勝解を遍行とする有部の異師(雑心論師)の説を挙げ、後、護法が論破する。
「有るが説かく、心等の、自境を取る時には、拘礙(くげ)すること無きが故に皆勝解有りという」(『論』)
(有部の説) 有部の論師は次のように説く。心等がその認識対象を把握する時には、障碍が無い為に、すべてに勝解が存在すると主張する。
有部のいう勝解は法相唯識でいわれる勝解とは同じ字ではあっても意味が全く違うのです。『述記』に「謂く大乗の境を印して決定するを名けて勝解となし、即ち疑心のうちに全に勝解なきが故にというに同じからず。我宗はただ物の心を拘礙することなく、心をして境において能く縁ぜしむるもの、即ちこれ勝解なりという。故に遍行に摂す」と。有部の説は心が対象を認識する時には、障碍がないので、全に勝解はあるとする説なのですが、法相唯識でいわれる勝解はは「印して決定する」働きを勝解はというのですから、全く異なるものなのです。
(護法の論破) その(1)有部の異師の説を論破する。
「彼が説くこと理に非ず。所以は何。能く礙せずといわば、即ち諸法なるが故に、礙せざる所をいわば即ち心等なるが故に」(『論』)
「汝拘礙せざる者と言うは、若し是れ能不礙を勝解と名けば、心・心所を除いて以外の法は。皆是れ能不礙なり。心・心所が増上縁と為って皆、礙せざるが故に。若し是れ所不礙ならば、即ち心・心所は皆是れ所不礙なるが故に。心等と言うは、心所を等取す。何ぞ但一法ならん。若し彼れ救して但だ勝解の増勝の力に由るが故に、彼の根と作意と方に能く発起すと言わば」(『述記』
(意訳) 彼(有部の異師)の説くことは理にあてはまらない。その訳はなんであるかというならば、よく拘礙(障害)しないということは、心・心所を除いた諸法すべてにあてはまることである。即ち、すべてがよく障害しないということである。また、これ所不礙(障害されない側)ならば、心・心所は皆、所不礙になってしまい、すべての心等が勝解となり、一つの勝解がありとあらゆることに勝解が存在することになってしまうので、有部の異師の説は誤りであるという。(未完)