解脱の道 第二章 自分を縛るもの
その(1) 解放の道
この合理的に考えるということが、決してこれは人間を解放する道にはならない。不合理というのは、むろんデタラメよりほかならないのですから、これは人に迷惑を与えるだけにすぎません。それは人から迷惑をうけても文句がいえないという仕返しにすぎませんから、それが必ず人間の解放だなどといえるわけがありません。ですから、そこに仏陀が問題としましたのは、このデタラメは無論のこと、合理主義といえども、われわれを縛って動かさぬものにほかならない。そういう意味を老病死と表現されたのであります。仏陀はその当時、誰も問題にしなかったことを問題にした。それは老病死というものをいかに解脱するかということを求めたということです。そして老病死の解脱の道を探して歩いた。探してあるいたけれども、どこにも真の解脱の道はなかった。これこそ解脱の道だという教えはあったけれども、実際にその通りに実践し、その結果というものに至ってみると、依然として縛られている。それに縛られるだけであって、その結果に今度は縛られるのであって、真の解放ではなかったということです。したがって最後に、求める道が他にないことになる。他になくなれば、もう他に探しまわるということは無益のことであって、この上はその道の解脱を、つまり老病死からいかに解放せられるかということを、自分自身に探すよりほかにないことになった。つまり師なくしてみいだす以外にないということです。今まで教えてくれる師を探して、その師の教えによってたどりつこうとしていた。ところが、そういう師はなかった。そこに師なくしてその道を自分自身に求め、そしてついにその道をみいだしてさとったと、これを無師独悟というのです。 (つづく) 『仏陀 釈尊伝』 蓬茨祖運述より
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第三能変 遍行における問いと答え
「教及び理に由って定量と為るが故に」(『論』)
護法の答えになります。初めは総、次は別、ここは総答にあたります。教及び理の二門によって知られるからである。第二能変・末那識に於ける二教六理証(末那識の存在証明 p100)の初めに「聖教と正理とをもって定量と為るが故に」と述べられていました。即ち何故「末那識」の存在証明は、聖教という文献的根拠と正理という理輪上から知られる証明をもって、正しく対象を把握し認識する基準とする、と云われていたことと同意になります。遍行は聖教と正理によって、その心所が個別に存在することが証明される。そのことによって、その相がわかるのであると、述べられています。