唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 遍行・別境  ・ 釈尊伝(71)

2010-08-01 23:01:42 | 心の構造について

                             ー 釈尊伝 -

 解脱の道 第一章 合理主義 その(62) キリスト教

 「ともすれば、そういう意味で考えられます。キリスト教が不合理だというけれども、キリスト教の生命は、その不合理なところが生命でして、それを合理的にするという運動は、キリスト教というものはどちらかというと、キリスト教らしくなくするわけです。キリスト教というものの魅力は、やはり人々が非難するところにあります。それを合理的に解釈するところからは、キリスト教の信者は生まれないのです。生まれてくるのは鑑賞者です。牧師が新聞なんかに発表するものの中に、山とか河とか海という自然は、神の裾模様のようなものであるといっています。これは観賞です。眺めています。趣味の立場でいえば、そういっておればよろしいのであります。けれども、一日決められたと通りに朝から晩、晩から朝と同じ道を、何の意味もなく行ったり来たりすることが神の裾模様であるといわれても、そんな裾模様は埃だらけの泥まみれの裾模様にすぎません。裾模様というと、われわれは今日、結婚式か、芸者の姿にしか見られませんから、何かきれいなという意識がありますけれども、それが裾模様ならば、結局、交通事故も裾模様、殺人強盗も裾模様になるわけです。学園紛争などはまことに美しい裾模様ということになるのでしょう。 『仏陀 釈尊伝』 蓬茨祖運述より

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     第三能変 遍行の意味を釈す。

 「此れのみを遍行という相云何が知る応き」(『論』)

 「下に三あり。初めは問、次は答、後は結なり。頌に言うところの遍行の義を釈す。初めに薩婆多(説一切有部)等は、ただ五のみ遍なりということを問う。経部師(経量部)等は実の五のみあって、もって遍行となすことを問う」(『述記』)

 (意訳) これのみが遍行であるという、その相はどのようにして知られるのであろうか、という問いが出されています。有部の教学や経量部の教学を想定して問いが出されているのです。有部は遍行と別境の区別を立てないのです。『倶捨論』に依りますと、法の分類が五位七十五法で、唯識でいわれる遍行・別境は大地法の十の中に摂められています。受・想・思・触・欲・慧・念・作意・勝解・三摩地(定)の十の心所が配当されています。

 (解説) では何故、唯識では大地法の中から、遍行と別境を分けたのでしょうか。大地法とは、心王(有部では一つ・六識同体という)が生起すれば、必ず同時に相応して起こる心所の一群であって、唯識で言う、遍行の意味と同じ性格をもつものです。しかし、別境は「各々ノ境ヲ縁ズルガ故ニ」と、法相唯識が遍行と別境を分けた理由はここにあります。即ち心王が生起する時には必ず倶に起こり、活動する心所ではないと考えたことが伺われます。ここに法相唯識の立場が鮮明にされるわけですが、その手がかりが有部の哲学であり、経量部の哲学であるわけです。これからこの問いに対する、護法の答えを学んでいくことになります。