稿したものです。ここから、別境の心所・念について考えていくわけですが、重なる部分も多々ありますので、再掲載いたしました。尚、「定」及び「慧」についても同様の事がありますので、再掲載をしながら、もう一度考えてみたいと思います。
 「云何なるをか念と為す。曾習(ぞうじゅう)の境の於に、心を明記(みょうき)して忘れざら令むるをもって性と為し定の依たるをもって業と為す」(『論』)
 「念ノ心所ハ、経テ過ニシ事ヲ心ノウチニ明ニ記シテ忘レザル心也」(『二巻鈔』・鎌倉旧仏教所収p130)
 念の心所に於いて大切な一点は「定の依」であるということです。『述記』には「故に四法迹において念はこれ定の因なり」と説いています。
 四法迹(しほうじゃく)について - 四つの法の根本、基礎という意味。無貪法迹・無瞋法迹・正念法迹・正定法迹の四つをいう。
 即ち、念の働きが根本の基礎となって、定が成り立つわけです。そして、定を所依として慧が成り立つという連関があるわけです。 (未完ーもう少し考えてみます)