唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 五遍行であることの理証 ・ 釈尊伝 (74)

2010-08-07 18:18:11 | 心の構造について

003 犬もこの暑さには参っているのでしょう。エアコンの効いた部屋には入ってこないです。いつでも廊下のフローリングで寝そべっています。暑いと思うのですが、これは私の勝手な思い込みなのでしょうね。わたくし事ですが、昨夜、お爺さんが、尿を出すために膀胱からカテーテルをつけているのですが、尿漏れが激しく、水を飲まなかったら尿は出ないと言い張って水分を取らないのです。これには困りました。熱中症が心配でかかりつけの病院に相談しましたが、泌尿器科の先生が不在だから明日、外来にきてくださいという、なんとも冷たい返事でした。何とか水分補給をしてもらおうと努力しましたが駄目で、今朝も水分を一切、補給せずに早朝に病院に連れていきました。病院ではいち早く対応していただき、、カテーテルの交換を済ませる事が出来ました。、ホットしました。少し胸のつかえが収まりましたが、頑固な爺さんです、しかし爺さんの頑固さが生きている証なのでしょうね。

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 釈尊伝 (74) 自分を縛るもの その(4) 輪廻の世界

 ですから、結局、釈尊の残されたものをいろいろと調べて、そして結論をだすのです。結局、釈尊の結論というのは、釈尊もそういいながら死んだと、死んだけれども、しかしもうふたたび人間に生まれてこないということなのだと。今度生まれてきたら、死ぬことはやむをえない。またなにかに生まれ、老病死、老病死という苦しみを重ねて永遠に輪廻をまぬがれないという、そういう輪廻からまぬがれるというのだから、死ぬというと、すっかりなに者にも生まれないということなのだというような解釈になるわけです。

 そういうような解釈になると、なにもさとらなくても考えられるのであります。なにも釈尊の教えをかりる必要はないのであります。輪廻などということも考えられないし、仏教などということは、なにも問題にならないのであります。輪廻の考えがあるものに限って仏教は問題になるが、輪廻の考えがなければ、仏教などということはいらないことです。死後、再びうまれてこないというようなことは問題にならない。ただ人生というものが苦しければ死ねばいいということになるのです。それから後からまた生まれて苦しむものをださんために断種すれば良い。男か女かどちらかが断種してしまえば、自分のみならず、これから生まれてくる者もなくなるわけですから、自然と人類というものがなくなる。つまり輪廻の世界という、この世の人間がなくなり、初めてこの世が平和になるというようなことになるわけです。そんなことを考えなくても、今ある水爆(現在でしたら核爆発)を百発ほど落とせば、それで平和になるのです。結局、そういう妙な結論にもっていかれるわけです。 (つづく) 『仏陀 釈尊伝』 蓬茨祖運述より

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 第三能変 五遍行であることの理証

 その(1) 触の心所について

 「理とは、謂く識の起こる時には、必ず三和ながら有り。彼は定んで触を生じ、必ず触に由って有り、若し触無くんば、心心所法といい和合して一境に触せざる応きが故に」(『論』)

 「下は理証を引く。諸の識の起こる時には、必ず境を縁じ根に依るなり。三和有りと名づく。三和は定めて触を生ず。また触に由るが故に、方に三和あり。またもし触なき時には、心心所といい、離散し、和合して同じく一境に触すること能わざるが故に。いまは、既に三和合し、および心心所和合して、同じく境に触す。故に必ず触あり。定めてこれ遍行なり」(『述記』)

 (意訳)ここからは五は遍行であることの理証に入ります。初めは触の心所について述べます。まず最初は理とは何かを明らかにします。理とは識の起こる時には必ず根・境・識の三が和合して存在していることなのです。認識が起こる時には必ず対象と関係し根に依る、これを三和というのです。三和は必ず触を生じ、また触に由って三和が成立するのです。もし触の心所が無い時には心王と心所法は離散して和合することなく、一境に触れることがない、しかし今は三和合して触の心所は働いているのであるから、根・境・識が三和合して必ず触の心所がある。故に触は遍行であるという。

 『論』巻第三(p45~47に五遍行について説かれています)そこでは、触の心所について「触と云うは謂く三和合して変異に分別(ぶんべつ)し心・心所をして境に触れ令むるを以て性と為し。受・想・思等の所依たるを以て業と為す。謂く根・境・識と更に相随順せるが故に三和と名づく」と述べられています。つまり根と境の認識対象と識の三つが和合して触の心所が生じるのです。そしてその働きによって受・想・思の所依となると説かれています。変異は三和合する以前と以後では状況が全く異なることから変異といわれるわけです。意識が働いている時は、恒に三和合して何かに触れているわけですが、三和合していない、認識対象はすべて闇に葬むっているわけですから、触れている今は非常に狭義の世界で生きていると云わざるを得ません。根・境・識が和合するのか、しないのかが認識が成立するか、しないかに尽きるのでしょう。根・境・識がばらばらでは認識は成り立たないのですね。また、ここに厳密な説明がありまして、三和の成立が、三和合して触の働きを持つということではない、といいます。三和合したところが触の心所というのは三和成触の義といいまして、法相唯識ではこの義は採用しません。唯識では「二・三・四和合するに因って生ずと説けり」といわれますように、三和合したところに、新たに触という心所が生まれてくる、そしてこの四つが揃ったときに認識が成立すると考えます。三和生触の義です。これを採用します。三つが和合しても触の心所が働いているかどうか怪しいというわけです。

 分別(ふんべつ)と分別(ぶんべつ) - ふんべつは心の働きが認識対象を思推し量ることを意味しますが、ここのぶんべつは(三和)に似ていることを指します。