別境 ・ 念の心所について、その(4)
体境・類境のニ義について、『述記』の記述を読みながら、考えています。「むかし、受けしところの境」、過去に直接的に認識した対象を体境(念の中に、すでにかの体を受けしことあり)といい、或いはそうでないもの、直接的に認識するものではなく、間接的に、その対象を認識するものを類境と。間接的にという意味は、「無漏を縁ずる染汚心等の如し」といわれ、無漏という認識対象の名前を縁じるということが、類境といわれるのです。私たちの染汚心をもって、無漏の教えを念じられるのか、真如を認識するというということはどういうことなのか、「真如を縁ずる等は、かの類と名等を縁ずと名づく」といわれていますように、真如という名前を尋ねることによって、「むかし受けた認識対象」になるというのです。名前を聞くことに於いて、仏法が憶念されるということです。私もHPで書き込みしていますが、かって二十代の頃、少しばかり仏法に触れる機会を与えられました。しかし、いつの間にか、世間の荒波に翻弄され、自己中心の生活を送っておりました、今もその流れは断ち切れてはいませんが、それから、四十年経て、仏法が我が身の中にしみ込んでいるのを覚えます。かって訓覇先生が「仏法は毛穴の中に染みいるものだ」と教えられていましたが、その事の意味が、今の私には本当に「ありがたい」という意味をもって、私を迎え入れてくれています。無漏の教え、真如という言葉、仏を念ずるということなど、その名で真実を尋ねる場合、それが「曾習の境」となり、念の対象となり得るといわれています。「曾受にあらずといえども、曾し名を受けしが故に・・・名づけて曾の体となす。またかの類ともなづく」と。直接的に仏を観たこともなく、無分別智の真如も観じたことがなく、涅槃も証してはいないので、体境としては念の境にはならないけれども、その名を縁じることにおいて、類境として念の境として成り立つといわれるのです。教えを聞くことの大切さが教えられています。聞法を通して、我執を縁として必至滅度の道が開かれるのですね。我執は染汚心ですが、この染汚心が、類境として、無漏を縁じることが出来ると説かれています。また、「他界縁の使等を並にかの類に摂す」ともいわれています。他界の縁の使いなども類境に摂める、と。これは三界のなかの上界ですね。私たちは欲界でうごめいているわけですが、その欲界のなかで、上界(浄土)の事を名で尋ねて縁じる事であると説明されています。聞法が念の対象になり、心に明記して忘れないこと、という意義を持ち、聞いたことは、必ず身についているというになるのですね。そのことが、私をして願生浄土の道を歩ませるのです。