昨日は、書き込みを終了して保存をクリックしたろころ、全文がどこかへ飛んで行ってしまいました。「あれ」といった感じです。もう一度、学びなおしなさいということでしょうか。勝解について『論』・『述記』に眼を通していたのですが、「猶予」ということについて、考えさせられることがありました。猶予は疑惑なのですね。何に対して猶予せられているのかというと、人生ですね。生きていることへの疑惑が猶予せられているのですね。法律で云いますと、刑法ですね。執行猶予という判決がありますが、何年かの間は刑を猶予する。疑惑が有るのだけれども、その間何事もなければ、再犯しない限り刑を免除するということです。しかし、その間は疑惑・疑いが有るわけです。疑いが猶予なのですね。私の生き方についていうならば、「生かされて生きてある命の尊厳」に目覚める事に猶予が与えられているのでしょうね。目覚めるまでは私自身を疑っているのですね。仏智疑惑です。人生に猶予が与えられているということに、大きな意味があります。私は、私自身の本当の生き方に目覚めを待つ存在であるということです。それがはっきりし、決定し、確定し、翻らないことが勝解の心所なのでしょう。
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釈尊伝 (85) 梵天の勧請 その(7) 造物主
その娑婆世界の主というのが、梵天と名づけられる神様であります。最高の神です。この神が釈尊に“どうか法をこの世の衆生のために説いていただきたい”と願ったというのです。梵天の梵というのは清浄という意味なのですが、天というのは最上という意味であると解釈してよかろうと思います。つまり、一切万物は梵天より生じたというのであって今日においてはそういう梵天というものは認めないけれども、それは梵天という特殊な存在を考えるからで、意義から言えば、一体この万物を造ったものはないであるかと問われたら、いわゆる神を否定すれば、もう自然というより答えようがありません。自然が造った。あるいは自然にできたというより仕方がないです。自然というものはとくに造ろうという意志があって造ったのか、造ろうという意志があって造ったとすれば神ということになる。意志なくして造ったとならば、自然ということになる。いずれにしても造られたものからみれば同じことです。意志なくして造っても、意志があって造っても同じことで、ただ意志があって造ったものには、多少、小言がいえるということぐらいのことです。われわれが親に小言をいう場合に“誰が造れといった”というぐらいです。しかし“造る気はなかった”といわれたら、なんとpもいいようがないです。“なにもお前を造る意志はさらさらなかったのだ、大いに迷惑であった”といわれたら、これは小言のもっていくところがない。“怨むなら自然を怨んでくれ、こちらも自然に造られたのである”ということになる。造られたものという立場からいえばかわりはありません。 (つづく) 『仏陀 釈尊伝』 蓬茨祖運述より
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第三能変 別境 勝解の心所について
「云何なるをか勝解という。決定(けつじょう)の境の於(うえ)に印持(いんじ)するを以て性と為し、引転す可からざるを以て業と為す。謂く、邪正等の教と理と証との力を以て、所取の境の於に審決(しんけつ)し印持す。此れに由って異縁あって引転すること能わず」(『論』)
勝解は対象(境)がいかなるのもであるかを確認して了解する心作用で、確認するということ、断定する心作用です。勝は勝れたという意味で、殊勝な了解の意ともいわれます。対象を明了に了解し、そのいかなるものかを断定する心作用です。『瑜伽論』には信解と云い現わしていますが、審らかに決定(審決)する力が勝れて、さらに動揺しない心作用といわれています。尚、『二巻鈔』には「勝解ノ心所トハ何事モヒシト思ヒ定ル心也」と良遍は述べています。また「勝解は旧訳では解脱と云う。・・・・殊勝の領解なり。是れに違いないと決定するが、勝れた解を発した処の故なり」と説明されています。
決定の境に対して印持する、心に刻みつけることが本質であって、その働きは引転すべからざること、動かないことである。それが勝解の心所なのです。引転しないということは、断定であり疑惑の無いことであるといわれています。その反対は引転すること、即ち疑惑することですね。その疑惑があるということは、勝解の心所は生まれてこないということになります。つまり対象に対して認識が確定しない状態です。これを疑惑というのですね。そしてはっきりするまで猶予するというととですね。はっきりさせなさいということです。疑惑があるからはっきりしないのです。それが疑惑だと。疑惑が、そのまま猶予という意味をもつのです。猶予不成の猶予がこれにあたるといわれます。対象が確定していないにもかかわらず、あたかも確定したかのように、確定因として用いて、主要命題を立てた時の過失であること、といわれます。
「述して曰く。 謂くこの勝解は(1)邪教と邪理と邪証等の力、(2)或いは正教等の力、(3)或いは邪正に非ざる教と理と証との力、即ち汎の所縁によって、所取の境に於て、この事はかくの如し。かくの如くならざるにあらずと審決し印持す。もって勝解を生ず」(『述記』)
『述記』には勝解は上に述べていますように、三の理由によって生ずといわれているのです。そして傍線の言葉ですが、勝解はこれだと、核心をついた言葉です。原文では次のようになります。
「即汎所縁。於所取境審決印持此事如是非不如是」
所取の境(客観的対象)に対して、これはよい(如是)、これは正しくない(不如是)と決定していく。はっきりとものを確認していくのが勝解であるといいます。そして次の言葉、文章も大切なことを指し示しています。
「或いは、教とは教示なり。或いは言説なり。ただ転た習するによる。理とはこの道理あるなり。四諦、真実の理をいおうに非ざるなり。即ち一切の事と及び真理を摂す。謂く、この水(事)がこれ水の理なり等、乃至、一切の法もまた然り。証とは即ち禅定を修するなり。或いは諸識の現量等の心の能く審決するものに、みな勝解あり。この道理によって印可を生ずるが故に。さらに異縁あるも引転して、この心の中にさらに疑惑を生ぜしむること能わず」(『述記』)
傍線の部分は「此木是木之理等(此の木は是れ木なるの理等なり)」と板木には記されているようです。
(意訳) 勝解という心所は、邪や正等(無記を含む)の教と理と証の力によって、認識対象(所取の境)にたいし、審決し印持するものである。これに由ってその確定を翻すような揺さぶりがあったとしても(異縁)、その確定を翻すことができなくなるような確定が勝解という心所である。
勝解の心所も欲の心所と同じように三性に通じる心の働きであることが解ります。
(教)は教え、教示すること。そして言説のことであるとし、転習することであるという。転習は言い習わしのこと。言葉でもって教を伝えるということ。 (未完)
8月22日(日) つづき
(理)とは四諦の理というにとどまらずに、すべての道理と真理(一切の事と真理を摂す)を含む。木の譬えがだされています。木は木としての事と理までをも含むと言う事。また水という事は水の理によって事・理不二であるということです。
(証)とは禅定を実践すること。或いは「諸識の現量等(三量ー現量・比量・非量)の心の能く審決するものに」と云われていますように、比量(推量)であっても、非量(誤った認識)であっても、審決(審決印持ー確定する)する場合は勝解になるといいます。
(異縁)という、「さらに異縁あるも引転して、この心の中にさらに疑惑を生ぜしむること能わず」と。教と理と証の力によって、たとえ邪悪であれ・善であれ・無記であったとしても、「如是・不如是」等と認識内容を確定し、その認識内容を変更したり、疑惑を起すことがあっても、その確定がもはや翻ったり、その内容に疑惑を生じたりすることはない。「もって勝解を生ず」と。このような心の働きが勝解という心所なのである、ということです。このことを良遍は「ヒシト定マル心也」と一言でまとめているのです。