唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 想の心所について

2010-08-10 23:04:50 | 心の構造について

     第三能変 想の心所について述べる

 想とは、所縁の境に於いて、青・赤・黄・白等の区別の相を取るを本質とし、その所縁の境の上に青・赤・黄・白等の名言を施設することを働きとする、といわれるのですが、名言を施設するとは、名言を安立することであるといわれていますが、わかりにくい説明です。大田久紀師は「あらかじめ、身につけている価値観によって我々はものを見ている。言葉によってそれを分類していく。これは言葉による認識」であると、いわれています。

 「想は能く自境の文斉を安立す、若し心が起こる時に此の想無くんば、境の文斉の相を取ること能わざるべし」(『論』)

 巻三には「想とは境の上に像を取るをもって性と為し、種々の名言を施設するをもって業と為す」(p46)といわれ、良遍は「想ノ心所ハ、殊ニ物ノカタチヲ知リ弁テ、其ノクサグサノ名ヲ説ク也」と説明をしています。

 性は取像、像はかたちです。かたちをとる。対象の上に、外界から入ってきた情報を内なる認識をもって成立させていく。対象が何であるかを知覚する作用を想という。青色だと青色であって赤色ではないというように知る働きです。はっきりと知るときは必ず名言をもってとらえる。言葉を持って対象を把握する。業は名言を起す。言葉に由って理解する、概念化する。内なる知性とか感性によって言葉は生みだされてくるわけですから、言葉によって迷う・苦しむという事も起こってくるわけです。執着を起しますからね。「此の像を取るに由って便ち名言を起して此れは是れ青し等と云うなり。性類衆多なり。故に種々となづく」と、このような働きをする“想”の心所がなかったならば、どのようにして認識作用が起こるのであろうか。想の心所があるから認識作用は起こるのであるから、想は遍行であるということがわかるのである。