唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 別境 勝解について ・ 釈尊伝(86)

2010-08-22 23:02:57 | 心の構造について
  釈尊伝 (86) 梵天の勧請 その(8) 梵天勧請

 ですから梵天ということは、結局、自我であります。抽象的にいうならば、梵天という。いわゆる一切万物を造ったというもの。そういうものがなくて、自然が造ったんだといっても、造られたものはなんであるかというと、やはり、造られたものは自我なのです。在るものは自我です。その自我は誰が造ったかといえば、やはり自我が造った。 したがって梵天が誕生したということは、世の中の聞いてもわからない衆生が、やはり法を説くことを願っているという一面があるということです。「梵天の勧請」といえばはなはだ理解しかねるのです。けれども、聞いてもわからない、わかってもわかったことがかえって自我の立場から解釈してしまって、自分を縛る材料としてしまって解脱することができる道とはならない。それで説くのをためらわれたという一つの話です。一つのちょっとしたエピソードですかれども、これは聞いてもわからない衆生が、やはりそれにもかかわらず救いを求めているということです。で、釈尊のためらいは人間的に考えられますけれども、むしろ釈尊の教えがわれわれ助からん衆生のための教えであるということを示すための物語であるといえるかと思います。 (つづく) 『仏陀 釈尊伝』 蓬茨祖運述より
              - ・ -                   第三能変 別境 勝解について(遍行ではないことを説く)   「故に境を猶予するには、勝解全てに無し、審らかに決せざる心にも亦勝解なし。斯に由って勝解は、遍行に摂せらるるに非ず」(『論』)                           (意訳) 故に(従って)、認識対象が何であるかを確定できず、猶予(疑惑)する場合には、勝解は全く存在しない。また、審らかに決定しない心にも、また勝解は存在しない。これに由って、勝解は遍行ではないことがわかるのである。  (勝解が存在しない場合とは) 『述記』には「即ち疑心のうちには全く解(勝解)起こることなし。即ち染心のうちに少分なきなり。審決に非ざる心にもまた勝解なし。便ち三性の心に通ず」と記されています。整理をしますと、(1)疑惑がある心・(2)染心の一部・(3)非審決心の三つが挙げられています。 染心の一部とは、安田先生は「勝解を前提として信が成り立ち、信が欲を呼び起こす。しかしまた、煩悩の心所を見ると、不信という煩悩が算えられているが、こういうふうに煩悩にも間違って理解したり、間違って法を信ずるということもあるから、ここでも欲や勝解が認められる。だから遍行とは別であるが、善染両方の基礎になる」(『選集』巻三p291)と述べておられます。 『正信偈』に「一切善悪の凡夫人、如来の弘誓いを聞信すれば、仏、広大勝解の者と言えり」。信心とは聞信勝解ですね。信解です。自己が自己自身がはっきりする。一切善悪の凡夫人と確信する。或いは「出離の縁あることなし」と疑うことなく、自身を深信する。決定するわけです。ここに真の仏弟子という意味を表しているのです。本多弘之師の『正信偈』講義を引用させていただきますと、(第六巻p91・三重県四日市 聖典学習会編)「仏言広大勝解者、是人名分陀利華」を釈して、「信巻」の「真仏弟子釈」のところに親鸞聖人が引用になっています。・・・「広大勝解者」と「分陀利華」という言葉をお採りになって、信心の利益として賜る真の仏弟子の意味というものを表しておられるわけです。「勝解」というのは、これは『唯識論』の心所の定義では、「欲・勝解・念・定・慧」と、別境の心所のひとつに数えられています。「欲」というのは、意識が起こって何かものを判断したりするという時に深いところから起こってくる意欲のことです。わかりやすい言葉でいえば「関心」ですね。「あっ、これ何だろうな」という関心。人間の関心を「欲」という言葉で言うのです。そして、「あっ、これはこういうものだな」という了解。それを「勝解」と言うのです。唯識では「信」という心理作用(信ずるということ)を「善の心所」と押さえます。善の心所は仏法の生活を勧めるはたらきをするものです。妨げるはたらきをするものには「染」という字を使って、併せて善と染との心所」と言います。まあ悪と言ってもいいわけですね。妨げるほうが悪で、仏法の生活を勧めるほうが善です。善の心の代表として「信」ということを押さえる場合には「欲と勝解」」ということを言うのです。まず、仏法の生活を意欲するものがある。「願心」とか「菩提心」とか言われる意欲(「欲」)がある。そして、仏法に対するある意味の理解(「勝解」)がある。仏法とはそういうものであるという理解です。これら二つのことがなければ「信」はないと。まあ、仏教における「信」の基本的な定義として「欲」と「勝解」ということが言われるわけです」。と述べておられます。